第20話
「私のことを知っているって?」
「はい。社長の下で働いているのかって……」
ハヨンが東京へ発ったその日、ドビンは前日に起きた出来事をイェリンに話した。
「どんな顔をしてたの?」
「一人は顔に少し肉がついていて、金のネックレスをしてました。方言も使っていたので、多分地方の人かと。」
「は? そんな曖昧な情報じゃわかるわけないでしょ。」
「昨日、僕の額を殴った人は背が低くて、頭を丸刈りにしてて、体格はかなりがっしりしてました。そして彼らの中に兄貴って呼ばれてる人がいて……その人が、社長の名前を出してきたんです。スーツを着てて、顔は細長くて、冷たい目をしてました。」
「うーん、誰だろうね。髪のことで絡んでくるってのは、単なる嫌がらせじゃなくて、何か意図があるってことだよね。他に何か言ってなかった?」
ドビンはハヨンの件については伏せた。
脅迫の内容を省きつつ、それまでの流れを交えてなるべく詳しく説明した。
彼が知りたいのは、彼らが何者かということだった。
「うん……ただ、象の糞コーヒーだけは用意しておけって言われました。」
「ハハハ、象の糞コーヒーなんて、よく言うわね。ソ代理、これからこういう仕事をしていくなら、そういう客、ああいう客、ハエからウンコバエまで、いろんな奴らに会うことになるんだからさ。そんなウンコバエみたいな連中に毎回振り回されてたら、仕事なんて進まないわよ。でも……それにしても、そんなことで暴力を振るうなんて、おかしいわよね。」
イェリンは少し考え込んだ。
「キム部長に調べてもらおうか。私の名前を使って変なことしてるなら、余計に気になるし。」
「お願いします。」
「まだ痛む?」
「いえ、病院に行くほどではありません。」
「そう、じゃあよかった。調べるように言っておくわ。何かわかったら連絡する。」
通話を切ったあとも、ドビンの中には妙な不安が残っていた。
自分に突然降りかかったこの出来事が、いつか一度は経験するべき通過儀礼のようなものだと頭では思っていても、それが、恋人として付き合い始めたばかりの相手と関わりがあるとは、どうしても想像できなかった。
イェリンとの通話を終えると、その日の予約者である記憶消去の申請者が訪れた。
芸能人志望の若い女性だった。
イェリンとの通話を終えると、その日の予約者である“記憶消去”の申請者がやってき
「芸能人になるには、過去の恋愛関係を含む“不要な記憶”を消し去らなければならない」
そんな噂をどこで聞きつけたのか、二十歳の少女は、コツコツとお金を貯め、この日を迎えたのだという。
そっと、カフェ《109秒》の扉が開く。
「予約したハン・ソリンです。」
「どうぞ、お入りください。」
ソリンは緊張した面持ちで、店内に足を踏み入れた。
「こちらへどうぞ。おかけください。」
ドビンはカウンター席を指差す。
「すみませんが あの、水を一杯いただけますか?」
「はい、もちろんです。」
ウサギのような丸い目をした少女の顔には、かすかな緊張がにじんでいた。
「お一人で来られたんですね。怖くないですか?」
「少しだけ。」
「大丈夫ですよ。リラックスしてください。まずは、申請内容を確認しないといけませんから。水を飲んだら、2階に上がってください。」
通常、芸能人志望者が記憶消去を申請する場合は、保護者や事務所関係者が同行するのが通例だった。
しかし、ハン・ソリンは一人で現れた。それが少し気がかりで、ドビンも内心戸惑っていた。 ドビンは先に階段を上がる。
ソリンは不安げな表情のまま、彼の背中を目で追った。
ドビンは形式どおり、2階にある教習室のドアを開け、ソリンが入ってくるのを静かに待った。彼に続いて、ソリンが部屋に入ってきた。
部屋の中には、エスプレッソマシン、コーヒーロースター、大型グラインダーなど、
一見してコーヒー関連の機材が並んでいる。
だが、それは「教習室」の名を借りた別の用途のための空間でもあった。
ソリンは緊張の糸を緩めることなく、部屋の中をぐるりと見回した。
なぜだか彼女の姿が気の毒に思えたドビンは、静かに指定された席へと彼女を案内し、申請書を差し出す。
「ご両親には、話してありますか?」
ソリンは何も言わず、そっと首を振った。
「事務所には所属していますか?」
少し迷った末に、ソリンは口を開いた。
