第4話
「聖女殿、杯を」
差し出されたのは、薄い金色の液体が満たされた水晶杯だった。
ガルデンの大広間、天井から吊るされた巨大な燭台が黄金の光を振りまき、絢爛な食卓を照らしている。
肉、果物、香辛料の匂いが混ざり合う中で、その杯だけが妙に冷たく輝いていた。
リディアは差し出した従者を見ず、正面に座るレオニスを見据えた。
「……毒でも入っていそうですね」
軽く笑ってみせたが、王子は眉ひとつ動かさず杯を掲げる。
「毒ではない。むしろ、お前に必要なものだ」
「必要?」
「この地の空気は重い。心身を和らげる薬だ。飲めば、慣れるのも早くなる」
穏やかな声音。しかし、その奥にかすかな圧力があった。
周囲の兵や侍女たちが、固唾を呑んで二人を見守っている。
断れば――それは明確な拒絶の意思として受け取られるだろう。
それでも、彼女は杯に口をつけなかった。
「……私は聖女です。心を和らげるものは祈りだけで十分」
淡く微笑んで返すと、レオニスの目が一瞬だけ細まった。
だが次の瞬間、彼は自分の杯を手に取り、同じ液体を口に含む。
「ほら、同じものだ。これで疑いは晴れただろう」
彼の喉が動くのを見て、会場に微かな安堵の空気が流れる。
リディアもまた、仕方なく杯を持ち上げた。
唇を触れさせただけで、ごくわずかに飲む。
――その瞬間、喉の奥に甘く重たい香りが広がった。
舌の上で溶けるような、そして微かに痺れるような感覚。
杯を置くと、視界がわずかに揺らいだ。
音が遠くなり、レオニスの声だけが近く響く。
「いい子だ」
その言葉に、なぜか胸の奥がきゅうと締め付けられる。
嫌悪と、説明のつかない温かさが同時に湧き上がる。
◆
宴が終わりに近づくころ、リディアは部屋へ戻されていた。
足取りはしっかりしているが、頭の奥に霞がかかったように思考が鈍い。
暖炉の前に立つと、そこへセレナが入ってきた。
「ねえ、どう? ガルデンの酒は」
「……酒じゃないわね。あれは」
低く返すと、セレナはくすくす笑い、彼女の耳元に囁く。
「そう、あれは“鍵”よ。あなたの心にかける、最初の鍵」
「鍵?」
「そのうち分かるわ。開けられてしまえば、もう抵抗できない」
リディアは立ち上がり、セレナとの距離を詰めた。
「私に何かするつもりなら、失敗するわ」
「ふふ……楽しみね」
その夜、眠りにつこうとしても、まぶたの裏に王子の姿が浮かんだ。
あの金色の瞳、低い声、そして――触れられた指先の熱。
何度頭を振っても、その感触だけは薄れない。
◆
翌朝、鏡の前で髪を整えていると、額に淡い光が走った。
まるで見間違いかと思うほど一瞬のこと。
だが、よく見ると皮膚の下に薄く紋のような形が浮かんでいる。
細い線が絡み合い、円を描く文様――見たことのない紋章だ。
その紋に触れた瞬間、全身がぞくりと震えた。
心臓の鼓動が速まり、なぜか呼吸が浅くなる。
すぐに手を離すと、光は消え、ただの額に戻っている。
「……これは……」
鏡の中の自分を睨みつける。
あの杯と、この紋――偶然ではない。
胸の奥に、拒絶の炎が灯る。
――私は、絶対に馴染まない。どんな鍵を使われても。
その決意だけを握りしめ、彼女は額に垂れた髪をそっと整えた。
紋を隠すように。
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