小さな世界の、はしっこ。
電車の車内には静かに、ガタンゴトンと響いていた。
車内には、僕と阿澄ちゃん以外の乗客はいない。
潮の香りが流れ込み、海に近づいていたことを実感させた。
「…………」
「…………」
阿澄ちゃんは外の景色を、僕はそんな阿澄ちゃんをずっと眺めて、お互いに何も話さない時間が続いていた。
気まずさはなかった。ただ、胸の奥にくすぐったい、罪悪感のようなモヤが広がっていた。
阿澄ちゃんは、膝に抱えたリュックをぎゅっと抱きしめ、夕日に目を細めていた。
それは後ろめたさに沈んでいるようにも、ただ夕日で照らされる海に見とれているようにも見えた。
結局、電車が終点にたどり着くまで、僕らは一言も言葉を交わさなかった。
♪
電車が止まり、僕たちは外に出た。
乗車券を運転士に渡し、周りを眺める。
駅に人はおらず、文字通りの無人駅だった。
町の音と比べると、車の音すらロクに聞こえない静けさがあった。
潮の香りも、電車の中から感じた時より、より強く感じる。
「じゃあ、行こうか、阿澄ちゃん」
「……はいっ」
僕たちは、自然と手を繋いだ。
そのまま駅を出て、近くの海岸へ歩いた。
砂浜につくと、阿澄ちゃんは「わぁ……」と感嘆の声をあげた。
辺りはもう殆ど日が沈み、暗くなっていた。
目の前にはほとんど先の見えない海が、ただ暗くさざめいていた。
僕には、美しさよりも、暗闇の怖さや自然の雄大さが前に出てきて、感動よりも恐ろしさの方が勝った。
ただ、阿澄ちゃんには新鮮に、美しく映ったようだ。
「……ふふっ、よいしょ」
阿澄ちゃんは、リュックを砂浜に置き、靴を脱いで、波打ち際へ走っていった。
「ひゃっ、つめたい!」
無邪気に波を楽しむ彼女は、年相応の少女に見えた。
「歩さんも、こっちであそびませんか?」
「うん、今行くよ」
僕も靴を脱いで、阿澄ちゃんの傍まで歩いた。
波が僕の足にあたり、直ぐさっきつけた足跡が消えていく。
「おおっ、つめたっ」
「ですよねっ」
阿澄ちゃんは楽しそうに笑い、スカートの端を掴みながら、砂浜をちょこちょこと走り出した。
「あはっ、あはは、あは……」
けれど、徐々に声は細くなり、やがて途切れた。
「阿澄ちゃん?」
疲れてしまったのかと思って心配になり、傍に寄ったが、特に息は切れてなかった。
ただ、さっきまでの笑顔は、波でさらわれたみたいに無くなっていた。
「……歩、さん」
彼女は、きゅっとスカートを握りしめ、不安そうに立ち尽くしていた。
「……阿澄ちゃん、ちょっと休もうか」
僕が手を伸ばすと、彼女は小さく頷いた。
遊びの熱が消え、波の音だけが響く砂浜を、僕らはゆっくり歩いて戻った。
♪
僕たちは、砂浜の上で座り込み、静かに海を眺めていた。
阿澄ちゃんは、まだ不安そうに前を見ていた。
「阿澄ちゃん、大丈夫?」
彼女は、僕の方をちらっと見た後、少し目を泳がせた。
そして意を決したように目をキリっとし、こちらを向いた。
「……歩さん、わたし、はなよめ修行をしているんです」
「花嫁修行?」
彼女は頷いた。
僕は、少し目を見開いた。
なるほど、お嬢様だとは思っていたが、習い事とは花嫁修行の事だったのか。
「それが、阿澄ちゃんがイヤになった習い事ってこと?」
「……はい」
「それって、お裁縫とかお料理とか?」
「ほかにも、色々あります。れいぎ作法とか、お琴とか」
なるほど。阿澄ちゃんの家は、中々古風なところもあるらしい。
「けっこんする相手も、きまってます。わたしの生まれる前から、きまっていました」
「許嫁ってやつかぁ……」
今時、許嫁とは思っていた以上に古風だと、当時も子供ながらに感じた。
何か、胸の奥にぼんやりとモヤのようなものができた気がした。
「そう、なんだ。どんな人なの?」
「……わかりません」
「えっ?顔も見た事ないの?」
彼女は、首を縦に振った。どうやら、本当に見たこともないらしい。
そんな事があるのか?結婚の約束をしているのに?
