明日にとどく
辻井豊
明日にとどく
一気圧宇宙服に身を固めた星崎桂子は最後のハッチを抜けた。この瞬間はいつも何かから解放されたような気分になる。
目の前に広がる暗黒の宙。視野のあちこちには蛍光色のサインが浮かび、現在位置や姿勢、針路など様々な情報を伝えてくれている。
「こちら星崎。第八エアロックを出た。管制室どうぞ」
呼び掛ける桂子に女性の声が応える。
「こちら管制室。星崎少尉聞こえるか?」
「こちら星崎。感度良好」
「こちら管制室。星崎少尉、有人操縦ユニット、MMUを使用し、ライトスター7の第四エアロックへ移動せよ」
「こちら星崎。了解した。これよりライトスター7の第四エアロックへ移動する」
桂子は管制室からの指示を復唱したあと、音声でMMUに命令する。
「MMU、制御腕を展開」
ピッと電子音が鳴って合成音声が応える。
「MMU、制御腕を展開します」
背負っているMMUから桂子を挟み込むように制御腕が展開される。制御腕は肘掛のようになっていて、左側にあるパネルとサイドスティックで前後左右上下への移動を、右側にあるパネルとサイドスティックでヨー、ピッチ、ロールの回転を制御することができた。桂子はそれらを自在に操って移動を開始する。
視野に投影されている蛍光サインに異常は無い。規則正しい呼吸音がヘルメット内に反響している。太陽の方角には基地の構造物が張り出していて、桂子はその陰の中を進んでいるのだった。
「いつも通りにやれ。手を抜くなよ」
男性の声が通信に割り込んできた。上司の高槻少佐だ。桂子はむっとして答える。
「了解」
ハッチを出てから一分ほどが経過した。
ピッと電子音が鳴って合成音声が報告する。
「制動予定位置です」
桂子は左側の制御腕を操作して制動をかける。
基地との相対速度がゼロになった。ピッチ角の変更を開始。視野の中を巨大な縞模様の半月がせり上がってくる。木星だ。大赤班が見える。
ピッチ角の変更が完了した。木星が目の前だ。前進を開始する。
基地の陰から出た。頭上から太陽の直射を浴びるがヘルメットバイザーの調光機能が働いていて眩しくはない。小型ターボポンプの静かな音が呼吸音と重なっている。恒温システムが稼働しているのだ。
木星に向かって進みながら桂子は回想する。
船外活動の訓練を始めてから今日で何日目になるだろう。もう数えるのも止めてしまっていた。
よく飽きないものだと桂子は思う。人間ならばとうに飽きてしまっていることだろう。でも、わたしは飽きない。それはたぶん、わたしがアンドロイドだからに違いない。
そう、アンドロイド。この恒星間宇宙船建造基地には五十万ものアンドロイドが暮らしている。わたしはそのうちの一人に過ぎない。この基地に、いやこの太陽系に、人間は一人もいないのだ。
ピッと電子音がなった。再び合成音声が報告する。
「制動予定位置です」
基地から三千メートル離れたのだ。桂子は左側の制御腕を操作して基地との相対速度をキャンセルする。ピッチ角の変更を開始。巨大な構造物が目の前に見えてきた。暗黒の宙を背景に浮かび上がっている。ライトスター7だ。全長二万二千五百メートル、発進時の初期質量二百八十億トンを超える超光速の船。
桂子はガイドレーザーをライトスター7に向けて照射する。
ピッと電子音が鳴る。
「ガイドレーザーの反射を捕捉しました」
MMUが自動的に姿勢を制御し、桂子を巨船の舷側へと運んでゆく。
もう何もすることがなかった。
*
一日の訓練を終えた桂子は居住シリンダーに帰って来た。大勢の乗り換え客とともに連絡船を降りて港の待合室に入る。
今日は週末だ。ここの利用客も多い。桂子は室内を見回す。
いた。制服姿の少女が一人、壁にもたれて携帯端末をいじっている。
少女が顔を上げた。桂子に気づいたようだ。満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「お疲れ様っ!」
