第2話

外では、4月の気まぐれな風が、彼女の髪と心をそっと揺らしていた。

彼女はふと振り返る。

カフェ109秒を見つめるその瞳には、どこか哀しみがにじんでいた。

車に乗り込んだハヨンは、窓を少し開けたまま誰かに電話をかける。


「お姉ちゃん、私、本当に無理だよ」


スピーカーフォン越しに、震える声が姉の耳に届いた。


「なに言ってるの、もう一週間も悩んでるじゃない。体壊しちゃうよ? 思い切って決めなさい。それが、あなたと彼のためなんだから」

「うぅ、お姉ちゃん……ほんとに、つらいの」


ハヨンはハンドルに顔をうずめたまま、肩が小刻みに震えた。涙が止まらない。


「張河永(チャンハヨン)!泣いてるの?今どこにいるの?まだカフェ?」


姉のキョンヒが不安げにマイクに顔を寄せ、声を荒げた。


「どこなの!?」


しばらくして、ハヨンは涙を拭いながら答えた。


「……車の中」


そう言って、エンジンをかける音が電話越しに微かに響く。


「え?今なんて言ったの?」

「車の中だって言いました」


同じ頃、アソコンのオフィスでは、張り詰めた空気が漂っていた。

安専務がメガネ越しに鋭い視線を投げつける。


「だから言ったでしょ。一人で行かせるべきじゃなかったって」

「すみません……私が一緒に行くべきでした」


キョンヒはうつむきながら悔やむように答える。


「どうしてそんな甘い仕事の仕方するの?」


ソフトウェアと芸能事業を同時に展開するアソコン社、その本社はソウル聖水洞の「ソウルの森」近くにある。

張河永(チャンハヨン)は、アソコンが育成中の新人俳優。

だが今、彼女のイメージ管理の一環として、過去の記憶の一部を消す必要があった。

過去数年間のあいだに特定の人物と共有した記憶や行動を消去すること。

それは、会社にとってはすでに特別ではない業務の一部となっていた。

だが、違法に行われる記憶削除作業を会社が全面的に行うと、後々大きな問題に発展する可能性があるため、ほとんどの芸能プロダクションは密かに進め、その責任を該当する俳優や歌手本人に負わせていた。


