第7話 肉じゃがは琥珀色

 ガチャリ、と扉を開ける。


「おかえり。すんごい音したけど、大丈夫?」


 旦那が心配そうに立っていた。眉が少しだけ上がって、声はやわらかい。


「うん、平気……ただいま」


 口は平気と言うのに、耳の奥ではまだ低い残響がゆらぐ。体が日常の温度に戻るまで、あとひと息。


「――って、あっ」


 台所。


「やだ、肉じゃが、火にかけっぱなし!」


 鍋へ駆ける。蓋を少しずらすと、湯気がふわり。甘い匂いに、ほんの少しだけ醤油の角。怖いけど、勇気を出して見る。


「……あれ?」


 覗いた鍋の中で、じゃがいもはニンマリ、牛肉はキュンキュン。煮汁は琥珀に澄んでいた。焦げ縁なし。表面に小さな泡が、ぷつ、ぷつ。


「見張ってた」背後で、旦那。「いい子に育ってたから、火、ちょっとだけ弱めて」

「……やさしい」


 肩の力が抜ける。胸のどこかが、温かくなる。


 味見。お玉を口に近づける。ふう、ふう。ひと口。

 ――うん。大丈夫どころか、よくできた。


「よかった……」安堵が込み上げる。「お腹すいた? すぐに盛るね」

「焦らなくていいよ。お茶いれるから、その前に深呼吸」


 器を並べる。湯気が二人のあいだを往復し、蛍光灯で煮汁がきらり。

 お箸を手渡す指先が、かすかに触れた。


「はい、どうぞ」

「どうも」


 最初の一口で、旦那の目尻がとろりと下がる。


「うまっ!」


 その一言で、今日が報われる。

 団地の音も、元通り。いい夜だ。


「ねえ、あなた」

「うん?」

「明日は、卵焼き、練習しようかな」

「賛成。俺も応援する。味見、何回でも」

「んもー、太らせる気?」


 笑い合う。湯気も笑う。


「いただきます」


 二人の声が重なり、お箸が同じタイミングで動いた。


 さつきは、心の中で小さく頷く。

 こういう夜を守りたい。何度でも。この手で。



 <『夕餉の湯気と団地の音色』 完>

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