カフェ109秒
アルフル 77
第1話
「いらっしゃいませ」
河永(ㇵヨン)が「カフェ109秒」のドアを開けて入ると、太くて温かみのある男性の声が彼女を迎えた。
それは、カフェのマネージャー、徐道彬(ソドビン) の声だった。
細長い顔に濃い眉、そこから高く通った鼻筋と、澄んだ瞳。彼の容姿は、店内に流れる穏やかなピアノジャズのリズムと見事に調和していた。
河永(ㇵヨン)はカウンター席の一番端に座った。
「いらっしゃい」
テーブルの上に置いてあったチェーン付きのバッグをそっと横に寄せながら目礼する彼女に、道彬(ドビン) がもう一度挨拶を返す。
アイボリー色の、全体にユニークな花柄があしらわれたミニワンピースの下から、少しふっくらとしているが長く美しいハヨンの足が白い肌を覗かせ、彼女はカウンター席の後ろに静かに身を隠した。
「ラテでいい?」
彼女の好みを知っているかのように、道彬(ドビン) が尋ねる。
河永(ㇵヨン)は、無言のまま小さく頷いた。
「春にはさっぱりとした軽やかな香りの、エチオピア・イエガチョフが最高だって言いましたよね?」
彼女の問いに、今度はドビンが頷く。
「私はラベンダーラテが一番好きなの。でもメニューにはあるのに、どうして注文できないんでしょう?」
「うーん、どうしてでしょうね?」
道彬(ドビン) は、コーヒーマシンに向き直りながら答える。
「答えは、1.面倒だから。2.誰かが嫌だから。3.ラベンダーシロップが切れているから」
河永(ㇵヨン)はその言葉を口にしながら、ラテの表面に描かれたハートのラテアートを見つめ、そっと指先で、その輪郭を壊した。
「答えは3番でしょ?その質問、もう一週間続いてるって知ってるよね?それで、決めたんですが?」
道彬(ドビン)が問いかける。
ハヨンは頭を下げたまま、何も返事をしなかった。
「カフェ109秒」は、ソウルの北側、およそ20キロ離れた場所にある。
数年前に森の中の村づくり事業で整備されたシネムルタウンのその入口の通り沿いに、ひっそりと店を構えている。
2階建ての独立した建物は、外壁全体が白く塗られ、遠くからでもすぐにそれと分かる。
カフェの周りはフィトンチッドに満ちたさまざまな木々や花々に囲まれており、牧歌的な雰囲気を醸し出している。
店内にはテーブルが15個置かれている比較的大きなカフェである。
長方形の構造のカフェ内部は、左側の白い壁に沿って固定椅子と8つのテーブルが並んでおり、右側には大きなガラス窓越しに外の森の景色が広がっている。その下には大きなテーブルが置かれており、自然光と調和した景色を楽しむことができるように設計されている。
中央のカウンターにはビンテージなチョークボードのメニュー、天井に接する照明ボックス、そしてその下にはコーヒーマシン、製氷機、テーブル冷蔵庫、ミキサーとオーブンなどが整然と配置されている。
カウンターの前にはコーヒーの木が置かれており、その隣には木製の椅子のカウンター席が配置されている。
「カフェ109秒」は単に飲み物を提供するカフェではない。
昨年から突然流行し始めたAI技術の結晶、記憶除去器。
この技術は韓国の天才学者柳 太光(ユテクァン)によって作られたが、政府と学界は副作用と悪用による危険性を理由に開発を禁止している。
そして開発者柳 太光(ユテクァン)の行方も不明になっている。
噂によれば、刑務所に囚われているという話から、数十億ウォンを受け取って外国で第二の人生を送っているという話までさまざまな話が流れたが、確認されたことはない
しかし、しばらくして誰かによって記憶除去技術が漏洩し、不法に生産された後、一部の特権層の間で使用され始めた。
そして半年も経たないうちに、記憶除去器は核心機器の複雑さとは裏腹に、残りの技術が単純だったためか、中国などでも類似の商品が堂々と売られるほど一般化してしまった。
これに対し、政府は記憶除去器の危険性を警告し、大規模な取り締まりに乗り出し、大多数の工場が閉鎖された。
だがその中で、
柳 太光(ユテクァン)が試作品として開発していた最新型記憶除去器「エコオフ」の最後の一台が、政府に押収される前に何者かによって研究所から盗まれた。。
ユテクァンは、その事実を政府に報告できなかった。
それは、研究資金の使用に関わる重大な問題だったからだ。
そして今、その機械は裏社会の手を経て流通し、ごく限られた場所で密かに使用されている。
「カフェ109秒」は、そのひとつ。
最少6ヶ月から最大2年まで、特定の期間や指定された対象に対する記憶を消すことができる違法なカフェである。。
