第一章
ベター・ターム 1
僕らの通う
ただしそうは言っても学校の設備なんかは非常に充実していて、トイレはいつも綺麗だし、図書室のライトノベルの取り揃えは近所の古本屋が霞んで見えるほどで、さすがは進学校だと思わしめる要素も確かにあった。始業時刻までたっぷり2時間はある午前七時に、一介の生徒がこうして冷房の効いた教室の椅子に座って自習をすることができるというのも、やっぱり学校側や生徒の意識の高さゆえなのだろう。無論大半の生徒は朝勉なんてしないので、大抵教室には僕一人だが。
そんなことを考えていると、突然三次関数の増減表を埋めていたはずのノートから視界が暗黒の世界へ転送された。
「だーれだ?」
またか、と僕は内心辟易とする。一ヶ月半前の僕ならそれはもう滑稽に慌てふためいていただろうが、今となっては身じろぎ一つせず逆転移の呪文を唱えられる。
「君は『僕が将来の彼女にしてもらうはずだったこと100』のうち、28の初めてを僕から強奪した罪で絶賛告訴中の
「いや長いわ。長い上に内容がキモいわ」
そう言って僕の視界を光なき世界にした、もとい僕に「だーれだ」していた張本人である加藤颯太は、ようやく僕の眼前から手をどかした。
目を数度瞬かせてから座席の後ろを振り返ると、そこには思った通りに夏場の太陽みたいな満面の笑みを浮かべた大男が立っていた。身長はゆうに180を超え、日頃のクラブ活動で引き締まった肉体は、先週よりも日に焼けているように見える。
「よーっす。なあ
「勉強と買い物」
僕は三次関数の増減表を埋める片手間に返事をする。
「買い物、ね。何、彼女の付き添い? 何買ったん?」
「僕に彼女がいる前提で話を持っていくな、加藤。このシーンがもし切り取られて文字起こしされた上、社会に出回ったりなんてしたら僕にあらぬ誤解が降りかかるだろうが!」
「……まあまあ、そう怒んなよ。で、話戻すけど何買ったん?」
加藤は少しだけ八つ当たりする僕に戸惑ったような顔を見せたが、とりなすように話を続けた。
本当のところ、この時点で加藤の態度に思うところはあった。そもそも加藤がこんな朝早くに来ることは今まで一度もなかったし、あいつは同じ話題を二度口にするタイプでもない。
だから、僕はあえて真実を嘘偽りなく語った。
「別に。近所の本屋で小説を買っただけだよ。もちろん一人で」
「……本当にか?」
そう確認する加藤の目には常にない真剣さが宿っていた。
「ああ、本当に」
「………………そっか。なんかごめんな、しつこく聞き返したりして」
数秒の間があった後、加藤はどこか納得したような顔をしてから喋り出した。
「それは、まあいいけど……」
「けど?」
僕は考えていた。加藤と話している間中、ずっと。
なぜ、加藤はこんな朝早くに登校して来たのか。
加藤の家は和歌山県にあるらしい。そのせいでこの学校には電車と地下鉄を乗り継いで登校しなければならないし、何より登下校に2時間弱かかると入学式後の懇親会で愚痴をこぼしていたのを覚えている。つまり、加藤は今朝5時頃にはもう自宅を出たということだ。でなければ辻褄が合わない。
加えて、加藤の表情や仕草には寝不足の片鱗すら見えない。となれば、昨夜の段階で既に朝5時に起きることを決めていて、そのために夜更かしをせずに寝たのだろう。
ここまでの推理は容易だった。ワトソン君でも朝飯前ってなものだろう。
しかし、加藤は一体、何のためにそこまで早起きをしたのか。その理由が一向に見えてこない。まさか、僕とこうして駄弁を弄するためでもあるまい。
令和のホームズを自称する僕は、その誇りにかけて自分で推理を完成させようかとも思ったが、これ以上の手がかりはないので趣向を変えて犯人に直接供述させることにした。稀代の尋問官、沈黙の
今回のターゲットは親友の加藤。口は軽いが、口外してほしくないことは絶対に言わない。追加情報として対象はこの件についての情報を秘匿する様子はなく、自ら質問の続きを促している。虚偽の申告をする