「ほんとうは、会ったことがあるらしいのですけど、それは赤ちゃんのころだったので……」
「……そりゃ、覚えてないよね」
つまり、阿澄ちゃんは。
「赤ん坊の頃に一度顔合わせをした程度のつながりの人と許嫁にされて。その人のお嫁さんになるために、たくさんの花嫁修業をやらされてるってこと?」
彼女は、はい、と頷いた。
「わたしのかよっている学校でも、ほかに許嫁になっている人はいません。わたしだけです」
今時、よほどの事がない限り、親同士で結婚相手を決める事なんて無いだろう。
許嫁仲間(?)がいないことも当然だと思う。
「はなよめ修業はまいにちあって、ほうか後になったらすぐおむかえがきます」
「それじゃあ、友達とは?」
「……はい。いっしょにあそんだりしたことは、ありません」
「そんな……」
見た感じ、阿澄ちゃんは小学一年生くらいの見た目をしていた。
そのような幼い子が、友達とまったく遊べないとは、さぞ嫌なことだろう。
それも、ロクに顔を合わせた事のない相手の為に。
「ねえ歩さん。わたしも、友だちといっしょにあそびたいです。こうえんで走りまわったり、アイスをいっしょに食べたりしたいです」
彼女は、必死に訴えかけていた。声は震え、目に涙を溜めながら。
波の音に微かに消されそうな、か細い声で。
「わたし、お父さんとお母さんにきいたことがあります。『はなよめ修業はもういやだ』って」
「……そうしたら、なんて?」
「……『そんな事では、立派なお嫁さんになれませんよ』って、いわれました」
海から吹いてくる風が、一層冷たく感じた。
「ひどい……そんなの、阿澄ちゃんの思いをまるで無視してるじゃん!」
その時の僕は、そう感情的になるしかなかった。
……今思えば、その時の僕は、彼女の孤独がどういうものか分かっていなかったのだろう。
「……わたし、どうしたらいいか分かりません。歩さん、わたしはどうしたらいいんでしょう?」
それでも、僕はとにかく彼女の力になりたかった。
だから、その時の僕なりに掛けられる言葉を掛けようと思ったのだ。
「……誰かの言いなりになりたくないならさ、自分が強くなればいいんじゃないかな」
「……えっ?」
彼女は、僕の事をびっくりしたように、目を丸くして見た。
「お父さんとお母さんが自分の話を聞いてくれないなら、自分を向いてくれないのなら、自分が強くなればいいんだよ!」
「わ、わたしが、つよく……?」
まだピンときていないのか、かわいらしく首を傾げていた。
ただ、その表情にもう悲壮感は無かった。
「うん、自分が強くなれば、みんな言う事を聞いてくれるし、頼み事もしやすくなる!……父さんの受け売りだけどね」
「で、でもつよくなるってどうすれば……?」
阿澄ちゃんは、肘を曲げ力こぶを出すようなジェスチャーをしていた。
もちろん、力こぶは出ず、ただ彼女が愛らしく、こう?と首を傾げるだけだった。
「こういうのって、多分勉強とか習い事とか、そういうのだけじゃなくって、心の強さっていうの?そういうのを強くするのがいいと思うんだ」
「こころ」
「うん。誰かに何か命令したり、文句を言ったりすることって、すごく勇気のいることだと思うんだ。そういう時に一歩を踏み出す為に、強い心を持っていれば、無理に話を聞かなくても、自分の思った通りにできると思うんだよね」
彼女は、口を開けてぽかーんとしていた。
こんな発想、今まで彼女は考えたことも無かったのだろう。
「……そんなこと、わたしにできるでしょうか?」
少し震えた声だったが、薄く微笑みながら言っていた。
