第42話

人間は、強かろうが弱かろうが、必ず心の奥にいくつもの感情の階層を抱えている。

誰もがそれを表現し、愛する者と分かち合いたいと願う。

どんな環境にあっても、家族や友は常に心を預け、重荷を下ろせる場所である。

永久に孤独でいたいと願う者など、本来は存在しない──

ただし、負の闇に長く押し潰され、臆病になり、殻に閉じこもり、心を開くことを恐れるようになった者を除けば。


負の感情は人を縛りつけ、自らを冷たく孤独な檻に閉じ込めさせる。

逆に、正の感情は暖かな炎のように心を解きほぐし、新たな人間関係を見つけ、光の中へ踏み出すきっかけとなる。

だが、いかに輝きの頂に立つ者であっても、一瞬にして崩れ落ちることはあり得る──

家族を失い、恋人を失い、友を失う。

その喪失は、かつて不屈だった者を哀れなほど脆くし、心を閉ざし、記憶の深淵に自らを幽閉させる。

それはまるで断崖の上から、底の見えぬ奈落へ突き落とされるようなものだ。


その奈落を生き延びるためには、人は必ず後ろにある闇を振り払い、前へ進む術を学ばねばならない。

痛みを葬り、それに呑み込まれぬようにするのだ。

古今東西、どの時代においても、深淵から這い上がることは容易ではなかった。

だが、それが叶えば、まるで生まれ変わったかのように──

自らが築き上げたものを抱えて、再び歩き出せる。


この終末の世界は、その厳しさが何倍にも膨れ上がっている。

ここでは「乗り越えるべきかどうか」という問いは存在しない。

「乗り越えねばならない」のだ。

どんなに幸福で成功していようと、この地獄でそれを永遠に保てる者などいない。

一度戦場に足を踏み出せば、皆が等しく哀れな存在となり、過酷な運命に翻弄される。

そして頂を目指すなら、痛みという鎖を自ら引き裂くほかに道はない。


「そうだ……わかっているさ。

敗北を受け入れることは……乗り越えるために必要なことだ。」

アコウの声は低く沈み、喉に棘が刺さったようにかすれていた。


深く息を吸い込み、己にだけ聞こえるほどの声でそっと呟く。


「残りは……二人に任せる、ルーカス……ゾア。」


その瞬間、アコウの脳裏に、新たな計画が鮮明に浮かび上がった。

先の出来事で二人の仲間を失った。

カラス団を退けたこと──理想的な策ではなかったが──それが結果的にルーカスとゾアが別の強敵に直面せずに済む状況を生み出した。


アコウは確信していた。

ルーカスはミレイユ・ブランシュフルールと、ゾアはキングと遭遇することになる。


なぜそれがわかるのか?