脳内の思考が迷走を始めたので、とりあえず加藤に直截訊いてみることにした。
「……いつもHR5分前登校の加藤が、こんな僕くらいしか教室にいない時間に学校に来たってことは、何か聞いて欲しい話でもあったのかなって、まあ、その。……思った」
「ブッブー。残念、不正解」
高校デビュー組の僕としては相当恥ずかしいことを言ったつもりだったのだが、当の加藤は飄々とした口調で僕に答えた。これには僕もむっとする。
「じゃあ、一体何だってんだよ!」
目をつり上げてむっとした表情で、略してむっつり顔で僕は加藤に凄んだ。
これには流石の加藤も面食らったらしく、ガサゴソと学校指定の部活鞄の中を漁りだした。さしずめ僕の機嫌を直すためのコークでも探しているのだろう。これだから加藤はイケメンで人たらしなんだ、まったく。
しばらくすると、加藤が自身のアンドロイフォンをこちらに差し出してきた。
「動物の面白動画か? それとも、プレス機で色々ぶっ壊す動画?」
「なんで揃いも揃ってそんな微妙に古いんだよ。いいから早く再生しろよな」
何の説明もないことを不審に思ったが、とりあえず再生してみることにした。
『————』
見たところ30秒前後の動画だったが、最初はガヤガヤとした周囲の雑音が入り込んでいて、聞いていて気持ちのいいものではなかった。カメラは正面ではなくタイル張りの床をとらえており、スマホで撮影したからであろう手ブレも僕の不快感を誘発した。
『————』
残り20秒を切ったあたりで、それまで俯いていたレンズの角度が突然上がった。上がったレンズの向こうにいるのは、僕だった。
「え、僕?」
動揺しつつも、続きを見る。薄々感じてはいたが、この動画の撮影場所はやっぱりこの学校だった。北棟の2階から1階に繋がる階段付近で、ここはおそらく図書室前の廊下だろう。そこに僕がいるということは時間帯は放課後で間違いない。
『——————あ、やば』
あと15秒というところで、少し遠くで廊下を走る足音が聞こえてくる。と同時に、それまで僕をとらえていた視点が急に動いた。どうやら撮影者が階段を登って、走ってくる足音から隠れようとしているらしい。僕を撮ることはもう諦めたのか、カメラは階段にプリントされている木目を写していた。
これで終わりか、と心なし安堵する僕だったが、そんな僕を
『割鞘翔悟くん! ————今度の——』
ここで動画は終わっていた。
今の声は、確実に
その考えに至った瞬間、一つのおぞましい推察が浮かんだ。僕は震える指で動画の撮影日時を確認する。以前に、動画を写真に保存すればそういった情報は判明させられると聞いたことがあった。
加藤に許可を取ってから、件の動画を写真に共有する。依然として指先は震えることをやめない。
「マジかよ……」
この動画の撮影日時として映し出されている時間は先週の金曜の夕方、5月23日の午後5時を少し過ぎたくらいだった。もう、勘違いを疑う方が馬鹿げている。
おかしい、狂っている、ありえない。他にも色々言いたいことはあったが、そのどれもが言葉にならない。恐怖と嫌悪と羞恥と苛立ち、そのどれもがないまぜになったような、
「俺もあんまよく分かってねぇけど、この動画がウチの生徒に拡散されてんだよ。で もこれ、どう見ても唯とお前だしさ。流出元も探ってみたんだけど、今んとこ手がかりすらなくて。とりあえず当事者のお前らは知ってるのか確かめるために、早くに来たんだよ」
神妙な面持ちで、加藤が口を動かす。それに誘われて、飽和状態の感情が熱を帯びて溢れ出した。
「なんで、何で動画なんて撮られてんだよ!」
その言葉は驚くほどに、心からの声だった。
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