第4話『過去との対峙』
プロジェクトが本格的に動き始めて二週間が経った。
「心に寄り添うペン」の企画は順調に進んでいたが、細かい仕様を詰める作業は想像以上に神経を使う。インクの粘度、ペン先の太さ、グリップの素材……どれもが、使う人の手や心に直接触れる要素だった。
「白石さん、この案はいかがでしょう?」
田中さんが、手のひらに収まる小箱を持って私のデスクに現れた。中には新しい試作品が一本。
「ありがとうございます。試してみますね」
私はペンを取り出し、ノートを開く。紙の上をすべる感触は確かに軽やかで、インクの出も安定している。けれど、胸の奥で小さな引っかかりが残った。
「……うーん、悪くないです。でも、もう少し“温かみ”が欲しいかもしれません」
「温かみですか?」
と田中さんが首を傾げる。
「はい。使う人が、『このペンと一緒なら、きっと良い文章が書ける』って思えるような。手に取った瞬間、気持ちがふっとやわらぐような……そんな感覚です」
言葉にしてみると、我ながら少し曖昧だ。でも田中さんは否定するどころか、目を細めて笑った。
「白石さんらしい発想ですね。では、その“温かみ”をどう表現するか……もう少し研究してみましょう」
***
昼休み、私は一人で外に出て、会社近くの小さな公園のベンチに腰を下ろした。プロジェクトのことを考えながらお弁当をつついていると、ふいに隣に人の気配を感じる。
視線を向けた瞬間、胸の奥が冷たく凍りついた。
その顔、その薄く歪んだ笑み――忘れるはずもない。
「よう、詩織。元気にしてたか?」
――陸。
心臓が耳の奥で鳴る。呼吸が浅くなる。まるで、あの息苦しかった日々に引き戻されたみたいだった。
「……どうして、ここに?」
「お前を探してたんだよ。やっと見つけた」
口元にはあの頃と同じ、嫌な笑み。手の中のお弁当箱が震え、落としそうになる。
「会社も住所も教えずに逃げるなんて、ひどいじゃないか」
『逃げた』――その言葉が、胸の奥を鋭く刺す。確かに、私はあの頃から離れた。でも、それは……
「逃げたんじゃない。……新しい生活を始めたの」
声を振り絞って言う。お弁当箱を必死に握り直す指先が、爪で手のひらを押しつけた。
「新しい生活? 笑わせるな。お前一人で何ができるって言うんだ」
その声音も、私を小さく弱く感じさせるあの言葉も、全部昔と同じ。
けれど、今の私には――田中さんに認めてもらった日、黒川くんが支えてくれた夜、その温もりの記憶がある。
「私は……」
震える声を押し出す。
「私は、一人で立ち上がったの。転職して、新しい仕事を覚えて……今はプロジェクトも任せてもらってる」
「一人で? どうせ周りに迷惑をかけながら必死にやってるだけだろ」
冷たい目が私を見下ろす。
「それに、お前みたいな地味で面白くない女を、本気で相手にしてくれる奴なんているわけねーよ」
胸の奥で何かが音を立てて切れた。恐怖に震えながらも、私は立ち上がった。
「地味だっていい! 私には――私を認めてくれる人がいる。支えてくれる人もいる。あなたみたいに否定ばかりするんじゃなくて、本当に優しい人が!」
「お前は俺がいなけりゃ何もできない女なんだよ! 現実を見ろよ!」
その言葉をはね返すように、私は強く言った。
「違う! 私は変わったの。あなたがいなくても、ちゃんとやっていける。もう、二度と……あなたの言葉に縛られたりしない!」
***
詩織が俺を真っすぐ睨みつけた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
肩がわずかに揺れ、指先が落ち着きなく動いている。――震えてるくせに、よくそんな生意気な口がきけるもんだ。
昔はもっと素直だった。俺の言うことをよく聞き、何をするにも俺の顔色をうかがっていた。俺に依存しきって、俺の言葉を唯一の拠り所にしていたくせに。
そういえば先週、大学同期の黒川に会った。「好きなら相手を大切にするもんだろ」なんて、笑わせるような台詞を吐かれた。
馬鹿馬鹿しい。俺は十分に大切にしてきた。だからこそ、ダメな部分を直してやったんじゃないか。
思い返せば、詩織を俺のものにするのは簡単だった。
最初は甘やかす。褒める。守ってやるふりをする。
そして、心を許した頃を見計らって、少しずつ針を刺す。
「その服、安っぽく見えるな」
「その髪、似合ってない」
「料理の味、薄いんじゃないか」
ほんの少しずつ、自信という名の肉を削っていく。そして最後に致命傷を与える。
『でも俺はお前が好きだ。そんなお前でも、俺が付き合ってやる』
これで完成だ。俺がいなければ生きられない、俺なしでは何もできない、都合のいい女に。
家事は全部やる。デート代も出す。俺が他の女と遊んでも黙って見ている。――そんな女、手放す理由なんてあるわけがない。
「何でもかんでも『傷ついた』なんて言って逃げるな。俺は間違ってない」
俺はいつだって正しい。俺の愛情は、あいつを一人前にするためのものだ。
……なのに今、震えながらも俺を睨むこの目は何だ。誰かが何か吹き込んだのか。俺の大事な作品に、余計な色をつけやがって。
「あなたと私は、もう終わったの」
