第17話 エルヴィアの傷心
〈レイブ、わたしがこの世界で生きていた頃、一番欲しかったものは何かわかるか?〉
しばしの沈黙を経て、不意にエルヴィアが尋ねてきた。
そういう問いかけの思念には、もれなくエルヴィア自身の答えも添付されてしまっているのだが、レイブは敢えて乗っかることにした。
「何だい?」
〈腕力だ〉
「腕力?」
〈うん。誰にも負けないほど、腕っぷしが強くなりたかった〉
「でも……」
レイブは無残な林の状態を見回しながら、
「君は腕が立つんだろ?
あのデアンドーレスだって倒したし、さっきの騎士たちだって……」
〈もちろん立つ。
技術だけなら、誰にも引けを取らなかった自信はある。
ただし――〉
女にしては、と悔しそうに付け加えると、エルヴィアはいきなりシルヴァリスを立ち上がらせた。
「うわ……!」
煽りを食らったレイブが後ろにひっくり返った瞬間、その身体が白い光に包まれ、気がつけばそこは神骸座の中だった。
自分の意思ではなく、エルヴィアによって呼びこまれたと理解するより早く、シルヴァリスは大地を蹴り、白銀の翼が朝の光を跳ね返す。
シルヴァリスを動かせるようになっているばかりか、本来の操縦者を勝手に出し入れできる事実に衝撃を受けながら、しかしレイブは舞い上がった空の様子に目を奪われ、なぜなのかという疑問も一瞬忘れた。
空に、自分がいた世界にはないものが浮かんでいる。
直視できないほどまばゆく輝く光の球。
どうやらあの光球が夜明けをもたらしたらしい。
空全体が明るく、あるいは暗くなって昼と夜を告げるエコースとはあまりに違う異郷の天蓋に、全てはここがエルヴィアの故郷だからだという結論を、強制的に突きつけられる。
そして、その強い光が映し出した世界の色彩が、とてつもなく鮮やかだ。
むしろ鮮やか過ぎて、見ていると目が痛くなるほどだった。
〈そういえば、おまえの世界の空には太陽がなかったな〉
「太陽? あの光の球は太陽っていうのかい?」
馴染みのない言葉と、その概念に戸惑いながら、レイブは目を細めてもう一度、恐る恐る視線を向けた。
視界が白く焼かれ、慌てて顔を背ける。
エルヴィアの説明によれば、その太陽とやらは世界の片端から昇り、そのまま空を横切って反対側に沈んでいくらしい。
いったいどんな原理なのか。
というか、世界の果てが見える!?
〈あれは地平線だ〉
エルヴィアは呆れたように、
〈あそこで世界が途切れてるわけじゃないから安心しろ〉
「ち、地平線? 何それ?」
〈この世界は大きな球体なんだそうだ。
だからこうやって高いところから遠くを見れば、地面と空の境界線が湾曲して見える。
そういえば、おまえの世界には地平線もないな〉
「な、ないよ、そんなもの!」
レイブは、チンプンカンプンになりながら反論した。
「だって大地って平らで、どこまでも果てしなく続いてるものじゃないか!!
