第3話 矛盾と曖昧

 しかし、それ以外には。

「事件に関係のないところでの記憶だけが戻ってきた」

 ということになるのだが、結局。最後には、

「オオカミ少年」

 になったということになるのだ。

「イソップ寓話」

 の中にある。

「嘘つき少年」

 の話であるが、

「オオカミが来た」

 といって何度も嘘をついているうちに、誰も少年を信用しなくなって。村人は。

「皆オオカミに食われてしまった」

 ということになったのだ。

 しかし、オオカミに食べられたのは、

「誰が悪い」

 というのだろう。

「もちろん、オオカミが悪い」

 というのは当たり前だが、

「嘘ばかりついていた少年が悪い」

 というのも、しょうがないだろう。

 しかし、

「嘘をつかれた村人が、皆食われたということであれば、寓話ということでは意味がない」

 ということになる。

 寓話というと、

「何か災いを引き起こすようなことをしてしまったので、その報いを受けるという。

「因果応報」

 というものをテーマにした話である。

「村人が食われた」

 ということは、

「村人が悪いから、報いを受けた」

 ということである。

 確かに、今の人であれば、

「もう少し慎重にいかないと、こういうとこがある」

 ということを分かっている。

 もっとも、それが、この、

「オオカミ少年」

 というものの謂れから、

「それが当たり前だ」

 と思うからだるう。

 しかし、この話を知らない人は、

「村人は騙されただけなのに、どうして食われなければいけないのか?」

 ということで、それこそ、

「子供の教育には使えない」

 ということになるだろう。

 この場合の教訓とすれば、

「油断大敵」

 ということであり、

「正しいことであっても、油断してしまうと。いつ何があるか分からない」

 という教訓だろう。

 しかし、それこそ、

「油断しないためには、悪いことでも肯定される」

 ということになるのだろうが、

 そういうことであれば、

「やはり、物事には裏表がある」

 ということで、子供にも、

「悪はいるのだから、油断してはいけない」

 という

「高等な教訓だ」

 といってもいい。

 それを、

「果たして。子供の間から教える必要があるのだるうか?」

 ということで、

 そもそも、このような、

「イソップ寓話」

 というと、小学生くらいの児童を中心にみられるものだといってもいいだろう。

 それを考えると、

「イソップ寓話」

 に限らず、他の教訓となるような。

「おとぎ話」

 であったり、

「神話」

 であったり、

「宗教における教訓」

 のようなものも、その趣旨としては、教育的には、同じだといえるのではないだろうか?

「おとぎ話」

 というものの中で、一番疑問に感じられるのが、

「浦島太郎」

 という話であった。

 このお話は、

「浦島太郎がカメを助けたことで、そのお礼にカメが背中に太郎を乗せて、竜宮城にいく。そこで、カメを助けてもらったというお礼からか、地上では味わえない夢のような時間をもらえた」

「しかし、陸が懐かしくなり、戻りたいといって、戻ることになったが、その時に、乙姫様から玉手箱をもらう」

 その時に、

「決して開けてはいけない」

 といわれるのだ。

 しかし、陸に上がってみると、その世界は知っている人の誰もいない世界ということで、実際には、

「数百人先の時代だった」

 というオチである。

「そこで浦島太郎は、玉手箱を開けて、おじいさんになってしまった

 というのが大まかな話であった。

 突っ込みどころは満載であるが、一つ誰も気にすることはないが、重要なこととして、

「太郎が、どういう接待を受けたか?」

 ということであった。

 話としては、

「タイやヒラメの踊りを見た」

 ということであったり、

「御馳走を食べた」

 ということであるが、普通に考えれば、それだけで、

「信じられないような施し」

 ということになるだろうか?」

 食事だって

「いくらでも食べれる」

 ということではない。

「空腹だからといって、どんどん食べていけば、いずれ腹が膨れて、苦しいくらいになるというのは当たり前」

 ということだ。

 しかも、

「タイやヒラメの踊り」

 というのが、どれほどすごいもおか分からないが、

「じっとして見ているだけだろうから、人間として耐えられるか?」

 ということである。

 しかも、

「眠った時間については一切書かれていない。眠くならなかったということなのだろうか?」

 ということであるが。

「だからこそ、数百年経っていることに気づかなかった」

 といえるかも知れない。

 実際に竜宮城での滞在時間というのは、

「数日間」

 ということであるが、

「厳密にははっきりと言われているわけではない」

 それを考えると、

「浦島太郎という話は、突っ込みどころが満載だ」

 といえるのではないだろうか?