その言葉を聞いた瞬間、喉元まで熱いものが込み上げた。俺の許可もなく、俺から離れられると思っているのか。生意気にもほどがある。
***
陸と向き合った瞬間、胸の奥に古い恐怖が這い上がってきた。膝がかすかに揺れている。それでも、今度は違う。私には支えてくれる人たちがいる。
「私はダメじゃない。一生懸命、頑張ってる」
声はかすれ、喉が焼けるように痛かった。
「頑張ってる? 笑わせるな。お前みたいな女が何を――」
「白石?」
不意に、よく知った声が割り込んできた。
振り返ると、黒川くんが立っていた。視界がじんわりと滲む。
「……どうした? 大丈夫か?」
その低い声に、胸の強張りがふっと緩んだ。
「よう、黒川」
陸が不機嫌そうに吐き捨てる。
「氷室か。白石に何をしてる?」
黒川くんの声は、冬の空気のように冷たかった。
「別に。詩織と話してただけだ」
「俺には白石が嫌がってるように見えるが、お前には見えないのか?」
黒川くんの視線が、私の震えた手に落ちる。
「詩織はまだ俺のもんだからいいんだよ」
その言葉が胸を刺し、冷たい感覚が背中を走った。けれど私は――震える唇で、それでも言った。
「違う。陸とはもう別れてる」
「詩織、お前……!」
黒川くんが心配そうに眉を寄せる。
「白石、もう行こう」
差し出された手を、迷わず握った。
「おい、待てよ!」
陸が一歩踏み出す。その瞬間、黒川くんが振り返った。
「……白石は、もうあんたと関わる気はない」
低く抑えた声が、周囲の空気を一瞬で張り詰めさせた。
「これ以上近づくな。もしまた何かしたら、俺が黙ってない」
黒川くんの視線が、まるで鋭い刃のように陸を射抜く。その眼差しは、冗談や脅しではないと一瞬で理解させる迫力を帯びていた。
陸はわずかに口を開いたが、言葉が出てこない。肩をすくめるようにして視線を逸らすしかなかった。
「私は誰の所有物でもない。私は私よ」
自分の声が震えているのがわかった。それでも――ようやくその一言が言えた。
***
黒川くんと並んで会社へ戻る道すがら、全身の震えがまだ収まらなかった。自分の歩幅が少し乱れているのがわかる。
「大丈夫?」
その声は、驚くほどやわらかくて、耳に触れた瞬間、胸の奥まで沁みこんだ。
「……ごめん。なんか、情けないよね」
「情けなくなんかない。よく頑張ったじゃないか」
「でも、震えが止まらなくて……」
情けなさと悔しさが混ざって言葉がにじむ。せっかく前に進めると思っていたのに、陸の顔を見た途端、あの頃の恐怖が容赦なく蘇った。
「当然だよ。そんな簡単に消えるもんじゃない」
黒川くんが足を止め、私の方をまっすぐ見る。その距離が近すぎて、胸が不意に高鳴る。
「でも、白石は震えながらも氷室に立ち向かった。それがすごいんだ」
胸の奥がじわりと熱くなる。
「黒川くん……」
「もう、一人で抱え込まなくていい。俺がそばにいるから」
真っ直ぐな言葉が、心の奥にまるで告白のように響く。視界がじわっとにじみ、呼吸が少しだけ乱れた。
「白石を傷つける奴は、俺が許さない」
その瞬間、彼の表情は優しさだけじゃなく、揺るがない強さを帯びていた。胸の奥が、熱く、苦しく、でも確かに甘く満たされていく。
***
オフィスに戻り、椅子に腰を下ろした瞬間、胸の奥で乱れていた鼓動がやっと落ち着き始めた。けれど、さっきの光景は頭から離れない。
氷室に怯えながらも、震える声で立ち向かった白石。その姿が、ずっと心の奥に封じ込めていた感情を呼び覚ました。
――やっぱり、俺は白石が好きだ。
高校の頃、何度も胸を締めつけられたあの気持ち。今はそれよりも深く、確かな形で心を満たしている。
守りたい。笑っていてほしい。
氷室のようなクズから遠ざけ、彼女が本当の幸せを手に入れるまで支えたい。
……でも、今はまだ言えない。白石は過去の傷と闘っている最中だ。俺の想いが重荷になれば、また彼女を苦しめるだけかもしれない。
それでも、決意は変わらない。
氷室に「私は誰の所有物でもない」と言い放ったあの瞳。恐怖の奥に宿った強さが、俺の心をまっすぐ撃ち抜いた。
焦らず、白石の歩幅に合わせていこう。
そしていつか、迷わず隣に立てる男になる。
――俺は、白石の一番の支えになる。
***
その夜、私は手帳を開き、震える指でペンを握った。
『今日、陸に会った。怖くて体が震えた。あの頃のことが一気に蘇った。でも逃げなかった。震えながらでも、私は私だって言えた。黒川くんが助けてくれた。彼がいてくれて本当に良かった。』
書き終えた文字がわずかに滲んでいる。
恐怖はまだ胸の奥に残っている。陸を思い出すだけで、心臓が早くなる。
それでも――今日は一歩、前に出られた。
机の引き出しから色鉛筆を取り出し、小さな花を描く。線は頼りないけれど、確かに咲いている花。
私の心にも、こんな花が咲きかけているのかもしれない。厚い土の下からようやく顔を出したばかりの、小さな芽のように。
手帳を閉じ、胸の中でそっと息を整える。
怖さはすぐには消えないだろう。
でも――私は一人じゃない。黒川くんが、田中さんが、玲奈がいてくれる。
そのぬくもりを思えば、きっと前へ進める。そう信じられた。
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