遠くの景色が霞んで見えることはあるけど……」
〈心配するな。
どれだけ飛んでも、決して地平線には到達できないんだから。
落ちることはない〉
エルヴィアは請け合ったが、その理由がわからないレイブは、ただ不安を募らせただけだった。
やがてシルヴァリスが高度を下げると、今度はより直接的な脅威の証が眼下に広がり始める。
地面に突き刺さったまま揺れている旗印。
主を失くした槍や刀剣。
そして倒れ伏した何百という人間の屍。
強烈な陽光に照らし出された光景は、エルヴィアの解説を待つまでもなく、それがこの世界の凄惨な戦場であることをレイブに告げた。
骸装騎ではなく、生身の人間同士が殺し合いをする戦。
その犠牲者は、死してなお野鳥に啄ばまれ、野獣に引き裂かれ、そして人間によって金目のものをはぎ取られながら、断末魔を上げ続けているようだ。
そんな死体漁りたちが、シルヴァリスの姿を見ると大慌てて逃げ出していく。
確かにこれなら腕力が必要だろう。
技術や精神力だけではどうにもならない、暴力の嵐が吹き荒れている。
まして、腕力で劣る女であることは、それだけで致命的な不利に違いない。
〈その通りだ。
そこらの雑魚には決して引けを取らなかったけど、本当に強く、鍛錬を積んだ男には勝てなかった。
身体の作りが、筋肉の質が、根本的に違うからな。
頑張ってどうにかなるものじゃない。
逆に頑張れば頑張るほど、その埋めようのない差を痛感させられた〉
自嘲気味のエルヴィアの思念は、遠くに城壁に囲まれた城が見えてくると、より悲しげな、湿ったものになった。
そこを守っていた者たちが敗者であることは、この世界における戦の流儀を知らないレイブにも容易に見てとれる。
無防備に開け放たれた城門。
無残に焼け焦げた城壁。
黒いすすに染まりながら、墓標のようにそびえ立つ尖塔に人の気配はない。
それがエルヴィアの生まれ育った場所だということも、すでにわかっていた。
シルヴァリスが着地して、その荒涼とした有り様を目の当たりにすると、いっそう深い悲しみがレイブの心に押し寄せてきた。
〈わたしは何もできなかった……。
何もできずに死んでしまった……!〉
長い時間を過ごしていたはずの我が家。
荒れ果てているとはいえ、むしろだからこそ、そこかしこに残る懐かしい面影が、苦しみとなってエルヴィアの心を苛むのだった。
初めてエルヴィアの声を聞いてから今まで、これほどの沈痛な思いがレイブに伝わったことはなかった。
後悔。怒り。憎悪。無念。罪悪感。
そして絶望。
武勲を誇る名門の家柄に生まれたこと。
他に男の子供がなく、自分が家督を継ぐしかなかった重圧。
そのため幼い頃から、父親に武芸を叩きこまれたこと。
結局、それが肝心な時には何の役にも立たず、家どころか自分の身も守れずに死んでしまったことへの悔恨。
いくつもの記憶の断片は、エルヴィアの痛みとなって、共鳴するレイブの心にも突き刺さる。
自分は何もできなかった。
誰の役にも立たなかった。
何の価値もなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
それは、日頃レイブが抱く卑屈さを極限まで増悪させたような、自身の存在を根本から否定する魂の自己否定だった。
あまりの痛ましさに、レイブが思わず、
「そんなことはないよ!!」
と大声で叫ぶほどの。
エルヴィアの慟哭に飲み込まれそうになりながら、レイブは必死に自分を保ち、彼女に、そして自分自身に言い聞かせるように声を振り絞った。
「君が何もできなかったなんてことはない!
披露目の儀で僕を助けてくれたじゃないか!!
デアンドーレスを討ったのも、君の力だ。
君が血の滲むような鍛錬を積んであの素晴らしい剣の技を身につけていなかったら、僕はとっくに死んでいた。
だからそんなふうに自分を責めないで。
君の城がこんなふうになってしまったのは、君の責任じゃないはずだ。
君は……、君は最後まで精一杯戦ったんだろ?
