第11話 紙の向こうの人
午前9時03分。
市の旧保守倉庫。外壁に薄く残る「資材課」の文字に、川端杏は軍手をきゅっと引き上げた。隣で久我が施錠盤を確認し、久留米が工具ケースを肩に背負う。
「鍵、いける?」
「“昔のキー”はこっちの役目だろ」
久留米が真鍮の鍵束から太い歯の1本を選び、錠に差す。重い音。シャッターが30センチだけ持ち上がり、冷たい埃の匂いが漏れた。
中は暗い。段ボールと鉄ラックの迷路。杏は懐中ライトを水平に構え、段ボールの背表紙を読む。
《旧基幹防災監視システム/保守・出庫台帳》
お目当てだ。台車に載せ、作業台に広げる。紙は重く、古いインクの黒がまだ濃い。
「ここから“人”に届く」
杏がページを繰った矢先、天井のスプリンクラーがパチンと鳴り、細い水の糸が落ち始めた。
「っ……!」
「発報?」久我が顔を上げる。
「煙じゃない。熱源センサーだ」久留米が天井を指す。「誰かが上で暖気を当てた」
水が一気に増し、台帳に灰色の雨が降る。杏は迷う前に動いた。
「UVライト、出します!」
久我が段ボールを抱えて退避し、久留米は非常弁を探して駆ける。
杏は濡れた台帳の下に吸水紙を差し込み、ページを軽く押さえて水を追い出す。すぐにポータブルのUVライトを片手に、もう片方でページを斜めに傾けた。
鈍い紙目が、紫の光で油のように光る。消された判が浮いた。
《出庫:CB-91 担当:黒田》
さらにもう1枚。消しゴムで薄めた鉛筆が浮く。
《CB-94 外部:室井工具経由 購入者:西塚/—矢代》
字の最後だけ、筆圧が弱い。迷いと罪悪感の跡だ。
「撮ります」
杏は即座に写真を切り出し、共有フォルダに投げた。
水は止まらない。久留米が通路の奥で「見つけた!」と叫び、手動弁をまわす。ギギと乾いた音。細くなって、やがて滴に変わった。
久我は額の汗を拭い、台帳の端を押さえた。「やられたな」
「証拠は残りました」杏がUVライトを消す。「“西塚”と“矢代”。ここにいる」
その瞬間、倉庫の奥の非常扉が軋んだ。三角形の影。
久我が警戒の声を落とす。「止まってください」
ゆっくり振り向いたのは、50代の男。色の抜けた作業着に、古い名札がかすかに読める。
《西塚》
「誰だ、あんたら。ここは……」
「市の正式調査です」久我が静かに名刺を差し出す。「スプリンクラー、あなたですね」
西塚は笑ってみせた。「古い倉庫の防災はデリケートでね。誤作動、よくある」
「入口の紙で、よく“誤作動”が起きるのは初めて見ました」杏が冷静に言う。
「俺は有益なことをしただけだ」
西塚の語尾が強くなる。「廃棄予定の封緘や部材を“善意の再利用”に回した。市のムダを減らして、現場に回しただけだ」
「入口を汚す再利用です」杏の声は硬く低い。「三角穴と旧封緘は、今日の“1分”を増やした。あなたの“善意”が」
西塚は眉をひそめ、視線を逸らす。「俺が売った相手が悪用したなら、そいつが悪い」
「相手の名前を出してください」久我が一歩踏み込む。
沈黙。
倉庫の外で、小さなトラックのエンジン音。逃げ道を確認する視線が、西塚の瞳に走る。
「シャッター、閉じられます」
久留米が合図し、古い制御盤にキーを挿す。鉄の腹がガラガラと降り、外の音が薄くなった。
杏は台帳の次のページをめくり、指で示した。
《出庫印/室井工具控》の薄いスタンプ。その下に、消されかけた手書き。
《現金取引 矢代》
西塚の肩が小さく揺れる。
「消しても、紙は覚えています」
杏はUVライトを軽く当て直す。「あなたの筆圧も、手の癖も」
久我のスマホが震えた。表示は「室井」。