 そもそも、この浦島太郎という話は、

「最後が曖昧だ」

 ということから始まっている。

 元々の話は、諸説あるが、続きがあるというのだ。

 ということで、実際に

「俗説と言われている話としては、本来はハッピーエンドだ」

 というのだ。

 というのも、

「カメを助けたことで、本当はハッピーエンドになるはずなのに、ラストは、実際には、おじいさんになるということで、いかにも戒めということではないか?」

 なぜ、このような話になったのかというと、

「カメを助けた」

 といっても、竜宮城に行って、家族のことを忘れ、まるでハーレム気分になったていたということがまず、戒めに値するというものだ。

 そしてもう一つは、

「開けてはいけない」

 と言われた玉手箱を開けてしまったということが、大きな戒めということであろう。

 この、

「開けてはいけない」

 あるいは、

「見てはいけない」

 と言われるものは、

「見るなのタブー」

 と言われ、それ自体が戒めになっている。それこそ、

「鶴の恩返し」

 などが、いい例ではないか、

 だから、

「浦島太郎」

 という話は、

「戒めの話にしないといけない」

 ということで、教育方針としての教科書ができた時、明治政府の中で、

「戒めの話にするために、おじいさんになった」

 というところで、

「わざと終わらせている」

 ということだというのが、通説だ。

 実際の話としては、

「浦島太郎」

 に恋してしまった乙姫様が、カメになって陸上に上がり、浦島太郎はおじいさんになった後、鶴になり、

「二人はその後、永遠に幸せに暮した」

 ということであった。

 しかし、これもおかしな話で、こちらも突っ込みどころは満載である。

 たとえば、

「浦島太郎と乙姫が愛していた」

 というのであれば、

「なぜ、玉手箱を渡す必要があったのか?」

 ということである。

 もちろん、

「玉手箱がなければ、鶴にはなれない」

 ということであったり、

「そもそも、玉手箱でおじいさんになったのではなく、最初から鶴になる」

 というのが、元々の話ではなかったのか?

 それを考えると、どうも曖昧だ。

 さらに、もう一つ気になるのは、

「鶴は千年、亀は万年」

 ということで、


「長寿の象徴」

 ということをオチにしたのであろうが、

「そもそも、いくら長寿とはいえ、寿命がまったく違うではないか、なんといっても、

千年と万年ではまったく違う」

 ということになるのだが、これもこじつけて考えるなら、

「乙姫様は、そもそも、九千年生きていて、あと千年しか寿命がなかったので、乙姫様は元々カメだった」

 という考え方である。

「二人の残りの寿命が違っている」

 というう理屈でなければ、

「それぞれ同じ動物になればいいわけで、そうでないということの辻褄が合わない」

 ということになる。

 そういう意味で、

「浦島太郎」

 に限らず。おとぎ話というのは、

「それぞれに、矛盾」

 というものがあり、

「曖昧なものではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「そもそもが、人間であるなら、人間の寿命がちょうどよくできている」

 ということで、それは、どの道仏にも言えることではないだろうか?

「例えば、さなぎから成虫になってからの寿命が、長くても一か月」

 と言われるセミであれば、

「一か月しか生きられないのでかわいそう」

 と普通は思うだろう。

 また、

「浦島太郎」

 にも出てきた、

「長寿の象徴」

 ということである、

「鶴やカメ」

 というものも、人間から見れば、

「そんなに生きてどうなるんだ?」

 と思うだろう。

 そのくせ、西遊記に出てくる妖怪や化け物は、

「坊主の肉を食らえば、不老不死が得られる」

 ということで、

「不老不死に憧れる」

 しかし、これは

「浦島太郎の戒め」

 というものにあるように、

「不老不死を得たとしても、それは自分だけのことで。大切な人がどんどん死んでいく中で、自分だけが死ぬこともできず、自分の子供や孫、さらには、子孫が死んでいくのを見なければならない」

