オーバーロードSS ー覇道の序章 ナザリックの影たちー
五平
第1話 カッツェ平原の裏側
カッツェ平原。
世界最高の魔法使いが、ただの一撃で二十万もの人間を屠った「英雄譚」の裏側で、もう一つの戦いは既に始まっていた。
デミウルゴスが潜む深い森は、戦場となる平原の喧騒とは隔絶されていた。葉擦れの音すら遠く水底から響くように鈍く、湿った土の匂いが立ち込め、枝葉の揺れさえも不気味に響く静寂の中、デミウルゴスは完璧な隠蔽を保ち、ただ一人、世界の動きを掌握していた。彼の視界には、高度な魔術によって拡張された戦場の様子が映し出されている。帝国軍と王国軍。その間に横たわるのは、未来のナザリックの支配下となる領土だ。
この戦いでアインズ様が求めるものは、単なる武力による「勝利」ではない。アインズ様は常に、一つの行動に複数の「意味」を持たせることを望まれる。今回であれば、それは「人間という種族の心理」を深く理解し、今後の支配に役立てるためのデータ収集だった。
デミウルゴスは、己の思考を起動する。
《命令:人間種族の心理、特に絶望と不信が支配する状況下での行動パターンを詳細に観察・記録せよ。》
《手段:情報戦と幻術による心理誘導。》
《目標:両軍の自壊を促し、相互不信のデータを収集。》
彼はすでに、数日前から幻術を使い、両軍に微細な「違和感」を植え付けていた。帝国軍の伝令を装い、王国軍の将軍たちには「帝国軍が降伏を偽装して奇襲を仕掛ける」という偽情報を流す。一方で、王国軍の斥候には「王国軍の貴族の中に、帝国と通じている者がいる」という噂を拡散させた。
これらの情報は、それぞれが単独では些細なものだ。しかし、情報操作は「積み重ね」が肝要である。
最初の段階では、人間たちは流れてきた噂を一笑に付した。だが、二度、三度と不審な事象が重なると、彼らの心の中に小さな「疑念」の種が芽生える。そして、その種がデミウルゴスの巧みな幻術によって水と養分を与えられ、瞬く間に「感情の膨張」を引き起こしていく。
ある夜、王国軍の陣営に冷たい風が吹き込み、松明の火が不自然に揺らめいた。その闇の中から、デミウルゴスの幻術によって出現した「伝令」が、補給部隊に帝国軍の斥候部隊が向かっているという偽情報を届けた。現場の指揮官は、その情報に半信半疑ながらも、念のために偵察部隊を派遣。すると、進路変更を命じられた別の部隊と鉢合わせになり、双方の指揮官は「貴様こそ帝国と内通しているのではないか?」と互いを罵り、小規模ながらも衝突が発生した。この出来事は、噂として瞬く間に兵士たちの間に広がり、帝国軍のみならず、味方への不信感を募らせる。
「なぁ、お前……本当に味方か? 昨日まで同じ釜の飯を食ってたのに…」
そう小声で呟き、すぐに後悔の念で口を閉ざす兵士の姿もデミウルゴスの視界には入っていた。
さらに、夜の見回り中、一人の兵士が闇の中に「帝国軍の紋章を付けた人影」を目撃する。その幻影を見た兵士は、緊張で手が汗ばむのを感じながらも、「貴様、スパイだろう!」と隣の兵士に剣を突きつけた。結局、それは幻影だと判明するが、一度生まれた猜疑心は消えず、互いに距離を置くようになる。
そうして、両軍の連絡網は少しずつ麻痺し、互いの行動にいちいち邪推を挟むようになった。些細な行動が「裏切り」のサインに見え、友軍の言動が「罠」に思える。デミウルゴスは、人間たちの内なる猜疑心が、彼らの最も堅牢な防壁であることを理解していた。
「脆弱な種族だ。いや、脆弱なゆえに群れるのか。その群れが、ほんの些細な刺激で互いを喰らい合うとは……これほどまでに滑稽な光景があるだろうか」
彼は内心で、アインズへの報告書をシミュレートする。
《拝啓、アインズ様。人間どもは、予想通り、自らの手で自滅の道を歩み始めました。僅かな幻影と情報操作が、彼らの団結を破壊するに十分であることを証明いたしました。この知見は、今後の世界支配において、多大なる貢献を為すでしょう。この成果を献上できることこそ、至上の喜びにございます。敬具、デミウルゴス。》
完璧だ。この成果を差し上げられる幸福に、デミウルゴスの口元は僅かに綻んだ。
彼は、森の木陰からその様子を静かに見守りながら、そう結論付けた。この時点で、両軍はすでに戦いに敗北していた。彼らはまだ戦場に立ってはいないが、心はすでに、互いを信頼できないという「絶望」によって分断されていた。
そして、運命の日。
平原に集結した両軍は、互いの背後を警戒しながら、恐る恐る進軍を開始する。彼らの目は、敵ではなく、隣の兵士を疑っていた。
デミウルゴスは、このデータ収集の成果に満足し、静かに森を去る。この戦いでの犠牲は、彼にとっては取るに足らない数字に過ぎない。重要なのは、人間という種族が、いかに簡単に自滅の道を歩むかという事実だった。だが、この日最初に崩れたのは、兵士たちの心だった。
そして、その日の午後。
世界最高の魔法使いが、たった一つの魔法で二十万の兵士を屠った。
歴史に名を刻むその「英雄譚」の影で、デミウルゴスは、アインズ様による世界支配のための、最も重要なデータ収集を完了させたのだった。
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