「……まだです。」
その答えに、ドビンは少なからず驚いた。
両親に内緒で、まだどこにも所属していない20歳の少女が、一人で記憶消去を申請する。
そんなケースは今までほとんど例がなかった。
「この費用、どうやって用意したんですか?」
それなりの金額が必要な記憶消去の費用を、彼女のような若者がどうやって工面したのか、気になった。
「アルバイトで。」
「かなりの金額なのにすごいですね、志望されてるのは……歌手?俳優?」
「歌手です。」
その瞬間、ソリンの顔にわずかな笑みが浮かんだ。
それまでの強張った表情が、ほんの少しだけやわらいで見えた。
「どんなタイプの歌手ですか?」
「ソナハさんのような。」
「なるほど。シンガーソングライターですね。作詞も作曲も?」
「はい、そうです。よく知ってますね」
「そのくらいは、誰でも知ってますよ。音楽は専攻されてたんですか?」
「いいえ。」
「それじゃあ、独学で?」
「はい。」
「すごいですね。……でも、どうして記憶を消したいんですか?申請書には、“対象:両親と友人”って書かれてましたけど。」
ドビンの問いかけに、ソリンは黙り込んだ。
しばしの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「お母さんとお父さんは……私の夢を壊した人たちで。友達は……私を裏切ったんです。」
「ご両親は、音楽活動に反対されたんですね。」
「はい。反対どころか、家を追い出されました。」
「……いまでも、そんなご家庭があるんですね。それで、家を出た?」
ソリンは再び黙り込んだ。
沈黙が長くなるほど、彼女の顔色はどんどん暗くなっていく。
ドビンは、世の中の冷たさを早く知っているタイプの子なら、
家を出たことを話すときにここまで動揺したり、戸惑ったりはしないはずだと思った。
彼女はまだ傷つきやすく、繊細なのだろう。
もしかしてだけど、その友達というのは、彼氏ですか?」
「……はい。」
「一緒に音楽活動を?」
「はい、その通りです。」
「でも、別れたではなく裏切られたと書かれていましたね。どういう意味でしょう?」
「……あの子はギターを弾いていました。二人で路上ライブをしていたんです。
それで、亡くなったお父さんが積み立ててくれていた貯金を……全部、その子との生活に使ってしまいました。」
彼女はその話をするとき、完全にうつむいていた。
彼氏のことを語るその口調には、生気がなかった。
「生活費や家賃などに使ったということですか?」
「はい。あと、ちょっと高いギターもプレゼントしました。」
「いくらぐらいのギターを?」
「テイラーの中古で、500万ウォン。」
「500万……。それはまた、ずいぶん高価なギターですね。」
ドビンは、次に彼女が語るであろうことを、何となく予感していた。
そのせいで、気持ちが重くなる。しばらくして、ソリンがぽつりと尋ねた。
「今こうして申請すれば……本当に、記憶って消えるんですか?」
「あ、いいえ。記憶消去に入る前に申請書と同じかどうか確認する作業です。」
「そうなんですね。」
「彼氏に、他の女の子ができたんですか?」
胸が痛む質問だが、ドビンは仕方がないと思った。
「はあ……はい。同じ事務所の練習生です。」
彼女の目がわずかに震えた。
「ご両親は? さっき、お父様がお亡くなりになったとおっしゃっていましたが。」
「はい。私が17歳のときに亡くなりました。」
「そうですか。それで、継父と一緒に暮らしていたんですね。」
「はい。有名な医者です。」
「でも、歌手になることには反対されている……」
「はい。」
「お母様は?」
「母も、高校1年生までは音楽教室に通わせてくれていたんですが、継父と再婚してからは、いい大学に行くようにって……」
「だから、みんなのことを忘れたいんですね。」
ドビンは考え込む。
世間知らずの歌手志望の少女が、自分の痛みをすべて忘れたいと思うのは、彼女が今ひとりであり、そして夢に対して不安を感じているからだろう。
こういう場合は記憶を消すのではなく、記憶を“克服”しなければならない。その現実が、彼の心をかき乱す。
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