第2話 万有引力
翌日の午後の授業。水曜日の五時間目。
僕はこの時間が何よりも好きだった。
「私たちが産まれる前、アメリカの航空宇宙機関のNASAが発案したアルテミス計画。これにより、人類は二回目の月面着陸を果たしました」
みんなが眠そうにうつらうつらと船を漕ぐなか、僕は先生の目と黒板を見ながら、熱心に話を聞いていた。
そう、僕の楽しみはこの地学の授業であった。
この学校では、他の理科科目と比べると圧倒的に履修者が少ない地学だったが、テストが簡単だという噂を聞きつけた生徒たちが集まり、今年はそこそこの人数で授業を行っている。
しかし、その内容には興味がない人が多いのか、ほとんどが寝たり友達と話したりと自由に過ごしている。
もはや授業という名の休憩時間のようなものだった。
先生も年老いた先生なため、そういった生徒に注意することはほぼない。
あまりにもうるさければ、やんわり「静かにお願いしますね」と釘を刺すのみ。
だけれど僕は、そんな先生の授業が好きだった。
具体例を出して話してくれたり、実物を持ってきて見せてくれたり、授業に工夫があって面白いのだ。
噂によれば、先生は以前宇宙開発に携わっていたらしい。だから、今回の単元である惑星は僕が地学を履修登録してからずっと楽しみにしていた授業なのだった。
「これが月面基地です。見たことある人もいるかもしれないですね。人類はまず、月に基地を置いてさまざまな実験をしてから深宇宙へと向かいました」
カツカツとチョークの粉が黒板に文字を連ねていく。
独特な絵で基地を描いた先生は、人当たりの良い笑みを浮かべたまま説明を続けた。
「ここで活躍したのがこの有人与圧ローバー。いわゆる有人月面探査車っていうやつです。これは日本の宇宙開発機構JAXAが開発したものですね。そしてこの車のタイヤには工夫があってですね、まず月面には細かい砂、レゴリスというものがあります。その上を車が走るには普通の乗用車タイヤでは難しい。なぜなら、沈んでいってしまうんです。細かい粒子なのでね。そこでJAXAは砂漠を歩くラクダの足の形からヒントを得ました。こちらがそのタイヤです」
プロジェクターで映し出されたのは従来の車輪とは少し異なるものだった。
うねうねと波打つような形をしたディスクに、ゴムの代わりに金属を用いられたタイヤ。本当にこれで月面を走ったのかと疑いたくなる様相だ。
観察するようにじっとタイヤを見つめていると、ふと先生と目が合う。
先生はにこりと笑みを向け、頷くと、にわかには信じ難いですよねえと僕に向けて言ったような気がした。
「そうして人類はさらに先へ進みました。皆さんももう産まれている頃ですかね。約七年ほど前ですか、火星に人が降り立ちました。五人です。彼らは火星の地へ足跡を残したんです」
ほう、と無意識のうちに口角が上がる。
やはりこの話が一番身近に感じて心が高揚する。
そのとき、ふと、なんだか先生の声がよく通る気がして、周りに目を向けてみる。
僕は目を見開いた。
喋っていた人たちの声が静まっていた。
寝ていた人たちの顔が上がっていた。
いつの間にか、みんなが先生の話を熱心に聞いていたのだ。
自分がすでに産まれていて、自我を持っていた頃の一大ニュースだからだろうか。
それとも、ただ単純に宇宙の話題だからだろうか。
僕は先生の話を耳に入れながら、クラスの人たちの姿勢を目に焼き付ける。
普段寝ている彼も、普段おしゃべりに夢中な彼女たちも、今だけは先生の言葉を一言一句もらすまいと傾聴している。
宇宙に魅入られた。
まさにそんな言葉が似合う風景であった。
「そしてですね、実は今日とあるものを持ってきたんです」
もったいぶるようにそう宣言すると、先生はカバンの中をあさり始める。
目当てのものを見つけたのか、次第に音は少なくなっていく。
にこりと笑う先生が教壇の机に筒状のケースのようなものを置いた。
じっとケースに穴があくほど見つめる。
何か赤、いや朱色に近い色の何かが入っている。
みんなの視線が小さなケース一個に釘付けになった。
「これは火星の砂です。研究職の友人から少し分けてもらいました」
「えっ、実物ですか⁉︎」
「はい、火星から採ってきた実物の砂です」
「マジか!」
声を上げた教壇に近い生徒が羨ましい。あんなにまじまじと見られるなんて。
見に行きたい気持ちを必死に抑えながら、先生の手によって掲げられた赤い砂の入った透明なケースに視線を移す。
「この少しの砂で、現在世界中がいろんなことを調べています。例えば、水素が含まれているとされていた大渓谷マリネリス渓谷付近でとった砂では水が含まれているかどうかを調べていますし、かつて川があったとされる場所の砂は生物の痕跡がないか調べられています。たった少量の砂で、さまざまなことが分かるんですね。どうでしょう、少しワクワクしませんか?」
いつもより楽しげに笑う先生は、少年のように声を弾ませると、一番前の端の席の生徒にケースを渡し、後ろに回してくれと頼む。
火星の砂なんて、滅多にお目にかかれない代物だ。
なんで先生はこんな大切なものを持ってきてくれたのか。
その意図を探っているうちに、僕にも砂が回ってくる。
「あ……」
赤い砂だった。酸化鉄の混じった赤く細かい粒子の砂だった。
電気にすかしたり、いろんな角度から見てその存在を確かに知る。
びゅおうん、と砂嵐が僕の耳元で鳴る。
僕は今、あの五人の宇宙飛行士たちが残した足跡の一片に間接的に触れている。
その事実がどうしようもなく僕の心をざわつかせ、黒いモヤを掻き乱した。
次の人へ砂を手渡しても、心臓の鼓動は治ってくれない。
こんなに心が湧き立つのは久しぶりだ。
小学生の頃、テレビで火星に降り立つ宇宙飛行士を見て、無謀な願望を抱いたとき以来。
やはり僕は宇宙へ行きたい。
惑星をこの目で見て、感じて、未踏の惑星へ足跡を残して——。
「……」
無理だ。
わかっている。今は普段触れないものに触れて心が興奮しているだけなのだ。
とうに諦めた夢じゃあないか。いい加減醒めないといけない。
子どもの頃に感じた、あの体の奥底からエネルギーが湧いてくるような感覚はどこかに忘れてきてしまったのだ。
いったいどこへ置いてきたのだろうか。
けれど、もし戻れたとして、僕はそれを拾いにいくだろうか。
それとも、見て見ぬ振りをするだろうか。
次第に落ち着いていく心臓の音。
それと同時に、チャイムが授業の終わりを告げていた。
砂嵐の音は、いつの間にか止んでいた。
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