僕、つかれてるんです ~僕に取り憑く悪霊は、疲れ気味な僕の後をつけてくる女の子~
秋茜
第一章
プロローグ
「僕、つかれてるんです」
「…………」
振り返ること無く言いのけると、僅かに後ずさる音が屋上の冷たい空気を揺らす。
「……こういうのは、決まり文句なのかもしれないけど」
僕が佇む反対側、金網の柵に覆われた屋上の安全圏から、大人びた女性の落ち着いた声が僕の決心にさざ波を立てる。
「生きていればきっといいことあるわよ。だから」
「止めないでください。僕は、本気なんです」
後方へ強く手を突き出し、女性との境目である金網を掴み取る。
「……本当に、本気ですから」
親切な説得に心が揺らぐことがないように、何の遮りも無い高みの景色に目を凝らす。
あと一歩でも踏み出せば、僕の身体は三階建ての校舎から落ちて真っ逆さま。
「……生きていたって、何の意味も無いんです」
澄み渡った視界の先で、昼下がりの青空は今日も果てしなく続いている。
もう何度目かも分からない、哀愁に満ちた四月の中旬。校庭の隅に植えられた桜の木はすっかり盛りを超えて、今や大半の花を散らせた葉桜になっている。
「……もうすぐ、死ねる」
しがみついていた柵から手を離し、僕の魂を安寧へと導く舞台へ改めて向き直る。
今は亡き幼馴染の命日である今日、僕は自分自身の人生に終止符を打つ。そう考えるだけで、胸の奥底からは清々しい高揚感が煙のように湧き上がってくる。
「……もうすぐ、会えるんだ」
錆びついていた心臓は久方ぶりに高鳴り、彼女へのときめきを長い時を経て再現してくれる。
「……ところで」
身も心も軽くなっていく浮遊感を覚えながら、死に際の恍惚とした意識は背後に立っている女性の方へ向かう。
「あなた、誰ですか?」
「…………」
屋上には誰も入ってこないように、職員室からくすねた鍵を使ってしっかりと戸締りをしておいたはずだ。それなのに、彼女は当然のように屋上に現れて、僕の自殺を止める為に説得の真似事までしてくれた。
「……うちの学校の教師では、ないですよね」
せめて、死ぬ前に顔ぐらいは見ておきたい。恐る恐る振り返った先で、見知らぬ女性はひどく気まずそうに顔をしかめている。
上下とも黒色のレディーススーツに身を包んでおり、格好自体は一見女性教師のように見える。長く伸びた黒髪は一つ結びに纏められ、やや鋭い目つきも相まって理知的な大人の女性の印象を強く受ける。
「あ、ちなみに僕の名前は成瀬雪です。この高校の二年生で、五時限目の授業から抜け出してきた不良でして」
「そ、そう……」
自己紹介をされる以上、こちらからも名乗っておくのが礼儀というもの。最後ぐらい失礼がないように心がけてはみたものの、引きつった表情をしているのを見るに却って困らせてしまっただけなのかもしれない。
「アタシは……」
女性は僕の方へ歩み寄り、境界線である金網に手を伸ばそうとする。
「……!」
しかし、女性の手が金網に届くことは無い。突如目を開くと、緊迫した面持ちになって咄嗟に僕から距離を取る。
「……?」
まるで憎い仇を相手にしているかのように、正体不明の女性は僕のことを鋭く睨みつけてくる。やはり、僕の無作法な態度が彼女の神経を逆撫でしてしまったのだろうか。
「……ん?」
女性に頭を下げようとしたのも束の間、代わりに何かが軋んでいるような擦れ音が聞こえてくる。
「何だ、これ……?」
音の発生源である金網はきりきりと、見えない何かに押し潰されるように不自然な形に歪められていく。僕の周囲一、二メートルの小さな範囲内で、僕と女性の境界線は今にもその役割を放棄しようとしていた。
「膨大な霊力を辿ってこの学校まで来てみれば、まさかこんな大物に出くわすなんて……ついてるわね、アタシ」
女性の敵意は金網の変化により一層強まり、呆然としている僕を視界に捉えたまま放そうとしてくれない。
「霊力って……え?」
雷雲よりもどす黒い、果てさえ見えない暗雲の瘴気。満足に理解できることは何もなく、確かなものさえ一つもない状況の下、その黒色は僕の背中を包み込まんばかりに際限なく体積を増していく。
「……人間に、取り憑く気なのね」