河永(ハヨン)がこのカフェに通い始めて、すでに1週間が経つ。しかし彼女は今日も簡単に決断できずに迷っている。
「パラソルを持った女性、きれいですね?」
彼女が突然道彬(ドビン)に携帯電話を差し出した。
画面には、一枚の絵が表示されている。
「もしかして、モネが好きですか?」
「モネですか?もちろん。」
道彬(ドビン)は彼女の質問に少し微笑んだ。
「この絵はモネが彼の妻、カミユを描いたものです。タイトルはパラソルを持った女性」
「そうですね。前にも見たことがあるような気がします。」
道彬(ドビン)は頷きながらハヨンを見つめる。
「カミユの優雅さが見えますか?」
「はい、とてもよく見えます。」
道彬の目元には、どこか面倒くさそうな笑みが浮かんでいた。そこに冷たさがないわけではない。しかし、猫のように目尻が上がった彼女の黒い瞳は、それを気にする様子もなく、きらきらと彼を見つめていた
「いらっしゃいませ。」
その時、ドアの開く音がして、カップルのように見える男女が店内に入ってきた。
彼らはまっすぐカウンターへと歩いてくる。
「少々お待ちください。」
ドビンはハヨンの前を離れ、カウンターへと向かっていった
「予約された方ですか?」
「はい。」
「お名前は?」
「予約した。ノイジンです」
「少々お待ちください。」
ドビンはスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
「もしもし。ドビンです。」
「今カフェに行った申込者がいるでしょう?」
電話の向こうの女性の声は優しい。
「はい。二人、カップルのようにみえますが。」
「その二人は、私に予約を入れたお客さんよ。」
「わかりました。それでは申込を受けた後、改めてご連絡いたします」
「 毎日来ているというあの子は?」
「はい。悩んでいる彼女、今もまだカウンターにいます。」
「アハ、そう? ためらいが多いってことは、それだけ心の傷も深いってことよね。」
叡潾((イェリン)の声には、どこか茶化すような響きが混じっている。
「でもね、その子が申請するって口にするまでは、ドビン、あなたからエコオフについて詳しく話す必要はないわ。紹介した本人からも、絶対に本人の意思を尊重してほしいって、念を押されてるの。最近、取り締まりが厳しくなってるみたいだから、くれぐれも慎重にね。」
「了解しました。」
「夕方、エコオフの点検を忘れないで。キム部長に任せておいて。」
「はい、承知しました。」
エコオフは、記憶を消去するためのヘッドフォン型の録音装置である。申請者の個人情報を入力すると、それに基づいて、海馬のニューロン信号を妨害するアルゴリズムが生成される。そして、指定された記憶の削除が実行される。
なお、彼女が言った“Bar Q”は、イェリンが運営するもう一つの店舗である。40〜50代の客を中心に賑わっており、店の責任者は、イェリンのいとこであるキム部長だ
「少し、2階に上がっていただけますか?」
ドビンは二人を案内するため、階段を上がっていった。
そのとき、ハヨンはチェーン付きのバッグからスマートフォンを取り出し、電話に出た。
「今、出発するから。」
できるだけ低いトーンで話しながら、彼女は少しだけ体をかがめていた。やがて体を起こし、視線を階段の方へ向ける。
その様子は、まるで2階に上がったドビンを待っているかのようだった。
電話で会話を続けながらも、彼女の意識は階段の上に向けられていた。
「ごちそうさま。今日はこれで帰ります。それで、モネの日傘をさす女性の背景って、どこだと思いますか?」
階段を下りてくるドビンを見つめながら、ハヨンはそっとカウンター席を離れた。
「そうですね、ちゃんと見ていなかったので……お帰りになりますか?」
ドビンの問いかけに、ハヨンは何も答えず、扉に向けていた体をふとひねり、彼のほうを見つめた。
その表情には、どこかぎこちなさがあり、言葉にできない切なさが滲んでいた。
短い沈黙のあと、
「私、これで……」
彼女がカフェのドアに手をかけたそのとき、アルバイトのキョンフンが、慌てた様子で中に入ってきた。
「ありがとうございます。」
ハヨンが店を出たあと、ドビンはカウンターに立ったまま、ふと独り言のように呟いた。
「カミーユの顔も、雲も、野原の草たちも……すべてが風に揺れているようだったな。」
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