「ぜったい、大丈夫だよ。阿澄ちゃんなら」
僕は、右手の親指を立て、サムズアップをした。
「少なくとも、こんな家出をできるくらい、君はやればできるんだ。阿澄ちゃんなら大丈夫だよ」
家出と聞いて彼女は少し顔を赤らめたが、その熱は直ぐに引いた。
そして、彼女もぎこちなく右手でサムズアップをして、満面の笑顔で笑った。
「……ありがとうございます、歩さん。わたし、勇気をもらいました」
今振り返れば、僕の励ましは余りに稚拙なものだったと思う。
それでも、当時の僕は、本気でそうするべきだと信じていた。
――そして、阿澄ちゃんも本気で信じてくれたのだ。
「……歩さん、一つ、おねがいしても、いいですか?」
彼女は、もじもじと自分の手を握りながら、恥ずかしそうに言った。
「おっ、早速だね!なんでもいってよ」
「……今から、やりたいことがあるんです。でも、ゆうきが足りないので、ゆうきがほしいんです」
つまり、元気づけてほしい、ということだろうか。
「うん、わかった。ほら」
「わっ……」
僕は、阿澄ちゃんの頭に手を伸ばし、そのまま撫でた。
……女の子を元気づける経験は余りなかった僕には、こうするくらいしか思いつかなかったのだ。
「……えへへ」
それでも彼女は、とても幸せそうに微笑み、僕の肩に頭を乗せてきた。
不思議と、彼女の鼓動が伝わってきたような気がした。
女の子に寄りかかられた経験がなかった僕は、心臓が張り裂けそうなくらいドキドキしていた。
もしこの鼓動も伝わっていたら、死にそうなくらい恥ずかしくなっていただろう。
「……えっと、勇気、分けられたかな」
このままでは自分がもたないと思った僕は、ついやめようと声を掛けた。
「……もう一つだけ、わがまま言わせてほしいです」
「わがまま?」
すると、阿澄ちゃんは僕の肩から頭を離し、じっと僕の目を見つめた。
「……じー」
「えっ、えっと、阿澄ちゃん?」
恥ずかしくなり、つい声が出てしまった。
「えいっ」
「わっ!?」
阿澄ちゃんは、突然僕の胸に飛び込んできた。
勢いで倒れそうになってしまうが、僕は何とか耐えた。
「……え、えへへ」
彼女は、僕に抱き着いてきたのだ。
「――――っ」
こんな経験も、したことはない。
正直、恥ずかしすぎて叫びそうになっていた。
だけど、幸せそうに僕に抱き着いている阿澄ちゃんを見ると、恥ずかしそうにしているのもなんだか失礼に思えてきた。
僕はそっと、彼女の背に手を回し、抱き返した。
「……歩さん」
「んん?なに?」
僕の方が、声が上ずっていた。
「わたし、これから家の人をよんで、いえにかえります」
「……うん」
彼女の声に、もう不安や迷いはなかった。
「そして、いっぱいあやまって、それでいっぱいお勉強をがんばります」
「うん」
「そして、その、」
「うん?」
阿澄ちゃんの抱き着く力が、少し強くなった。
「こんやく者さんじゃなくて、もっとべつの人がすきになったって、いいます」
「――えっ」
自分でも信じられないくらい、鼓動が早くなった。
いや、もうどちらの鼓動なのかが全く分からなくなった。
幸せなのに、苦しい。
こんな気持ちになったのは、初めてだった。
「歩さん」
「なにっ?阿澄ちゃん」
「わたし、8さいなんです」
「えっ?」
突然年齢を言われて、僕は困惑した。
「えっと、けっこんって18さいから、なんですよね」
「えっ?ああ、そうだっけ」
もう、頭の中はこんがらがって、自分が何を言っているのか分からなかった。
顔が熱くて仕方なかった。
「だから、10年ご、歩さんをむかえにいきます」
