第15話 排水溝からの刺客
仕分け箱の脇で、ぴちょん。
透明な水音がして、足もとの排水溝から、小さなスライムがぽとりと漏れ出した。つるん、と半透明のゼリー。まだ子どもらしく、ころころ震えている。
「あらま、また抜けたかい。排水の隙間をすり抜けて、よく顔を出すんだよ」
カルメラ婆さんが眉をひそめる。
「やだ……羽に付いたら落ちないんですよ!」とペルネ。赤ん坊をかばって羽をぱたぱた。
小スライムは楽しそうにぴょんぴょん跳ね、床にぬるりと道を描いた。ぬかるみの線が光のキノコへとつながり、きのこ傘がぼわっと一つ、二つ、灯りだす。
半地下のゴミ捨て場が、青白く染まった。朝なのに、ちょっと不気味だ。
「うわ、雰囲気出すぎ……。先週、ほん怖を見ちゃったのよね」
さつきの背筋がぞくり。
後ずさったとき、足もとがぬめって、サンダルがつるんっと滑る。
「きゃっ!」
次の瞬間――どん! さつきの拳が反射的に床へ。
鉄――拳――ゴツン!
衝撃でスライムがびよんと跳ね、キノコの光も点滅し出す。床のぬめりがぴしっと割れる。
「……あ、いけない。ちょっと強かったかも」
小スライムは壁際でぷるぷる震えていたが、やがてぴょこりと体を起こす。ぶるん、と震えて、弾けることなく元通り。
「うまいこと“ゴツン”になったな」カルメラ婆さんがうなる。
「赤ん坊の笑い声に負けない迫力でしたよ」ペルネが苦笑して羽をなでる。赤ちゃんフェアリーは笑いながら、スライムに向かって手を振った。
さつきは額の汗を拭い、深呼吸。
「ふぅ……ごめんね。静かに遊ぶなら、また出てきてもいいから」
ぴとん。小スライムはおとなしく排水溝に戻っていった。キノコの光も消えて、ゴミ捨て場はまた朝の空気に戻る。
肩の力が抜けると同時に、カルメラ婆さんが火ばさみで床のぬめりを軽く撫でる。
金属音が一度、通路にひびき、湿った空気を切り分ける。
「これで一件落着。次からは“未判定”じゃなくて“整え済み”に回せそうだわ」
「団地の平和に、ちょっとゴツン……」とさつきが肩をすくめる。
「ゴツンで済めばいいですけどね」ペルネがフフっと笑う。
赤ん坊の二枚羽がぱたぱた。光る欠片がひとつ舞い、残光は消えたキノコの跡に小さな星を置いていく。
団地の朝は、やっぱり奇妙。けれど、その奇妙さごと、胸の奥があたたまるのだった。
***
ゴミ捨て場を抜けて通路を曲がると、魔力ランタンがふっと明滅した。
団地の喧噪が遠のき、代わりに鼻先をくすぐったのは、お米を炊く甘い蒸気と石鹸の泡。
ガチャリ。扉を開けると、台所から湯気。
エプロン姿の旦那が、お玉を持ったまま振り返った。
「おかえり、さつき。朝のゴミ出し、お疲れさま」
「ただいま……あのね、ちょっとスライムに、ゴツンしちゃって」
言いかけて、口ごもる。
旦那は眉を下げて、いつもの調子で笑った。
「ふふ、大丈夫そうならよかった。君が無事なら、あとは笑い話だね」
さつきの肩が、ふっと緩む。青白い光の残像は、台所の蛍光灯に溶けていった。
「ほら、手、洗って。もうすぐお味噌汁ができるから」
「うん。あっ……ごめん、麦茶、出しっぱなしだったかも」
「大丈夫。むしろ朝は冷えすぎてないほうが腸にいいらしいって」
声がやわらかく、台所の空気もまるい。
団地の奇妙さも、ゴツンも、ぜんぶ遠くなる。ここは、二人の温度だ。
さつきは手を拭き、旦那の背中を軽くつつく。
「じゃ、いただきますの前に……はい」
「はい?」
「あなたに感謝のゴツン。――こつん」
拳で、そっと肩を小突く。
旦那は声をあげて笑い、お玉がカランとお鍋にあたった。
その音と一緒に、湯気がふわり、二人の間に広がった。
<団地の朝と、ごみ箱の星 完>
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