第3話『試練と支え』
転職して一ヶ月ほど経った頃、私は初めて新商品の企画会議に呼ばれた。
会議室の空気は少し硬い。テーブルの上に並ぶ資料の束と熱気を帯びた視線。自分の順番が来るまで、心臓が小さく跳ね続けていた。
「白石さんのアイデア、とても面白いですね」
部長が私のスライドに目を留めて笑った。
私が出したのは「心に寄り添うペン」というコンセプト。ただ書きやすいだけじゃなく、持つ人の気持ちに寄り添えるような文具――そんなものを作ってみたいと思った。
「ありがとうございます。まだまだ勉強不足で……」
「いえいえ、とても良い着眼点です。このプロジェクト、白石さんにメインで進めてもらいましょう」
一瞬、息が止まった。
まだ転職して一ヶ月。名前もようやく覚えてもらえたくらいなのに。
「私がメインで大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。田中さんにサポートしてもらいながら進めてください」
田中さんも隣で穏やかに頷く。
「白石さんなら安心して任せられます」
会議が終わると同時に、背中から力が抜けた。
責任の重さに胃がきゅっと縮むけれど、自分のアイデアが形になるかもしれないと思うと、胸の奥でふわりと熱が広がった。
***
昼休み、私は久しぶりに友人の玲奈と会った。
「詩織、なんか顔色が良くなったね」
開口一番、そんな言葉をかけられる。
「そうかな?」
「うん。前はもっと疲れてる感じだったけど、今は生き生きしてる」
思わず笑みがこぼれた。自分では気づかなかったけれど、確かに毎日が充実している。
「転職して本当に良かったよ。仕事も面白いし」
「でしょ? あの時、転職を勧めて正解だったなって思ってた」
玲奈は陸との別れ際、私の背中を押してくれた大切な人だ。
「それでさ、例の同級生とはどう?」
「例の?」
「ほら、高校のときに好きだった人でしょ?」
頬がじんわりと熱くなる。
「友達として仲良くしてもらってる。すごく優しい人」
「友達として……詩織らしいなあ」
玲奈は小さく笑った。
「でも、焦らなくていいよ。詩織は陸のことがあって、自信を失くしてたんだから。まずは、自分のことをちゃんと好きになるところからでいいんじゃない?」
胸の奥に温かいものが広がった。まさにその通りだと思う。
「ありがとう、玲奈。また相談させて」
「いつでも!」
***
午後、開発部へ戻るためにエレベーターに乗ると、先客が一人。受付の女性が書類入りの封筒を抱えて立っていた。こちらに目を向けると、口元だけ笑って声をかけてくる。
「もしかして、白石さん?」
少し驚きながらうなずく。
「はい、白石です」
「受付の高嶋瑠衣です。総務部に書類を届ける途中で。開発部の新しい人ですよね」
完璧に整えられた髪、モデルみたいなスタイル。視線を向けられるだけで、場の空気が変わるような華やかさを持った人だった。私とは対極の存在。
「はい。白石詩織といいます。よろしくお願いします」
「こちらこそ。――あ、黒川さんと同級生だったとか?」
笑顔は保ったまま、探るような目。
「はい、高校の同級生です」
「へえ。黒川さんって、社内でもかなり人気ありますからね。昔から知ってるなんて……いいポジションですね」
口調は軽いのに、妙な圧を感じた。
「どんな関係だったんです?」
「図書委員を一緒にやっていました」
「ふーん、図書委員……地味ですね」
最後の二文字が、はっきりとわざとらしく響く。
直後、彼女の視線が私の服装や髪型を、上から下まで値踏みするように動いた。
「思ったより……本当に地味なんだ。ちょっと意外」
笑顔のまま突き刺すような一言。胸の奥がきゅっと縮む。
――地味。
あの人に何度も言われた言葉だった。
「お前は地味で面白くない」
「俺の隣にいるのが恥ずかしい」
瑠衣の声と、陸の声が重なって響く。
「……そうですか」
それだけ返すのが精一杯だった。瑠衣は肩をすくめ、上品に笑う。
「じゃ、お仕事頑張ってくださいね」
エレベーターの扉が閉まりきる前に、視線が最後まで私を捕らえていた。
開発部の階に着いても、足は重かった。
――やっぱり私は地味で、黒川くんの隣に立つには不釣り合いなのかもしれない。
陸の声が頭の中で何度も繰り返され、せっかく積み上げた自信が音を立てて崩れていくのを感じた。
***
夕方、黒川くんが開発部に現れた。
「お疲れさま。プロジェクトの件で……白石、大丈夫?」
不意にかけられた声に顔を上げると、彼が私をじっと見ていた。
「……うん、大丈夫」
自分でも分かるくらい、声がかすれていた。
「その声で説得力ゼロだよ。何かあった?」
「別に……」
「白石」
名前を呼ぶ声が少し低くなった。
「高校の時から、そういう顔してる時は大抵何かあったんだ。俺には分かる」
胸がちくりとした。そんなことまで覚えていてくれたのか。
「……なんかね、急に、自分ってやっぱり地味なんだなって思っただけ」
口にした途端、あの視線と「地味ですね」という声が鮮明によみがえる。華やかさに圧倒され、足元をすくわれた感覚。
「それ、誰かに言われた?」
「……そういう感じのことを。はっきりじゃないけど」
「はっきりじゃなくても言葉は刺さるからな」
黒川くんの目が少し鋭くなる。
「白石は地味なんかじゃない」