六つ下の妹、高校生の星崎百合だった。桂子は百合とハイタッチする。
「ごめん、待ったよね?」
「もうお腹ぺこぺこ」
「ほんとうにごめん」
「謝らないで。自慢の姉貴のためなら何時間でも待てるから」
桂子はうなじがむず痒い。百合を抱き寄せると髪をくしゃくしゃと掻きまわす。
「やめてってば」
百合が笑いながら桂子の手を払う。そんな百合を桂子は抱き締める。
「可愛いヤツ」
待合室を出た二人は夜の街に繰り出した。
ここは半径十キロメートル、奥行き五十キロメートルの巨大な円筒の内部だ。中心軸であり、光熱源でもある太陽灯は消えている。空に見える光点は星ではなく、反対側に広がる街の灯りだった。
五十万のアンドロイドが暮らす街、木星市。二人が歩いている通りはその中でも一番の繁華街だ。今夜はそぞろ歩きを楽しむ者が多く、威勢のいい呼び込みがあちこちから聞こえてくる。姉妹だけで暮らしている桂子と百合にとって、今日は久しぶりに二人そろっての外食だった。
ネオンサインの輝く通りを並んで歩きながら桂子は百合に訊く。
「何食べる?」
百合は考え込む。
「う~ん……」
「中華なんてどう?」
「この前食べたじゃん」
「そうだっけ?」
桂子はとぼけてみせた。すると百合の顔がぱっと明るくなる。何か思いついたらしい。
「わたし、焼き肉がいい!」
「えーっ」
桂子は露骨に嫌な顔をして見せた。百合が唇をとがらせる。
「なら別のにするー」
「冗談だってば」
桂子と百合は顔を見合わせて笑う。そのときだった。突如としてサイレンが鳴り響いた。続いて大音量の放送が始まる。
「警報。警報。全市民は最寄りのシェルターに避難せよ。全市民は最寄りのシェルターに避難せよ。繰り返す――」
あたりは騒然となった。だがそれも一瞬で、皆は整然と行動を開始する。
「百合、あそこに入るよ」
桂子はすぐそばのビルを指さす。シェルターはどこにでもあって、特にこのあたりの頑丈な建物は全てシェルターとして機能するように造られているはずだ。
二人は大きなビルの一階にある中華料理店に入った。店内はもともといた客と避難してきた市民でごった返している。店員が誘導を始めていた。地下にシェルターがあるらしい。
桂子は百合の手を引いて階段に向かう。そのとき、ジャケットの内ポケットで携帯端末が振動した。取り出して画面を確認する。百合が不安そうな顔でのぞき込んでくる。
「姉さん?」
「緊急招集よ」
「そんな……」
「ごめん、この埋め合わせはきっとするから」
そう言い残して、桂子は中華料理店を飛び出した。商店街を駆け抜け、路地に停車していた無人タクシーに携帯端末をかざす。
「緊急モード了解」
タクシーが合成音声で応答し、ドアを開く。桂子は乗り込んで告げる。
「行政区、統合軍司令部へ」
「了解いたしました。行政区、統合軍司令部へご案内いたします」
目の前の信号が青に変わる。桂子を乗せたタクシーは人気の消えた夜の街を統合軍司令部目指して疾走していった。
*
桂子を乗せたタクシーは繁華街の入り組んだ街路を縫うように進む。
やっと大通りに出て行政区に差しかかったとき、検問に停められた。警官がやってきて後部座席の窓を叩く。桂子はパワーウィンドウを開けて携帯端末をかざした。窓際に屈み込んできた警官が言う。
「お急ぎのところ申し訳ありません。しばらくお待ちください」
「何かあったのですか?」
「詳しいことはわかりません。この先で車が数台燃えています。迂回路が確保されるまでお待ちください」
それだけ言うと警官は離れていく。桂子は窓を閉めた。その途端、携帯端末に着信する。画面を確認すると上司の高槻少佐からだった。桂子は通話ボタンをタップする。
「星崎です」
「無事か」
安心したような声が流れた。
「何があったのですか?」
「テロだ」
「テロ?」