だから……!!」
エルヴィアは無言だった。
レイブの言葉が届いているのかどうかも分からない。
思念の波が激しく、あるいは急に凪いで、情緒不安定そのままに感合石の光を揺らし続けるだけだ。
その動揺に合わせて心をぐらつかされたレイブも言葉に詰まる。
自分のような、別の世界の取るに足らない人間を一人助けたところで、故郷を失ったエルヴィアの無念は晴れやしないだろう。
それでも他に言うべきことは見つからず、重苦しい沈黙に耐えかねて再び口を開きかけたその時。
シルヴァリスが、ふわりと城壁を越えて中庭に降り立った。
自分より低い塔の屋根に異形の手を当てて、愛おしそうに表面を撫でると、ようやくエルヴィアは、少し落ち着いた思念でレイブに語りかけた。
〈……頼みがある〉
エルヴィアを元気づけるためなら何だってするという気分になっていたレイブは、内容を聞く前に、
「わかった!」
と打てば響く返事をしていた。
その頭の中に、城の中の光景が投影される。
エルヴィアの記憶にある城だ。
まだ平和で、美しく磨かれ整えられた廊下や広間、いくつもの螺旋階段と、その先にある一つの部屋の扉が鮮やかな映像となってレイブを誘った。
〈おまえに……、見てきて欲しいものがあるんだ〉
それが何かを問おうとした時には、レイブの身体は光に包まれ、次の瞬間には開け放たれた城の前に立っていた。
振り返れば片膝立ちのシルヴァリスが、哀願するような眼差しで見つめている。
今さら引き返すわけにもいかず、レイブは怖々と薄暗い城の中に足を踏み入れた。
荒れ果てた城内は血糊の痕も生々しく、あちこちに刻まれた刀傷や焦げ跡とともに戦闘の激しさを色濃く残している。
遺体が放置されてないのが、せめてもの救いだった。
いったい何で、僕はこんなことをしてるんだろう。
めくれ上がった絨毯や、散乱した家具調度の残骸に足を取られながら、しかし頭の中に刻まれたエルヴィアの記憶によって、文字どおり勝手知ったる状態で歩を進めていたレイブは、ふと我に返って根本的な疑問を浮かべた。
今まで他人はおろか、自分の為でも積極的に何かをする、あるいはしたい、ということなどなかったのに。
出会ってから、というより知覚してからひと月も経っていない、実体すらないエルヴィアという女性が、自分の中でこれほど大きな存在になっているとは。
彼女の悲しみを自分のことのように感じ、彼女のために何かしたいと強く願う。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだ。
これではまるで――
「まるでエルヴィアと感合しているみたいだ……」
無意識に出た言葉が、
レイブ自身を驚かす。
そんなことがあるわけないと思いながらも、それが今の二人の状態を表す唯一の答えとして、自分の中に根を下ろすのを止められないまま、彼は城の奥まった部屋の中に入っていった。
どうやら城の主人たちの私的な空間のようで、そこに至る道のりが複雑に入り組んでいるせいか、奇跡的に略奪の被害も少なく、ひんやりとした中には、まだかすかに、かつての生活の匂いが残っていた。
しかしそのことに気づく前に、レイブは部屋の奥に飾られた一幅の肖像画に目を奪われた。
絵の中には、精緻な筆使いで極めて写実的に、生き生きと描かれている一人の女性がいた。
少女から大人になりかけているような面差しが、どことなくシルヴァリスに似ていると感じるのは、銀色のきらびやかな儀礼用の甲冑をまとっているからだろうか。
かすかにほころぶ口元と、真っ直ぐに前を見据える褐色の瞳は、自信に溢れているようにも、無理をして強がっているようにも見える。
甲冑と対照的な黒髪も、勇ましさよりはたおやかさを映していた。
それでも、立てた剣の柄に手を置く様はとても凛々しく、すらりとした身体に力強さと気高さを秘めていることを伝えている。
――エルヴィアだ!
ほとんど直感で確信したレイブは、彼女が自分を知って欲しくてこの絵を見せようとしたことを理解した。
下手くそな自画像ではなく、本当の自分の姿を。
異形の姿で故郷に戻ったエルヴィアは何を思っているのか。
どうしたいのか。
問えば答えそうな絵姿を、レイブは瞳の奥に大切にしまい込み、改めて周囲に視線を巡らそうとする。
突き上げるような激震が城を襲い、その衝撃で床に叩きつけられたのはその時だった。
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