第6話 やさしい鉄拳、日常を返して

 祈祷の声が、団地じゅうの食器棚までゆらしていた。

 壁も床も配管も、同じリズムでこつこつと鳴る。


 さつきは、そっと扉を閉める。

 顔から、不器用な主婦の影が、すっと薄くなる。

 足音は静か。

 すれ違う住人が半歩よけて、小さな子が指を振る。さつきは口元で笑って、ひとさし指を口に当てる。――あとでね。


 中央の広場。例の扉の前。

 向こうから、あの声。


「グルモ、グルモ、アガッ! アガッ!」


 ノブに手をかけ、ゆっくり回す。ガチャリ。


 視線がぶつかる。上半身裸のオーク。


「また来たのか、こんがりエプロンめが!」


 さつきは何も言わない。息だけ整える。


「焦げたクッキーでも焼いてろ! 旦那に泣きつくのがお似合いだ!」


 ――焦げたのは事実。それは正解。言い方、マイナス百点。

 胸の奥が、すうっと冷えた。怒りというより、調味料を雑に扱われたときの、あの感じ。


 まぶたを一度だけ閉じて、開く。

 目の奥に、静かな光がともる。


「――日常、返して」


 右手が上がる。無駄のない軌道。くるり、と手首が返る。


 鉄――

 拳――

 制――

 裁――


 音が消える。

 次の瞬間。


 ドォォォォォォン!


 広場の床が低く鳴った。

 壁のひびで魔力の火花がぱちぱち走り、上空の飛竜が驚いて、すこし高い空へ退く。


 部屋の中央のトーテムポールは、粉砂糖みたいにさらさらと崩れた。木片がひとつ足元に転がり、赤い刻印がちらり――〈管理印〉。だれの印かは、あとで考える。


 祈祷の声が止む。

 代わりに、帰ってくる音がある。

 窓辺の風鈴。どこかの台所で蓋がこつん。保育スライムの小さな鼻歌。廊下を走る子の笑い声。

 ――うちの団地の音量が、ふだんの位置に戻っていった。


 オークは無傷のまま床に尻をつき、目を白黒させている。口がわずかに動く。「……守りの柱、だった、のに……」迷子のつぶやきだった。


 さつきは、小さく息を吐く。


「……いけない、いけない」


 ぽんっと軽くジャンプして、静かな足取りで家路を急ぐ。

 その顔は、いつものドジでお茶目な団地妻に戻っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る