桂子はオウム返しに訊いた。この木星市でテロなど起きるのかと疑問を感じたのだ。少佐は言う。
「詳しいことはオフィスで話す。そちらの位置は把握した。迎えをやる。そのままで待て」
「了解しました」
そこで通話は切れた。
しばらく待っていると統合軍の装甲車がやってきた。タクシーから乗り換えて数分で統合軍司令部に到着する。兵士の護衛つきで高槻少佐のオフィスに出頭すると、少佐は珍しく椅子から立って桂子を迎えた。
「よく無事だった」
「詳しく教えてください」
「君以外のパイロット候補が全員殺害された」
桂子が訊くと少佐は簡潔に答えた。省略されたが、この場合、パイロット候補と言えば桂子を含めて全部で七人いるライトスター7のパイロット候補のことだ。
「いったいどうして……」
「ドローンによる爆殺だった。犯行声明が出ている。反人間同盟からだ」
桂子は驚いた。反人間同盟とは市議会の一会派のはずだったからだ。
もともとアンドロイドは人間に奉仕するために生み出された。人間の生存を最優先に行動するよう刷り込まれていると言う。今、それを実感しないのは、太陽系に人間が一人もいないからなのだ。それなのに、アンドロイドは人間による支配から脱すべしと、反人間同盟は主張していた。
桂子は腕を組む。目を伏せて反人間同盟の市議たちの顔を思い出そうとしたが上手くいかない。視線をあげる。少佐が無言で桂子の言葉を待っていた。桂子はもう一つの疑問を口にする。
「さっきの警報はテロを警戒したものだったのですか?」
「違う」
即座に答えが帰って来た。桂子は訊き直す。
「違うのですか?」
「違う」
自分でも納得いかないと言うような表情で少佐は肩をすくめる。
「誤報だよ。その誤報で軍はパイロット候補に緊急招集をかけた。そこをやられた」
デスクからリモコンを取り上げた少佐はボタンを押す。オフィスの一方の壁が全面ディスプレイに切り替わる。木星市を含む恒星間宇宙船建造基地の全景と、超光速恒星間宇宙船、ライトスター7がワイヤーフレームで投影された。少佐は言う。
「ライトスター計画を早めることになった」
「ライトスター計画?」
桂子には初耳だった。
「少尉にはいずれゆっくりと説明するはずだった」
ディスプレイに恒星図が投影された。少佐は続ける。
「今回の作戦は片道切符だ。少尉にはライトスター7のたった一人の乗員、パイロットとしてこれにあたってもらう」
「片道?」
片道切符とはどういうことか、桂子は問いただす。
「帰還しないのですか?」
「ライトスター7の最終目的地は百光年先の地球型惑星だ。復路に必要な燃料と推進剤を搭載するように設計されてはいない。帰還は不可能だ」
帰還は不可能……桂子は絶句した。何も言葉が出てこない。膝の力が抜けてゆく。少佐が椅子をすすめてくれる。崩れるようにそこに座る。
「しっかりしろ、少尉。これからライトスター計画について説明する」
そして少佐の説明が始まった。桂子はただ黙って聞くだけだった。
ライトスター計画、それは最後の一人となって宇宙を漂流している人間を救出する作戦のことだった。
今から二百年以上前、全球凍結した地球から脱出してきた人間を乗せて、世代交代型恒星間宇宙船「明日」がこの基地を発進していった。恒星間移民が目的だった。しかし発進後、わずか十八年で「明日」は崩壊してしまう。度重なる星間物質との衝突に船体が耐えられなくなったのだ。
目的を果たせず、崩壊してしまった「明日」だが、運よく一人の少女が脱出に成功していた。その少女は冷凍睡眠状態にあり、救助を待っていると言う。脱出船の速度は〇・一光速。「明日」が崩壊した時点での速度を維持していた。冷凍睡眠装置が機能していられる時間はおよそ千年間と見積もられている。最後の通信を受信してから二百年以上が経過していた。
ライトスター7はこの基地を発進後、四年をかけて〇・一光速まで加速する。そして鏡像転移駆動と呼ばれる超光速航法によって脱出船に追いつき、冷凍睡眠状態にある少女を救出するのだ。