「――――」
夜のさざ波に、彼女の声が吸い込まれていった。
どう考えても、これはプロポーズだ。
当時の僕でも、そう思った。
「えっと……」
すると、阿澄ちゃんは抱き着くのを緩め、僕を見上げた。
彼女の顔も、りんごみたいに真っ赤になっていた。
「いい、です、か?」
彼女の声も、かなり上ずっていた。
恥ずかしすぎるのか、目をうるうるとさせながら、こちらを窺っていた。
まいった。こんな経験は、後にも先にも、したことがなかったから、どう答えればいいのか迷った。
「……うん、えっと、待っていま、す?」
なんとも煮え切らないが、なんとかそう声を絞り出した。
「――っ、ありがとう、ございます!わたし、がんばります!がんばって、つよくてすてきな大人になります!」
阿澄ちゃんは、月の明かりに照らされながら、満面の笑みでそう言った。
「……うん、頑張れっ、阿澄ちゃん。僕、まってるから」
自分でもどうしてこう言えたのかは分からないが、こう言った方がよいと、そう思えた。
「はいっ、歩さん!」
吹きすさぶ海風から、寒さはもう感じなかった。
阿澄ちゃんは、気が済むまでずっと、僕に抱き着いていた。
♪
その後、阿澄ちゃんはポケットの中にしまっていた子供用のスマホを取り出した。
どうやら電源を切ったままにしていたようで、電源を入れた途端、鬼のような通知が入ってきた。
彼女は少し怖がったが、そっと僕の服の袖をつかむと、深呼吸をした後、電話を掛けた。
親らしき人が電話に出ると、彼女は凛と声を張りながら、真摯に謝った。
この光景だけ見れば、彼女が年下であることは、とても信じられなかっただろう。
電話を横から聞いていると、どうやら自分のわがままで僕を巻き込んでしまったと話しているようだった。
それは違うと言いかけたが、阿澄ちゃんは首を横に振って僕を制止した。
そして、自分たちがどこにいるのかを説明し――彼女はしっかり自分の下りた駅を把握していた――車の迎えをしてもらえるようお願いしていた。
電話を切ってから暫くすると、二台の車が海岸近くの道路に止まった。
僕は車に詳しくないが、明らかに高級そうな車であることはわかった。
そして、車からスーツを着た人たちが何人か下りてきて、こちらに走ってきた。
「ご、ごめんなさい!僕が、迷惑を」
「いえ、わたしのせいです。わたしがわがままをいって、この人をここに連れてきてしまいました。もうしわけありません」
阿澄ちゃんは、スーツの人たちと、僕に真っすぐ頭を下げて謝った。
彼女の目には、一切涙はなかった。ただしっかりと、僕たちに真摯に頭を下げていた。
スーツの人達は、最初は怒りやイライラの混じった態度だった。
しかし、彼女の謝罪を見て、すぐ態度を改め、誠実な対応に変わった。
その後、スーツの人達に連れられて、僕たちは車の前まで歩いた。
車に乗る前、阿澄ちゃんは、こちらを向いた。
「白樺歩さん、このたびは、もうしわけありませんでした」
たどたどしさはまだ残っているが、しっかりとした謝罪だった。
「……いえ、こちらこそ」
「…………あの、歩さん」
「ん?」
彼女は、先ほどまでの凛とした態度を解き、こちらにぱたぱたと歩いてきた。
「すこし、耳をかしてください」
言われた通り、少ししゃがんで頭を下げる。
すると、小さく次の様に囁いた。
「わたしの、ほんとうのなまえは――」
その囁きは、遠くなった暗い海に吸い込まれていった。
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