第1話 彼女との思い出
「――待ってよ、桜花!」
「あはは、雪!」
頭上を覆う桜の木は軒並み盛りを迎え、車道沿いの桜並木を走る僕らを季節相応の色に染め上げている。僕のご近所さんで幼馴染の女の子、如月桜花。幼稚園の頃から小学校に通っている今日まで、桜花の背中を追いかける僕という構図が変わることは無かった。
「今日のかけっこも、私の勝ちみたいだね!」
「ぐ、うう……!」
前を走る桜花は僕に振り返り、その溌溂な笑顔を今日も惜しげも無く披露する。
桜花はこれといったスポーツをやっているわけでも無いのに、僕がこれまで桜花に運動で勝てたためしはまるで無い。疲れることが苦手な僕としては、軽々と走り抜けていく後ろ姿に常日頃から憧れのようなものを抱いていた。
「ま、まだまだ! 勝負は最後まで分からな……」
ただがむしゃらに、その背中に追いつくことだけを願って。力み過ぎた足は道端の出っ張りにつまずき、気がついた頃には身体中が身も竦む悪寒に包まれる。
「……!」
地面と水平に睨みっこしたのも束の間、アスファルトの地面に叩きつけられた衝撃が全身に一気に襲いかかる。今日こそは桜花に追いつくと息巻いたはずが、盛大に転んでしまったせいでまともに起き上がることさえできなくなってしまった。
「ゆ、雪⁉ 大丈夫⁉」
「……桜花」
絶え間ない痛みに苦しみながら、僕の下に慌てて駆け寄ってきた桜花を見上げる。先程までは春爛漫を思わせる眩しい笑顔だったのに、今は地面に寝そべっている僕のことを心配そうに見つめている。
「……大丈夫だよ。僕一人で、立てるから」
「何言ってるの、今にも泣きそうな顔しちゃって」
「な、泣いてなんか……!」
瞼や目尻が頼りなく震えていても、涙が出ていない以上僕はまだ泣いていない。そうやって身体よりもまずは心を奮い立たせて、桜花の勘違いに力強く異議を唱える。
「ほら、雪」
「……あ」
桜花はその場にしゃがみ込むと、僕の抵抗を意に介さないとでも言わんばかりに自分から手を差し出してくる。
「そんなに強がらなくてもいいんだよ。私達、幼馴染同士なんだからさ」
「…………」
いつも僕の先を行く桜花だけど、いざという時はこうやって僕の為に立ち止まってくれる。振り返って、不器用な僕のことをいつも近くで見守ってくれる。
それはまるで、長い年月の中で変わることなく花をつける桜の木のように。その存在が当たり前のものだと思っていても、ふとした瞬間に心が強く惹きつけられることもある。
「……ありがとう、桜花」
「どういたしまして、雪」
言われるがままに手を取って、桜花と目を合わせながら一緒に立ち上がる。
「…………」
春の陽気のように穏やかな眼差しに見つめられて、兼ねてから抱いていた想いは沸々と心の中で湧き上がる。
ふと見上げた桜の木に、思わず心を奪われてしまうように。僕はまさしく、幼馴染の女の子に恋をしていた。
明日になったら、明日になったら絶対に桜花に告白をする。臆病な心を奮い立たせて、一歩踏み出す為の決意がようやく固まってきた頃。
その報せは何の脈絡も無く、明日の学校の準備をしていた僕の耳に飛び込んできた。
「……桜花」
家族の制止を振り払って、すっかり日も暮れた夜に家を飛び出したことまでは覚えている。その後はただひたすらに、押し寄せてくる現実を振り切るように走り続けていた。
「……ここは」
当てもなく走っていたはずだが、気がつけば見慣れた桜並木の通りにまで来ていた。
「…………」
疲れ切った足は少しずつ速度を緩め、仄かな街灯に照らされた桜の下で僕を立ち止まらせる。
「……桜花」
桜の花びらは風に吹かれ、地面に散らばる桃色の斑模様を作り上げている。桜色の合間では鮮やかな新緑が活き活きと顔を出しており、春の盛りが既に過ぎ去った事実を無情にも突きつけてくる。
「……死んじゃった、なんて」
僕の幼馴染、如月桜花はもうこの世にいない。桜の花が全て散るよりも早く、交通事故に遭って帰らぬ人になってしまった。
「……桜花、桜花」
ついこの間までは一緒に走っていた桜並木の下、今はただ一人力を失って膝を突く。
もう二度と、桜花と触れ合うことはできない。あれだけ胸を焦がしていた好意さえ、死人相手には二度と打ち明けられない。
「……僕を、置いて行かないでよ」
まるで、僕だけの時間が止まってしまったかのように。表情は凍り付いたまま、一切の変化を起こしてくれない。
「……まだ、告白もできていないのに」
もっと早い内に、桜花に告白できていれば。拭いきれない後悔はいつまでも、小学校、中学校を卒業して、高校の二年生になった今でも頭の中から離れずにいた。
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