単純だ。アコウが唯一残された地図を握っていたからだ。

彼らの隠れ家から、各標的の進行方向を予測し、最適な経路を割り振った。

他の者から見れば偶然に見えるかもしれない。だがアコウにとっては、既に盤上に駒を配置した棋譜にすぎなかった。


ルーカスは自分より強い相手と対峙する──それは必ず敗北を意味する。

だが、アコウはあえてそれを望んだ。


第一に、ルーカスは雷属性を持ち、爆発的な破壊力を誇る。

もしミレイユがその能力を知らなければ、彼女は警戒して動きを遅らせ、慎重に探りを入れるはずだ。

その慎重さこそが、ルーカスに時間を稼がせ、ミレイユの一手一手を考えさせる要因となる。

逆にゾアが相手なら、ミレイユはかつての戦闘経験から能力も弱点も把握している。

その戦いは瞬く間に決着し、ゾアに活躍の余地はない。


第二に、ゾア対キングという構図は、心理戦として面白い展開になる。

キングとの敗北はゾアの胸に炎を灯した──復讐と、キングの知らぬ新たな力を証明したいという欲望を。

キングは元より戦術家ではなく、純粋に拳でねじ伏せるタイプだ。

ゆえにゾアは能力を存分に振るい、戦術を恐れず真っ向勝負に挑める。


こうしてアコウは、ルーカスとゾアにそれぞれ自分の価値を最大限に発揮させる機会を与えた。

そして自らは──クレイスとナサニエルを一日にして打ち倒し、カラス団を血祭りに上げた──誰よりも鮮烈な名を刻みつけた。


だが計画で最も難しい部分は、フェリクスを守り、ブラウンに力を示す場を与えることだった。

そしてその点で……アコウは完全に失敗した。


ルーカスが副団長だけと戦うことになった理由は単純だ。

ルーカスは一枚もカードを持っていなかった。

レ・フルール・モルテルは、直接の利益をもたらさない相手を倒すために時間も労力も割かない。

アコウは確信していた。マルグリットは、ルーカスを即座に葬ることに意味を見いださない。

それよりも、対等な相手との戦闘で力量を測る方を選ぶ。

未知数のSランク──それが長引く可能性を誰も否定できない。


こうしてアコウは、レ・フルール・モルテルとカラス団という二大脅威を巧みに封じ込め、残る者たちに自由な行動範囲を与えた。


最終日には戦術など存在しない──そう豪語していたアコウが、誰も予想しなかった完璧な布陣を描いていたのだ。

ただ一つ、カラス団がその警告を無視してしまったことを除いて。

戦場へ戻る


今や、試験終了まで残り二時間しかない。ルーカスは全力を尽くし、どんな犠牲を払ってでもミレイユを倒さねばならなかった。身体は幾本もの氷の棘が肉深く突き刺さり、動くたびに刃で切り裂かれるような激痛が走る。


だが、対峙するミレイユも決して無傷ではなかった。表面上は冷静さを保っているが、その瞳の奥には確かな疲労の色が宿っている。氷の迷宮のような防御構造は、すべてルーカスによって打ち砕かれた。今、彼の眼前に立つのは、人工的な氷の壁に守られた幻ではなく、紛れもない彼女自身の姿だ。


つまり、ルーカスは決して押し負けてはいない。かつてゾアが成し得たこと──しかしその時ゾアはほぼ戦闘不能に陥っていた──を、ルーカスは重傷を負いながらもなお立ち続けて成し遂げていた。吹雪の中でも燃え続ける炎のように。


一瞬、ルーカスの全身が弓の弦のように張り詰め、次の瞬間、恐るべき速度で前方へ弾き飛ぶ。背後に鮮烈な雷光の軌跡を残し、凍りつく霧を真っ二つに裂く。腕全体を覆う眩い白雷は、まるで雷神の鉄槌が振り下ろされるかのようだ。


ミレイユは一瞬息を呑む。本能が差し迫る危険を告げていた。即座に後方へ跳び、目前に三枚の厚い氷壁を展開する。それぞれ巨大な水晶のように雷光を反射して眩く煌めく。だが、ルーカスの動きを一目見ただけで、彼女は悟った──この一撃を真正面から受けてはならない。


彼女は身をひるがえし、刃をかわす鳥のように横へ滑る。


ルーカスの拳が空間を爆ぜさせた。白い稲妻が奔り、陰鬱な空を裂くほどの光が迸る。地面は激震し、二筋の深い裂け目が走る。三枚の氷壁は連鎖的に粉砕され、無数の氷片が宝石雨のように舞い、爆風に巻き上げられて天高く飛散した。


爆発が収まると、灰色の煙が視界を覆う。その中から一つの影が飛び出す──右腕に深い裂傷を負い、白い氷上に赤を広げるミレイユだ。彼女はためらいなく虚空から無数の鋭い氷の槍を召喚し、ルーカスへと放つ。矢のような速度で迫る氷槍は、耳を裂く金属音を響かせた。