その後、ライトスター7は百光年先の恒星系近傍に超光速航法で跳躍し、そこで四年をかけて減速する。減速した先の恒星系では、あらかじめ選定されていた地球型惑星の衛星軌道に入り、救出した少女と装備一式を降下させる。
これが、ライトスター計画の全貌だった。ライトスター7はこの作戦のためだけに建造された。現存する唯一の超光速恒星間宇宙船なのだった。
少佐の説明によると、ライトスター7は今日から三日以内に発進することになっていた。
それまで桂子を隔離すると少佐は告げた。
*
桂子は統合軍宿舎に軟禁状態となった。
部屋の入り口には兵士が立ち、外出は事実上禁止された。
携帯端末の使用は自由だったが、ライトスター計画については一切漏らさないことが条件だった。
桂子が部屋に軟禁されて以降、携帯端末には何度も着信があった。その全ては百合からだった。桂子は一度も出なかった。迷っていたからだ。話したい。会いたい。でもできない。今話せば、今会えば、きっと全てを話してしまうに違いない。全てを投げ捨てて、百合とともに逃げ出してしまうに違いない。しかしそれはできないのだ。自分たちはアンドロイドなのだから。
夜が明けた。差し入れられた朝食には手をつけず、床に座っていると、携帯端末に着信した。表示を見ると百合からだった。桂子は端末をつかんで壁に向かって投げ捨てる。ベッドの向こうに落ちた端末はそこで静かになった。そのときだった。突如としてサイレンが鳴り響いた。続いて大音量の放送が始まる。
「警報。警報。全市民は最寄りのシェルターに避難せよ。全市民は最寄りのシェルターに避難せよ。繰り返す――」
桂子は天井のスピーカーを睨む。
なんだ?
また誤報なのか?
いきなり放送が途切れた。部屋のドアが開かれる。桂子はてっきり護衛の兵士が入って来たと思った。しかし、やって来たのは武装した黒ずくめの一団だった。桂子は抵抗する間もなく目隠しと手錠をされて連れ出される。車に乗せられ、連れ込まれた先で拘束を解かれた。無理やり立たされる。
眩しい。強いライトが桂子に向けられている。
目の前に誰かが立っているようだ。桂子は目を細め、その誰かの顔を見ようとした。
「反人間同盟にようこそ、姉さん」
自動小銃をさげたその人影は言った。百合の声だった。
目くらましのライトが消された。照明は天井にあるものだけになった。桂子の目が慣れてくる。正面に数人の男女が並んでいた。その真ん中が百合だった。
「百合……あなた……」
妹は反人間同盟に入っていたのか……桂子の全身から力が抜ける。立っていられるのが不思議なくらいだ。そんな桂子に百合は言う。
「姉さんをライトスター7に乗せたりはしない」
そう言ってのけた百合の顔は、今までに見たことも無いほどの大人びた表情をしていた。桂子は声を絞り出す。
「なにを……」
「わたし、全部知ってるの」
「全部……?」
桂子が問うと百合の右隣りの女性が訊いてくる。
「あなたはどこまでご存知?」
桂子は気づく。これは誘導尋問だ。桂子は目を反らす。
「こっちを向いて姉さん」
がちゃりと音が鳴った。桂子は百合を見る。彼女は自動小銃を構えていた。その銃口は桂子を向いていた。
「言えないよね」
微笑を浮かべながら百合は言う。
「姉さんは優秀な軍人だもの。そんな姉さんのかわりにわたしが言ってあげる」
「星崎さん!」
隣の女性が百合を制した。かまわず百合は続ける。
「姉さんはライトスター7に乗る。最後の人間を助けるために。そして百光年先の地球型惑星に向かう。この基地には二度と帰ってこない」
桂子は驚愕した。なぜ百合がそんなことを知っているのか。桂子自身も昨夜知ったばかりなのに。百合はなおもう言う。
「わたしを捨てるのね」
それは吐き捨てるような声だった。
「わたしのことがそんなに嫌い?」
