観音通りにて・少女

美里

 あのひとが、観音通りに通っている。ある娼婦の元に、足しげく。

 そのことを円花が知ったのは。高校二年生の夏のことだった。

 円花は、観音通りのある街に生まれ育った。だから、あの町が存在していることは、彼女にとってはごく当たり前のことだった。ただ、近づきはしない。存在しているということに、言及もしない。そういう育ち方は、その街の少女にとっては自然なことだった。だから、円花がその通りをはっきりと意識したのは、はじめて恋をした相手が、観音通りの娼婦を頻繁に買っているとのうわさを耳にしたときがはじめてだった。

 最初にその話を聞いたとき、円花はそんな話を信じはしなかった。ただの流言だ、と、たかをくくっていたのだ。けれど、その話は一か所ではなく、色々な方面から円花の耳に入るようになった。学校のクラスメイトから、また、バイト先の同僚から、また、塾の友人から。

 円花が恋をした相手は、平たく言えばもてる男だった。その分、うわさもおんなの口を通して早々と広まって行ったのだろう。

 信じない。

 さざ波のように繰り返すうわさを聞いても、はじめのうち、円花はそう腹を据えていた。けれども、一番の親友と言え、円花が彼に恋をしていると知っている笙子がそのうわさを口にしたときは、さすがに黙っていられなかった。

 「ほんとだと思う? その話。」

 放課後、教室の片隅だった。ざわつく同級生たちは銘々の会話に夢中で、ある意味静寂の中にいるのと変わりはしないようにすら思えた。

 笙子は、長い髪を耳の後ろにすっきりと掛けながら首を傾げた。

 「クラスのバカたちはみんな、観音通りにはお世話になったことあるでしょ。でも、井上くんはなんか、そういう感じしないよね。」

 「だから、ほんとだと思う?」

 「分かんない。でも、ほんとだとしたら、やばい気がする。」

 「やばいって、なにが?」

 「本気なんじゃないかってこと。」

 「本気?」

 「本気。」

 笙子の机を挟んで、二人は顔を見合わせあった。円花はひっそりと、井上泰孝の机を伺い見た。そこに、彼はもういない。活躍していたバスケ部も、先月引退した彼は、アルバイトを掛け持ちして観音通りに行く費用を賄っているとの噂だった。

 「本気ってこと、ありえる? だって……。」

 娼婦だよ? とは、さすがに口に出せなかったけれど、気持ちは伝わったらしい。笙子は軽く首を傾げ、長い睫で覆われた両目で円花を真っ直ぐに見据えた。

 「ありえるかありえないかだったら、まぁありえるでしょ。絶対ありえないことなんて、ある?」

 笙子のその言葉を、円花は上手く否定できなかった。口の中で言葉をかき回して、それから黙り込むしかなかったのだ。

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