第4話


「聖女殿、杯を」


 差し出されたのは、薄い金色の液体が満たされた水晶杯だった。

 ガルデンの大広間、天井から吊るされた巨大な燭台が黄金の光を振りまき、絢爛な食卓を照らしている。

 肉、果物、香辛料の匂いが混ざり合う中で、その杯だけが妙に冷たく輝いていた。


 リディアは差し出した従者を見ず、正面に座るレオニスを見据えた。


「……毒でも入っていそうですね」


 軽く笑ってみせたが、王子は眉ひとつ動かさず杯を掲げる。


「毒ではない。むしろ、お前に必要なものだ」

「必要?」

「この地の空気は重い。心身を和らげる薬だ。飲めば、慣れるのも早くなる」


 穏やかな声音。しかし、その奥にかすかな圧力があった。

 周囲の兵や侍女たちが、固唾を呑んで二人を見守っている。

 断れば――それは明確な拒絶の意思として受け取られるだろう。

 それでも、彼女は杯に口をつけなかった。


「……私は聖女です。心を和らげるものは祈りだけで十分」


 淡く微笑んで返すと、レオニスの目が一瞬だけ細まった。


 だが次の瞬間、彼は自分の杯を手に取り、同じ液体を口に含む。


「ほら、同じものだ。これで疑いは晴れただろう」


 彼の喉が動くのを見て、会場に微かな安堵の空気が流れる。

 リディアもまた、仕方なく杯を持ち上げた。

 唇を触れさせただけで、ごくわずかに飲む。

 ――その瞬間、喉の奥に甘く重たい香りが広がった。

 舌の上で溶けるような、そして微かに痺れるような感覚。


 杯を置くと、視界がわずかに揺らいだ。

 音が遠くなり、レオニスの声だけが近く響く。


「いい子だ」


 その言葉に、なぜか胸の奥がきゅうと締め付けられる。

 嫌悪と、説明のつかない温かさが同時に湧き上がる。



 宴が終わりに近づくころ、リディアは部屋へ戻されていた。

 足取りはしっかりしているが、頭の奥に霞がかかったように思考が鈍い。

 暖炉の前に立つと、そこへセレナが入ってきた。


「ねえ、どう? ガルデンの酒は」

「……酒じゃないわね。あれは」


 低く返すと、セレナはくすくす笑い、彼女の耳元に囁く。


「そう、あれは“鍵”よ。あなたの心にかける、最初の鍵」

「鍵?」

「そのうち分かるわ。開けられてしまえば、もう抵抗できない」


 リディアは立ち上がり、セレナとの距離を詰めた。


「私に何かするつもりなら、失敗するわ」

「ふふ……楽しみね」


 その夜、眠りにつこうとしても、まぶたの裏に王子の姿が浮かんだ。

 あの金色の瞳、低い声、そして――触れられた指先の熱。

 何度頭を振っても、その感触だけは薄れない。



 翌朝、鏡の前で髪を整えていると、額に淡い光が走った。

 まるで見間違いかと思うほど一瞬のこと。

 だが、よく見ると皮膚の下に薄く紋のような形が浮かんでいる。

 細い線が絡み合い、円を描く文様――見たことのない紋章だ。


 その紋に触れた瞬間、全身がぞくりと震えた。

 心臓の鼓動が速まり、なぜか呼吸が浅くなる。

 すぐに手を離すと、光は消え、ただの額に戻っている。


「……これは……」


 鏡の中の自分を睨みつける。

 あの杯と、この紋――偶然ではない。

 胸の奥に、拒絶の炎が灯る。

 ――私は、絶対に馴染まない。どんな鍵を使われても。


 その決意だけを握りしめ、彼女は額に垂れた髪をそっと整えた。

 紋を隠すように。

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