 というのは、どんな気分なのだろう。

 以前、読んだミステリーで、

「復讐に一生をかけている」

 ということで、復讐計画を、残酷に考え、実行した人がいた。

 その方法というのはすさまじく、

「棺桶に生きたまま埋葬し、空気穴だけをあけておく」

 というものであった。

「死しか見えない絶望の中で、どんどん苦しみながら死んでいく」

 というのは、これほど怖いことはない。

「一思いに殺してくれ」

 と思って無理もないことだ。

 だが、その時の犯人は、本当の仇には、さらなる地獄を用意していた。

 それは、地下室に、しばりつけておいて、そこに水を流し込むというものだが、そこのは、

「復讐相手である本人」

 と、

「その人が一番かわいがっている娘を一緒に括り付けている」

 ということなのだ。

「二人一緒に、あの世に送ってやろう」

 ということだ。

 しかし実際には、そんなことで済むわけはなかった。

 というのは、犯人の計画として、

「娘は、復讐相手よりも、かなり低いところに括り付けられている」

 ということであった。

 つまり、

「愛する娘が、苦しみながら死んでいくのを見せつけられ、さらに、そこからまもなく、自分も同じ運命になる」

 ということを思い知らされるということだ。

 それが、

「犯人にとって」

 そして、

「被害者側にとって」

 いかに、

「天国と地獄」

 というものを、見せつけられるということだ。

 そもそも、復讐の相手は、

「復讐を受けても仕方がない」

 ということになるかも知れないが、その家族は、まったく関係がない。

 それこそ、

「親の因果が子に報い」

 というのは、まさにこのこと。

「たまったものではない」

 ということだろう。

 ただ、これも、復讐が行うまでは、立場的には、

「復讐を行う方」

 に対して、世間は同情的だということであり、

「復讐を受ける」

 という方が、

「悪党」

 というレッテルを貼られるに違いない。

 だが、人たち、復讐に手を染めてしまうと立場は逆転する。

 目の前で、

「復讐」

 という名前を、殺戮が行われているだけということになるからだ。

 そもそも。

「復讐」

 というのは、

「負のスパイラル」

 ということで、まるで、

「金太郎飴のようではないか」

 といえる。

 というのは、

「どこで切るか」

 ということによって、

「復讐を行う方」

「復讐を受ける方」

 という立場が決まってくると、世間では、

「その瞬間しか見てくれない」

 といえる。

 しかし、

「動機というものは存在する」

 というわけで、

「復讐を行う」

 ということになれば、

「その動機が、自分が、あるいは、自分にとっての関係者が、復讐に値する仕打ちを受けた」

 ということになるのだ。

 ただ、それも、

「一世代さかのぼる」

 ということしかしない。

 つまりは、

「事件だけをそのまま見たり聞いたりした人」

 というのと、

「動機までわかっている」

 というのであれば、その立場はまったく正反対となる。

 これは、どんな犯罪でもそうなのかも知れないが、このように、

「復讐」

 ということであれば、必ず、

「復讐するには、その動機がある」

 ということで、

「目には目を歯には歯を」

 という、シーザーの格言にあるように、

「結果としては、どこまでいっても、繰り返される負のスパイラルに陥る」

 ということになるのであった。

 まるで、

「マトリョシカ人形」

 あるいは、

「合わせ鏡」

 のようになるではないか、

 ということである。

 これこそが、

「負のスパイラルの正体」

 ということであり、

「どこまでいっても、交わることのない平行線」

 それが

「負のスパイラル」

 ということであり、

「無限」

 というものを証明できるものではないか?

 と考えられるのであった。

 今記憶を失っている、

「横山」

 という男、何があったか分からないが、

「このような、負のスパイラルにはいりこんでしまっているのではないか?」

 ということであった。

「因果応報」

 という言葉があるが、

「何が影響しているのかは分からないが、、前世であったり、親の因果か何かが彼に襲い掛かっているのではないか?」

 と考えるのは、

「この男が記憶喪失になっている」

 ということであった。

 これが、宗教的な考えとして、

「何かの戒律を破った」

 というものであれば、

「どのようなお咎めがあったとしても、それは、無理もないこと」

 といえるのではないだろうか。

 実際に、

「記憶を失った」

 ということは、神様が、

「戻してはいけない記憶」

 というものを、彼に与えた。

 と考えたのだとすれば、

「もし、どこかで記憶を思い出すとすれば、そこまでの戒めはなかった」

 ということであり、逆に

「一生思いだせなかった」

 ということであれば、

「墓場まで記憶を持っていく」

 ということになり、

「最大の罰だ」

 ということになるだろう。

 しかし、

「逆も真なり」

 という言葉があるが、というのも、

「忘れてしまうことが幸せだということもある」

 ということで、思いだせないことで、

「苦しまなくて済んだ」

 という考えもあるだろう。

 逆に、

「そんな記憶がない状態を抱えて生きていくくらいだったら、死んでしまった方がましだ」

 と言われるが、それこそ、

「人間の勝手な解釈」

 というもので。よくドラマなどで、

「死んで花実が咲くものか」

 という言葉であったり、

「死んだら人間おしまいだ」

 という戒めをいうが、

「だったら、あぜ不慮の死であったり、殺人なんかが起こるんだ?」

 ということになる。

 あくまでも、

「神がきめた寿命を人間ごときが勝手に変えてはいけない」

 ということになるのだろう。

 歴史上でも有名な。

「細川ガラシャの話」

 つまりは、

「キリシタンは自殺は許されない」

 ということで、

「刺殺シチュエーション」

 という場面で、

「自分の配下の人間に自分を殺させる」

 ということをしたのだ。

 なるほど、

「それはありえない」

 ということになるのだろうが、これこそ、

「人間が勝手に寿命を捜査してはいけない」

 ということになるのではないか?

 実際に死ぬことになるのだが、これもあくまでもこじつけであり、

「曖昧な解釈だ」

 といえるだろう。

 しかし、

「人間というのは、生まれてくるときは、皆平等だ」

 という人もいたが、実際には、誰のところに生まれてくるかということで、

「逆らうことのできない運命が、立ちはだかっている」

 ということになるのだろう。

 それを考えると、

「死ぬ時くらいは自由であってもいいのではないか?」

 と思うのだが、

「自殺を許さない」

 さらには、どんなに本人が苦しんでいるか分からないし、何よりも生きている家族に対して、一切の保証もないのに、

「尊厳死というのは、許されない」

 ということになるのだ。

「こんなことがあっていいというのだろうか?」

 それを考えると、

「人間の生死というのも、その概念としては、実に曖昧なものだ」

 といえるのではないだろうか?


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