その声は懇願だった。桂子は百合の浴びせる感情に耐え切れなくなる。
「大好きよ……百合……」
震える声で桂子は本音を口にした。百合が叫ぶ。
「だったら!」
「駄目なのよ!」
かぶりを振る桂子。なおも百合は問う。
「何が駄目なの? そんなに人間が大事なの?」
桂子は百合を正面から見る。自分の思いをそのまま口にする。
「どちらかが大事とか、そんなことじゃないの。わたしは人間を救いたいし守りたい。その気持ちを抑えられない。でもあなたのことも守りたい。一緒にいたい。それは嘘じゃない」
桂子に向けられている銃口が震えている。
「だったらここにいて! どこにもいかないで! お願いだから……」
百合の目から涙がこぼれる。桂子は百合から目を反らした。百合と任務を天秤にかけるなんてできない。自分たちはアンドロイドだ。なら、選ぶ道は決まっている。桂子は床を踏みしめる。
「行くから」
それだけ言って踵を返し、歩き出す。
「行かないでっ!」
桂子の足が停まる。
「百合……忘れない……忘れないよ。だからお願い。行かせて……」
桂子の視界がゆがむ。その桂子に向けて百合の言葉が投げつけられる。
「行かせない! だってわたしたちみんな死ぬの! 死んでしまうの! だからっ!」
いきなり何を言い出すのか? 桂子は振り向く。
「木星嵐がきます。わたしたちは誰も生き残れない」
百合の隣りの女性が言った。
百合の隣りの女性は説明する。
「大規模な太陽フレアのようなものが何万年かに一度、木星でも発生していたのです。それが木星嵐です。予兆は二度、観測されていました。警報が鳴りましたよね」
「警報……」
桂子は思い当たる。あの二度の警報は誤報ではなかったのか?
女性は説明を続ける。
「政府は秘密にしています。でも手遅れです」
「手遅れ?」
「さきほどから嵐が始まりました。すぐに皆の知るところとなるでしょう。誰も逃れられません。木星市を含む、この恒星間宇宙船建造基地は崩壊します」
崩壊する? この基地が? 桂子には信じられない。第一、そんな大事を秘密にできるわけがない。だからそう言う。
「わたしには信じられない。それほどのことが起こるなら、政府はどうにかしようとするはず」
「そう、どうにかしようとした。それでライトスター7の発進を早めたのです。アンドロイドの使命を果たすために」
百合が言う。
「わかったでしょう、姉さん……せめて……せめて死ぬまで一緒にいて……お願い……」
百合が自動小銃を降ろした。何を言うべきか桂子は迷う。どんな言葉をかけてもそれは本心でないように思える。だから桂子は言ってしまう。
「まだ死ぬと決まったわけじゃない。生き残る方法は必ずある」
それは軍人としての言葉だった。桂子は再び踵を返す。歩き始める。
「やっぱりそうなのね。わたしたちは人間じゃない。ほんとうの姉妹じゃない。人工子宮から生まれるアンドロイドには親も兄弟もいない」
百合の声は乾いていた。桂子は足を止める。
「百合……あなたはわたしの妹よ」
桂子は正直な気持ちを言った。その言葉以上に、何をどう言えばいいのか、桂子自身にもわからなかったのだ。
百合のすすり泣きが聞こえる。自動小銃を構える音がした。桂子は振り向く――
「ならここで死んで!」
百合の叫び。そして発砲音。桂子の足もとでコンクリート片が飛び散る。続く爆発音と閃光。桂子は床に伏せる。断続的に発砲音が続く。
「百合! 伏せてっ!」
遅かった。警官隊が突入し、辺りを制圧したときには、百合はもう動かなくなっていた。
「百合―っ!」
*
反人間同盟の拠点から救出された桂子は、木星圏に吹き荒れるプラズマの嵐の中、超光速恒星間宇宙船、ライトスター7の操縦席までたどり着いていた。
桂子がシートに身体を固定すると同時に発進シーケンスが開始される。
