下賜の夜 ― 祝言と終焉のはざま

 それは満月の夜だった。


 私は「鎌足の妻となれ」と命じられ、その場で御用の車に押し込まれた。


 祝言の支度も、仲人の往復もない。道は慌ただしく開き、使いが走り、誰かが小声で「急げ」と言う。

 事情は知らされぬまま、私はひとり置き去りの花嫁だった。


 鎌足邸の大広間は人で埋まり、松明とかがり火、燭台や油皿の灯がせわしなく揺れていた。


 やがて天智天皇が仰せになる。

「中臣鎌足に藤原の姓を与え、大織冠たいしょっかんさずく」


 後で知ったことだが、大織冠は人臣の冠位のいただきで、前例のない授与だった。

 だからこそ、天皇の家臣たちがどっと息を吐き、喜びの声を上げたのだ。長年の功に報いる最期の恩賞。誰の目にもそう映っていた。


 夫となる男は、天皇の御前で涙をこぼして喜んでいる。

 私は祝いの品が並ぶ卓の横に、ひとりでぽつねんと座らされている。

 声は許されない。帳に名が一行、妻として書き替えられる筆の動きが、私の身分を決めていく。


 胸の内でだけ、私は拍手をした。


 めでたし、めでたし。鎌足様の人生という物語は、この瞬間、有終の美を飾ったのだ。

 大織冠、新しい姓「藤原」、そして仕上げに「若くて綺麗な女」。

 それは彼にとっての祝福であり、私にとっては虚しさでしかなかった。



 夜が更ける。御寝所のとばりの内に鎌足と二人。私は初夜を待つ。


 襟元えりもとに指をあてると、汗ばんでいた。衣擦れがやけに大きい。呼吸が浅くなる。


 同じ寝床が片側からそっと沈み、肩先に体温が近づいた。

 よわい五十五の手が、十八歳の私の手にそっと重なる。そのはざらざらと荒れていた。


「やすみこ……」

 かすれた声が続く。「うたげで給仕していたそなたを、灯の向こうで一目見た。あの夜から、忘れられなかった」

 胸の奥がきしむ。あのときの火の揺れと、いま目の前の灯が重なる。


 夫は、私の手を握るだけで満ち足りたように目を閉じた。


 初夜は来なかった。隣で眠る男の息は浅く、間を置いて細く戻る。


(……助かった)

 最初に来たのは安堵だった。張りつめていた肩の力が抜け、喉の奥から小さな息が漏れる。


 突然、知らぬ男の妻となっただけで、子を成す行為の覚悟はなかった。

 痛みも、血の証も、今夜はない。掌はまだ汗ばんでいるのに、背中のこわばりだけが少しずつ溶けていく。


 だが、そのすぐ後ろで違和感が顔を出す。

(待って。初夜がなくて本当によかったの?)


 私は今日、妻と記された。それなのに、契りはない。私の身体は避けられたまま、触れられもしない。


 思いは意味を帯びる。

(飾りであって妻ではない、のね)


 陛下から下賜されたという名誉を得るだけのお飾り。妻ではないから、子を成すことを求めない。


 妻と言うなら、精を放ち、子を望むのがこの世の理。

 それをしないということは――私を人としてではなく、名誉の産物として置くということではないか。

 帳に書かれた一行のために、私はここへ運ばれ、寝所でも置物であり続けるのか。


(ふざけるなっ!)


 底から、怒りが湧き上がる。


 今日、私は妻とされた。今、私は触れられないままに妻であることを強いられている。越えさせぬ一線を前に、私だけが黙って妻のかたち・・・・・を演じるのか。


 ならば覚えておけ。この理不尽は、私の中で形を変える。沈黙は刃に、笑みは毒に。


 灯が短くなり、影が頬を深くなぞる。怒りが静かに煮え立ち、腹の底に黒いおりが沈んだ。



 明け方、鳥が悲しげに鳴いていた。


 肩に触れて呼ぶ。応えはない。胸に耳を当てても、鼓動は戻らない。


 侍医が来て、瞳を伏せ、静かに首を振った。


 その瞬間、祝言は終わり、終焉だけが残った。


 ――鎌足様の人生は、完璧に幕を閉じた。


 完璧という言葉が、これほど冷たい夜はなかった。


 私は昨日、嫁ぎ、今日、未亡人になった。

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