「時間があまりない。今月中に終わらせるように言って。」

「はい、わかりました。」


朴 慶熙 (バクギョンヒ)はアソコンのマネージャーチームのリーダーであり、 張河永(チャンハヨン) のいとこである。

他の女優なら強圧的な方法を使ってでも記憶削除を進めただろうが、ハヨンの事情をよく知るいとこの立場ではそうすることはできなかった。


◇◆


道彬(ドビン)はカフェ109の営業を終えた後、約35km離れたBar Qに車を走らせた。

隣の席に置かれたバッグの中には記憶除去用の録音装置「エコオフ」が入っている。

公共駐車場からBar Qまでは100メートルほどだ。

駐車後、バッグを慎重に持ち、Qがある建物に入る。

エレベーターは3階で止まり、ドアが開くとLEDで象られた猫の形をしたQの看板が、柔らかく輝いていた。

Bar Qのドアを開けると、正面には灰色トーンの大理石の床が広がり、温かく柔らかな黄金色の照明がその上に漂っている。

高級木材で作られたバーテーブルが目を引き、その後ろの壁面には世界各国のウイスキーが並び、ペンダントライトに照らされてそれぞれがほのかに輝いている。

室内には4つのプライベートゾーンがあり、ガラスのパーティションとスライディングドアで繊細に分けられている。

ドビンがBar Qの中へ入ると、黒いベストに白シャツ、ボウタイを締めたバーテンダーが一礼する。

バーカウンターの内側では、二人のバーテンダーが忙しなく手を動かしながらも、客一人ひとりに丁寧に話を交わしている

ドビンは軽く目礼を返すと、手にしたバッグを持ったまま、迷いなく奥の階段を上がる。

2階には、15人ほどが着席できる団体席と、スタッフ用のプライベートルームがある。

そのプライベートルームは一見、従業員の控室のように見える。観葉植物やソファが置かれ、穏やかな照明が空間を満たしていた。

しかし、その部屋の中央に設置されたマッサージチェア、そこには、ある仕掛けが隠されている。

椅子のひじ掛けにある特定のスイッチを押すと、床の一部がゆっくりと開き、秘密の階段が姿を現す。

階段の先は、表には決して存在しない作業用の秘密部屋へとつながっている。

だが、ドビン自身がその階段を使ったことは一度もない。

いつもキム部長が、マッサージチェアに座って彼を出迎えてくれるからだ。


「お疲れ様です」

「はい、店長、お疲れ様」


明るいトーンだが、権威的な口調を無理に隠そうとするキム部長がマッサージチェアから立ち上がり、簡易テーブルの上に置かれたエコオフを受け取った。


「最近、取り締まりが厳しいという話は、社長から聞いた?」

「はい。気をつけるようにと言われました。」

「偽物が蔓延しているので、私たちのような人々が被害を被る。」

「はい、その通りだと思います。」

「社長は、店長のことをかなり頼りにしてるみたいよ 。」

「ありがとうございます。」

「そのうち、ゆっくり食事でもしようじゃないか。」

「私はいつでも構いません。」

「体調は大丈夫?」

「え?あ、俺ですか?大丈夫です。」


キム部長がドビンに横目で冷ややかな視線を送った

そして、彼が二度だけ軽くうなずく。

それは、彼なりの「もう行っていい」という無言の合図だった


「では、お先に。」

「はい、またね。」


キム部長はドビンが完全に退出したのを確認すると、プライベートルームのドアを内側から施錠し、再びマッサージチェアに腰を下ろした。

ひじ掛けの下にある隠しスイッチを押すと、静かな機械音とともに床の一部がゆっくりと開き、秘密の階段が姿を現す。

彼は慣れた足取りで階段を上がっていく。途中、小さな鉄製のセキュリティ扉が立ちはだかるが、パスワードを入力するとカチリと音を立てて解錠される。

その先に現れるのは、4階へと続く小さな部屋。

ここは、表向きには皮膚美容サロン「ベルベット」の従業員専用プライベートルームという扱いになっている。

だが実際には、店の他の空間とは完全に遮断された独立した作業空間だった。

ここで行われるのは、エコオフによる記憶消去作業の第一段階。

表に出ることのない「記憶の消去」が、静かに、そして確実に始まるのだ。


その時刻。

麻浦区にあるオフィステル「ONビレッジ」の15階。

慶熙 (キョンヒ)は、河永(ㇵヨン)が買ってきたもなかを前に置きながら、抹茶の粉にゆっくりと水を注いでいた。


「やっぱり私には、あの人はハンサムで、優しくて…あたたかい人なのよ」


椅子に浅く腰かけたハヨンは、足を組んで、足先をもじもじと動かしながら携帯の画面を見つめている。


「あの店の技術、確かに本物みたいね。ハヨンのことをまったく知らないなんて。あんなに好きだった人なのに、信じられない。…まさか演技だったんじゃないよね?」


キョンヒはもなかをひとつ口に入れ、咀嚼しながら、ハヨンの横顔をじっと観察していた。


「今日も、まるで他人みたいに接されたの?」


その言葉に、ハヨンの目にじわりと涙がたまる。


「どうしようもないことだよ。お互い、進む道が違うんだから。忘れなさい」

「姉ちゃん、ひどい。そんなの、簡単に言えるもんね…」


ハヨンはキョンヒを恨めしそうに見つめながら、唇を噛んだ。


「でも、専務が“今月中に終わらせろ”って、うるさくてさ。来月からは体重管理も本格的に始まるし、私も今月でもなかは食べ納めにするわ」


必死にに慰めようとするキョンヒを、ハヨンは無言でじっと見つめていた。

やがて、ついに大粒の涙が頬を伝って落ちた。


「チャンハヨン、本当にもう どうするつもり?来月からは演技レッスン、プロフィール撮影、スケジュールもぎっしりよ。しっかりして」


キョンヒの声が少しだけ硬くなる。

ハヨンは泣き止み、静かにうなずいた。


「申請する?」

キョンヒが静かに問いかける。


「いいえ、自分でやる。」


ハヨンが立ち上がり、冷蔵庫を開けて、冷たいペットボトルの水を取り出し、キャップを外して一気に飲み干した。

その様子を見ながら、キョンヒはどこか気の毒そうな顔をして、もなかをふたつ立て続けに口に入れて、抹茶の入ったグラスをそっと手に取った。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る