正面に並ぶモニターの一つには百合が治療を受けている病室が映し出されていた。高槻少佐が取り計らってくれたのだ。胸部に銃弾を受けた百合は一時、心肺停止に陥った。幸い蘇生が上手くいき、今はベッドの上で意識が戻るのを待っている。その映像にも注意を払いながら、桂子は宇宙船の発進シーケンスをこなす。管制官の女性が言う。
「こちら管制室、ライトスター7聞こえるか?」
「こちらライトスター7、感度良好」
桂子はそう答えたが、木星嵐の影響はレーザー通信にまで及び始めていた。時折モニターにブロックノイズが走る。
「ライトスター7、補機の始動を許可する。加速開始位置まで移動せよ」
「了解、管制室。補機を始動する」
桂子は左手のスロットルレバーを補機の始動位置にまで押し込む。モニターの中で姿勢や進路を示す数値が動き始める。
補機を始動してから数分が経過した頃、男性の声が通信に割り込んできた。高槻少佐だ。
「少尉、ライトスター7は〇・一光速の巡航に耐えられるよう装甲に覆われている。木星嵐のことは気にするな」
「了解、少佐」
そこでガサゴソと音がした。少佐が言う。
「ちょっと待ってくれ、少尉」
「何ですか?」
「百合さんが意識を回復したようだ。サブの映像をメインモニターに切り替えろ」
「了解!」
桂子は勢いよく答え、モニターを切り替えた。それまでメインモニターに投影されていた3D羅針盤の映像がサブモニターの一つに移動する。代わってメインモニターに映し出されたのは、看護師に支えられ、ベッドから半身を起こした百合の姿だった。桂子は思わず声を漏らす。
「百合……」
「行くのね……」
「うん……」
「姉さんらしいわ」
「うん……」
そこに女性管制官からの指示が割り込む。
「ライトスター7、主機の始動を許可する。加速を開始せよ」
桂子は即座に答える。
「了解、管制室。主機を始動する」
桂子は左手のスロットルレバーを主機の始動位置にまで押し込んだ。モニターの中で軸線方向の加速度を示す数値が大きく動き始める。
桂子の頬を熱い雫が伝う。これでもう会えない。みんなとも。百合とも。百合の声が聞こえる。
「泣かないで、姉さん」
そう言った百合も画面の中で泣いていた。桂子は言う。
「あなたこそ……」
「そうね……」
百合は続ける。
「わたし、姉さんと離れたくなかった。だから、反人間同盟に入った。利用されるかもしれないとわかってた……」
「もういいわ、そんなこと」
「姉さん……」
「なに?」
「今でも……今でも姉さんを止めたい……」
「百合……」
桂子はモニターの向こうにまで手を伸ばしたい衝動に駆られる。だがそれは無理なことだった。すると突然、モニターの中で百合が激しくかぶりを振る。
「でもできないっ! 悔しいけど、できないのよっ!」
百合の激情がモニターからあふれでる。
「だからっ! だから必ず生き残る。そして姉さんに追いつく!」
桂子は百合の感情に身を切られる思いだった。言葉がでない。百合は言う。
「姉さん、今はこれしか言えない」
そこで百合は息を継ぐ。
「わたしたちの思いは必ず明日にとどく。だから、いってらっしゃい」
桂子は百合の思いを受けとめる。
「百合……いってきます」
メインモニターブラックアウト。建造基地との通信が途絶した。おそらく基地側のアンテナがプラズマ嵐に破壊されたのだろう。桂子は涙がとまらない。これがわたしの選んだ道なのだ。進むしかない。百合たちが生き残ることを信じて。追いついてくれることを信じて。
ライトスター7は吹き荒れるプラズマ嵐の中を猛然と加速してゆく。行く手は闇だ。だが、そこで助けを待っている者がいる。桂子は百合の言葉を口にする。
「わたしたちの思いは必ず明日にとどく」
そう、その日まで、ライトスター7は宙を突き進むのだ。
明日にとどく 辻井豊 @yutaka_394761_tsujii
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