ルーカスは避けようとしたが、足首に冷たく重い感触を覚える。視線を落とすと、氷の巨大な手が地面から伸び、彼の脚をがっちりと掴み、動きを封じていた。


咄嗟に歯を食いしばり、彼は瞬間移動を発動。白雷が弾け、次の瞬間、彼はミレイユの目前に現れる。距離が近すぎる──彼女の瞳に、一瞬だけ不安の色が走った。


ルーカスは拳を構え、全身の筋肉を極限まで緊張させる。銀の龍のように雷光が腕を這う。しかしその瞬間、ミレイユは凍える吹雪を爆発させ、広範囲を瞬時に氷結させた。無数の氷棘が四方から突き出し、雷光を無数の煌めきに変え、この場所を死の宮殿へと変貌させる。


ルーカスの全身が氷漬けとなり、呼吸が徐々に鈍くなる──だが、数秒後、鋭い雷鳴が弾け、白雷が爆発的に拡散した。氷は粉々に砕け、破片が四散する。ルーカスは解放され、汗を滲ませながら後退した。


遠く離れた観覧席。絢爛豪華な晩餐のはずが、今は下卑た酒場のような喧騒と化している。口に何千金もの価値がある料理を含みながら、観客たちは眼前の光景に歓声を上げていた。


司会役の男が嘲笑を交えて言う。


「能なしのガキ、見てて退屈だな。やっぱりこういう一方的じゃない派手な戦いこそ、金を払う価値がある。」


隣の酔漢が頷く。


「ああ、その通りだ!」


ルーカスとミレイユはどちらもS級能力者。ゆえにその一撃一撃は破壊的で、他の試合とは比べ物にならない迫力と華麗さがあった。


だが、アコウの力がどれほど恐るべきか、彼らは理解していないわけではない。理解はしている──しかし、能力を持たぬ者など、どれほど強くとも道具扱いに過ぎない。文明が全世界にその力を公表したとき、ようやく渋々敬意を払うのだ。


その頃、戦略室では最も権力を握る者たちが、戦闘データを集計・分析し、平和文明連盟へ送信していた。世界に公表されるその数値は、個人の危険度──力、情報、権力──を示し、世界規模で厳重に管理される。


再び戦場へ


二人の戦いは終局へ向かっていた。この戦いが終われば、試験も終わる。しかしルーカスは知っている──もしミレイユの命が危険に晒されれば、彼女の首領が現れ、それは彼にとって死を意味することを。


それでも彼の瞳は揺るがない。最初から決めていたのだ。たとえ敵が一団であろうとも、最後の一息まで戦うと。


白銀の氷原に稲妻が閃き続ける。ルーカスは嵐のごとき連撃を放ち、氷を無数の光の粒へと砕き飛ばす。その足取り、瞬間移動のたびに生まれる閃光が、ミレイユを押し下がらせ、対応を強いらせる。


ミレイユは細身で鋭利な氷剣を呼び出し、切り込む。


初撃──雷光を纏った拳と、月光のような氷剣の切っ先がぶつかり、激烈な衝撃が走る。地面は裂け、氷片が星屑のように舞い上がる。瞬時に両者の姿は観客の視界から消え、残るは白と青の閃光が交錯する軌跡のみ。


氷剣が空を裂き、ルーカスの服を裂き、胸に赤い線を刻む。熱い血が溢れるが、彼は止まらない。一瞬で背後に回り、拳を振り下ろす。


拳はミレイユの頬をかすめ、細い傷を残す。雷光が肌を痺れさせる。その威力は足元の氷を真っ二つに割り、破片を星雨のように散らした。


金属音と雷鳴が入り混じる死闘を前に、レ・フルール・モルテルの首領はただ目を見開き、呟く。


「ミレイユ……本当に持ち堪えられるのか?」


その頃、別の場所で。アユミの隣に座っていた青年は、読みかけの本を静かに閉じ、落ち着いた眼差しで立ち上がった。


「どこへ行くの?」とアユミが問う。


彼は微笑む。


「最後の戦いに参加するためさ──すべてを破壊する者として。」


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