第4話 門前払いと、邪気払い
翌日の昼下がり。
さつきはエプロンをきゅっと結び、お皿にクッキーを並べた。
いびつな丸に、うっすら焦げのデコレーション。
旦那の大好物を、例の住人にも――仲良くなるきっかけは、甘い方がいい。
お皿を抱えて廊下を抜ける。
壁の据え置きスピーカーは混線中で、金属音が遠くでキン、と跳ねた。石鹸、唐辛子、少しだけ線香――匂いが層になって流れてくる。
足元ではランドセルを背負った小型スライムが通学中。
そして、広場の方角から、腹にくる低いビート。
やがて中央の広場。
不規則に積み上がった建物の群れの中で、ひときわ大きい一角――例の部屋だ。
「グルモ、グルモ、アガッ!」
中から、いっそう大きく、不気味な声。
さつきはノックした。返事は、ない。あるのは、
「アガッ、グルモ、アガッ、グルモ!」
という一定のリズムだけ。
意を決してドアノブを回す。ガチャリ。開いた。
「あの、三〇一号室のさつきと申します。これ、ほんの気持ちですが……ご挨拶のつもりで」
お皿をそっと差し出しながら中を覗くと、そこは異様な空間だった。
上半身裸のオークの男。胸には奇妙な紋様。腰の毛皮には小さな骨が揺れている。
部屋の中央にはトーテムポール。
根元に赤い札が一本、ぎゅっと結わえられていた。雑な縫い付け跡――管理の印みたいで、でもどこか素人仕事。
男はその前で震える肩を上下させ、祈りを捧げていた。
「あの……グルモさん」
「神聖な儀式を邪魔するな!」
と、グルモは怒鳴ると、二歩で扉まで来る。お皿ごとぐいと引き寄せ、クッキーだけをまとめてむしり取った。
「で、でも、騒音が――」
「邪気払いだ! うるさいなら、お前が団地から出ていけ!」
扉が閉まりかける。
「待って!」
さつきは思わず手を伸ばし、段差に足を引っかけた。バランスを崩す。
「ひゃっ!」
前のめりの体が、屈強な胸板に弾む。汗と焚き火の匂い。石鹸と、少し焦げたクッキーの甘い残り香。距離が、近い。
グルモは一瞬だけ目を泳がせ、頬にわずかな赤。
すぐに我に返り、さつきをぐっと突き放した。
「二度と来るな! あと、俺の名前はグルモじゃねえ!」
バタン。
扉が、冷たく世界を割った。
さつきはその場にしゃがみ込む。手のひらには、お皿の縁から落ちた欠片がひとつ。ラップの上に、砂糖の白が小さく光る。
「……旦那なら、喜んでくれたのに」
小さな声は、薄暗い通路に溶けていった。胸の奥が、ひやりと沈む。それでもお皿を抱え直し、さつきは立ち上がる。
この場所で暮らすつもりなら、甘い手から始めたい。
今日は、うまくいかなかっただけだ。
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