金網を握り潰す巨大な黒靄と相対する形で、女性は迷い無くジャケットの懐へ手を伸ばす。
「今すぐ成瀬君から離れなさい! 悪霊!」
「悪霊……⁉」
懐から取り出されたのは、神社でよく目にするお札のような、古い文字が綿密に記されている縦長の白紙。女性はその紙片を人差し指と中指の間に挟み込むと、見据えた先にいる黒靄へ向けて突き出すように構える。
「……もう、何が何だか」
突然背後に現れた黒い影に、除霊師か陰陽師の真似事をしているスーツ姿の女性。色んな事が短時間の間に起こり過ぎて、止めどない現状を頭の中で整理することもままならない。
「……まあ、どうでもいいや。どのみち僕、これから死ぬんだし」
どれだけ意味不明な状況だとしても、死にゆく僕からすれば全てが他人事。むしろ女性が黒靄に気を取られている今こそ、この屋上から飛び降りる絶好のチャンスだ。
「……さようなら」
睨み合っている女性と悪霊を余所に、背中から空中へ悠然と身を投げる。
「……は?」
しかしながら、胃が浮くような浮遊感はいつまで経っても訪れず。身体はほんの少しだけ傾いただけで、柔らかなクッションのようなものに受け止められて落ちようとしてくれない。
「……そんな」
どんなに体重をかけても、真っ暗な暗雲は僕の身体を強固に支え続けている。悪霊と呼ばれた瘴気はあたかも意志を持っているかのように、僕を飛び降り自殺そのものから遠ざけようとしている。
「待っていなさい、成瀬君!」
女性が掲げた札は記された文字や記号をなぞるようにして、青白く神秘的な光を放つ。
「アタシが今すぐこの悪霊を」
勇ましい声だけを置き去りにして、遠く離れた反対側の金網から何かが思い切りぶつかる音が響く。
「あ……え……?」
あまりに突然のことだったせいで、金網に受け止められた女性さえ呆気に取られて動けずにいる。
「……まじか」
僕の背後に現れたのは、見上げる程に大きな黒ずくめの巨腕。黒腕は一切の手加減なく振るわれて、悪霊に攻撃を仕掛けようとした女性を軽々と吹き飛ばしてしまった。
「……成瀬、君」
「…………」
女性は潰れた柵にめり込んだまま、その場から立ち上がることもできずにいる。僕の自殺を止めようとした挙句、こんな酷い目にまで遭わせてしまって。どれほど無関係を装うとしても、溢れ出てくる罪悪感を誤魔化すことはできそうにない。
「う、後ろ……!」
「え?」
女性の震える声が聞こえた途端、あれだけ求めていた浮遊感は突如として僕の身体に襲い掛かってくる。
「と、飛んでいる……⁉」
身体を攫った黒靄はひたすらに、どこまでも澄み渡った青空を目指して飛び上がる。潰れて形を変えた金網さえ通り越して、焦がれていた地上とは真逆の高みへ昇っていく。
「……あれは」
引き寄せられるように振り返ると、校庭に植えられた桜の木が最初に目に飛び込む。
「……葉桜」
どうせなら、あの桜が見える高みから僕のことを突き落としてほしい。黒靄に届くかどうかも分からない祈りを抱くと、心臓は再び懐かしいときめきと共に高鳴る。
「……あれ?」
僕の祈りが届いたのか、届いたとしても曲解した形で伝わったのか。黒靄は山なりの軌道を描いた後、数メートル下に見える屋上を目指して急降下を始める。
「ちょ、ちょっと……!」
黒靄に必死に呼びかけてみるものの、右に左に揺れる蛇行運転は重力に引き寄せられて止まることを知らない。
「ぐげっ……!」
綿のように柔らかな靄に覆われたまま、アスファルトで塗り固められた屋上に思い切り叩きつけられる。切り傷や骨折と思わしき痛みは無いものの、激しい衝撃に見舞われたせいか視界は不規則な暗転を何度も繰り返す。
「……ああ、本当に」
先程まで抱いていた高揚感は影も形も無く、今の僕に纏わりついているのは微睡むぐらいに生温い気怠さだけ。
「……最悪な気分だ」
白黒の暗転を続けた末に、意識はとうとう果ての無い暗闇へ落ちていく。
散り行く桜の花びらが、春の終わりを予感させる四月の中旬。正体不明の悪霊の妨害を受けて、念願だった飛び降り自殺は失敗に終わってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます