魔王討伐してる間に、勇者は国も姫も奪われました 〜敵国の王子に支配されるまで〜

夜道に桜

第1話

「ねぇ、本当に行くの?」


 朝の冷たい空気の中、リディアは城門前で腕を組んだまま、目の前の青年を見上げた。


 勇者アレンは苦笑しながら、肩にかけたマントを整える。


「ここまで見送りに来てくれたってことは、行くってわかってるだろ」


「だって、こんな寒いのに。もうちょっと春まで待てばいいのに」


「魔王が春まで待ってくれたらいいんだけどな」


 軽口を交わす二人の間に、兵たちの準備の音が混ざる。

 リディアは唇を尖らせ、アレンの腰の剣を指差した。


「それ、ちゃんと研いだ? 前みたいに途中で抜けなくなって困らない?」

「あれは雪で凍っただけだ」

「へぇ、そうだったっけ?」


 ふっと笑うリディアの耳元で、風の精が小さく鈴を鳴らす。髪飾りの銀鈴が震えて、澄んだ音が冬空に溶けた。


 アレンはその音に目を細める。


「風まで見送ってくれてるみたいだな」

「うん。……みんな、あなたの帰りを待ってるから」


 彼女は掌を差し出し、アレンの手と重ねる。

 指先の間に淡い光がひとすじ走った。精霊に誓う簡素な契り――互いに嘘をつけない結び目。


「戻ったら……今度こそ、正式に」

「ああ。父上にも話してある」


 門の鎖が上がり、列が動き出す。

 最後尾で振り返ったアレンが口の形だけで「必ず」と告げた。

 その無音の言葉を胸に刻み、リディアは手を振る。

 笑顔の裏で、胸の奥が少しだけきゅうと痛んでいた。



 王城の最上層、神殿の回廊は昼になると光で満ちる。

 日課の祈りを終えたリディアは、水盤に手を浸し、精霊の声に耳を澄ませた。水と土と風が穏やかに会話し、最後に火が短く笑う。


 ――東境は冷えている。雪雲が近い。


 季節の移ろいを確かめ、彼女は頷く。


 城下町では、年寄りが彼女を見ると手を合わせ、子どもたちが駆け寄った。


「聖女さま、今年の雪は多い?」

「ほどほど。麦畑がちゃんと眠れるくらいね」


 子どもたちが笑顔になると、リディアも笑った。

明るく振る舞うのは得意だ。


けれど、胸の奥にある寂しさだけは隠し切れない。


 その夜、更けた廊下に父王の足音が響く。


「東境からの伝令は?」

「まだです。雪で道が塞がる前に来るはずですが」


 父は頷き、「ガルデンの使者が増えている。城外には出るな」と告げた。


 協定を結んだ隣国、ガルデン。


だが新王子の治世になってから、その笑顔の奥に冷たい光が宿っているという噂が絶えない。



 数日後の夕暮れ。

 厩の少年が駆け込み、「東の見張り塔から狼煙が!」と叫んだ。

 青灰色の空に、黒煙が一本、まっすぐ立ち上っている。

 狼煙は嘘をつかない。これは本物だ。


 地図の上に置かれた石の駒。


「東境、第二関門。旗、未確認。……騎兵、多数」

 記録官の声がわずかに震える。


 父王は短く命じた。

「門を固めろ。使者を出す。――協定の通行確認だ」


 リディアは唇を噛む。

 胸の奥で、風の精がささやいた。


 ――来る。


 リディアの指先が冷たくなっていく。

 遠くで、風鈴がもう一度鳴った。

 今度の音は、どこか低く重かった。

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