きっぱりと言い切る声に、思わず息を呑んだ。
「落ち着いてて上品で、自然体で魅力的だ。それが分からないやつの言葉は聞く価値なんてないよ」
胸の奥に温かいものが広がっていく。
陸からは一度ももらえなかった言葉。私の良さをちゃんと見てくれる人がいる。
「……ありがとう」
「ほんとだぞ。華やかさだけが魅力じゃない。白石には白石の良さがある」
彼の笑顔に、肩の力がふっと抜けた。
***
翌週。
私はデスクにかじりつき、「心に寄り添うペン」の企画書と格闘していた。ふわっと浮かぶアイデアはあるのに、それを数字や仕様に落とし込もうとすると途端に指が止まる。
「白石さん、進み具合どうですか?」
田中さんの声に、私は画面から目を離した。
「……すみません、思うように形にできなくて」
「初めてのプロジェクトですし、分からないことがあって当然です。一緒に考えましょう」
柔らかな声に少しだけ救われる。けれど、胸の奥の焦りは消えなかった。
そんな時――やってしまった。
製品仕様の項目に、インクの種類を間違って記載してしまい、そのまま営業部に渡してしまったのだ。しばらくして部長から呼ばれ、机の上に企画書が置かれる。
「白石さん、ここの仕様……修正が必要ですね」
その声は穏やかだったのに、私の背筋は一気に冷えた。
「も、申し訳ありません!」
「ミスは誰にでもありますよ。ただ、営業部には正しい仕様を説明しておきましょう」
頭の中が真っ白になる。まだ入社して一ヶ月足らず。信頼を失ったかもしれないという恐怖が、胸をきつく締めつける。
「白石さん、一人で抱え込まないで」
田中さんがそっと声をかけてくれる。その優しささえ、今の私には少し痛かった。
***
その日の夜、オフィスはほとんどの明かりが落ち、デスクランプの下だけがぽつんと浮かび上がっていた。私は企画書の修正に没頭していたが、目も肩も重く、思考はとっくに鈍っていた。
「……まだいたのか」
静かなフロアに低い声が響く。
振り返ると、フロア奥の扉から黒川くんが歩いてくるところだった。
背広の上着は腕に掛け、第一ボタンを外したシャツの襟元から、微かに残業帰りの体温が漂ってくる。蛍光灯よりも柔らかな非常灯の光が、その横顔をやわらかく照らしていた。
「黒川くん……お疲れさま」
「お疲れ。こんな時間まで何してるの?」
「企画書の修正を……昼間、大きなミスをしてしまって」
自分で口にした瞬間、また黒川くんに心配をかけてしまったことが情けなくなる。
「ああ、インクの件ね。営業部でもちょっと話題になってた」
――営業部にも知られてるんだ。
そう思った途端、胸の奥が重く沈む。
「でも、そんなの大したことじゃないよ」
軽く言い切る声に、私は顔を上げた。
「え?」
「誰だって最初はミスするもんだ。俺なんて新人の頃は失敗ばっかりだった」
黒川くんは私のデスクの横まで来ると、椅子越しにそっと私の頭に手を置いた。その掌から伝わる体温が、冷え切っていた心にじわりと沁みていく。
「それより、一人でやろうとしすぎてない?」
「でも、私がメインでやることになってるから……」
「メインでも、一人でやれって意味じゃないだろ。チームで進めるものなんだから」
机の上の企画書に視線を落としながらも、彼の声は私の方をしっかり向いている。
「一人で抱え込むな。困った時は、周りに頼っていい」
その言葉は叱責ではなく、温かい命令みたいに聞こえた。
「でも、迷惑を……」
「迷惑じゃない。みんな白石のプロジェクトを成功させたいと思ってる」
少し間を置いて、ふっと笑う。
「俺も、営業の立場から力になりたいし」
胸の奥が、静かに熱を帯びていく。
「……黒川くん」
「今日はもう帰ろう。明日、みんなで一緒に考えればいいから」
促されて、私は企画書を閉じた。立ち上がった瞬間、黒川くんの手が自然に私のファイルを受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして。でも、今度から無理しないこと。……約束な」
彼の笑顔が、暗いオフィスの中で一番温かく見えた。
***
その夜、私は手帳を開き、今日の出来事を書き留めた。
『今日は大きなミスをしてしまった。でも、黒川くんが支えてくれた。一人で抱え込まなくていいって言ってもらえて、少し気が楽になった。』
色鉛筆を手に取り、ページの端に小さな虹を描く。雨上がりの空にかかる虹のように、辛いことの先に差し込む希望の光を表したかった。
陸と付き合っていた頃、ミスは責められる理由でしかなかった。
「なんでそんなこともできないんだ」
「お前は本当にダメだな」
——あの言葉は今も胸に刺さっている。
でも、黒川くんは違う。私の失敗を責めるのではなく、『どうすれば次に活かせるか』を一緒に考えてくれる。その姿勢に、私は初めて本当の意味で“支えられる”という感覚を知った。陸といた頃とはまるで違う、温かくて、心の奥までじんわりと広がる安心感。
手帳を閉じ、灯りを消す。胸の奥に小さな灯がともったような感覚を抱きながら、私は目を閉じた。——黒川くんとなら、きっと乗り越えられる。そう思いながら、静かに目を閉じた。
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