『もしもし。先週言ってた旧封緘の件、控え見つかったぜ。黒田さんが1回、そのあとに“やしろ”って名だ。現金で。控えの写真、送る』
「助かります」久我は短く礼を言い、受信した写真をみんなに見せた。
小さい領収印、《矢代》の筆跡。
西塚が目を閉じ、息を吐いた。「……俺は、仕組みとしてムダが嫌いだった。使えるものは使うべきだと」
「入口は顔です」杏が言う。「顔に使い古しの絆創膏を貼られたら、街は息苦しくなる」
そのとき、倉庫の奥の鉄扉がガチャンと音を立てて閉まり、鍵が内側からかかった。
久我が即座に目で合図。
「ごめん、誰かが裏へ回った」久留米が駆け出す。
鉄扉には古い南京錠。久留米は工具ケースを開け、三角頭ドライバとバイパス・ピックを取り出す。
「……三角はこっちが返してやる」
乾いた冗談とともに、彼は器具を差し込み、コツと小さな音で閂を外した。
扉の向こうは小さな書庫。棚は倒れ、床に濡れた紙の山。上の天窓から、誰かが跳び去った形跡。
残されたのは、封緘のロット写真と二重帳簿の裏紙。
杏はしゃがみ込み、写真の端の反射で撮影時刻を読み取る。「19:12撮影……この倉庫で撮って、掲示板に載せたんだ」
久我が書庫の隅に落ちていた半券を拾う。コインランドリーのポイントカード。
「ランドリエイト」
3人の視線が重なった。
午前10時41分。
警察本部。スクリーンに映る「令状:ランドリエイト裏設備」。志摩は受領印を確認し、端的に指示を出す。
「倉庫からの紙は杏に、現場の確保は久我班。俺はランドリー。伊吹は店員の顔で入るな。似合わない」
「そんなこと言う?」
杏は小さく笑ってから、真顔に戻った。「紙、もう少し掘ります。二重帳簿のクセ、書き手のリズム。人は紙に出ます」
午前11時12分。
資料係の一室。杏はドライヤーの弱風で台帳を乾かし、スキャナにかけた。
消された上書きの下から、別の線が浮かぶ。
《出庫:CB-91/CB-94 担当:西塚》
《外部:室井工具→黒田(1)→矢代(5)》
数字が、顔を出す。
紙の向こうの人の段取りが、やっと線になった。
「黒田さんは“1”。矢代は“5”」
杏はメモに書く。「“1分”を生む人と、“1分”をばら撒く人」
そこへ、咲良からメッセージ。《旧市街の掲示、反応良好。子どもが“顔”を指差して笑う》
杏は返した。《ありがとう。顔は見られれば整う》
画面の端で、可視化ランプの新しいログが点く。短い、無害な点灯。
志摩から。《ランドリー裏、確保。矢代は不在。サーバ押収》
久我から。《西塚、任意同行へ》
杏は椅子の背に体を預け、短く瞼を閉じた。
紙は、まだ冷たい。けれど、人に届いた。
午後0時03分。
取調室。西塚は両手を組んで黙っている。久我は焦らない。テーブル上の写真を1枚ずつ置き、間を取る。
UVで浮いた筆跡。ロット写真。ランドリーのポイントカード。
「“善意の再利用”の終点は、入口でした」
久我の声は低く静かだ。「そこに“顔”がある」
西塚は視線を落とし、やがて短く頷いた。「……矢代に渡した。『若い子がDIYで使う』って。金は、良かった」
「その金で、入口が浅い呼吸になった」
西塚は顔をしかめた。「俺は、そこまで……」
「紙が、あなたより先に知っていました」
久我は最後の1枚を置く。《矢代》の筆跡。
「今日は、紙が人に追いついた日です」
午後1時02分。
杏はスキャナの前で最後の台帳を閉じた。乾いたページの端に、白い粉がひと筋。封緘紙の繊維か、倉庫の埃か。
指で払って、ふと入ってきた風に気づく。窓の外、昼の光。
共有の地図に、入口の“顔”アイコンが増えていく。
入口は見られている。
だから整っていく。
紙は人に届き、1分は1言に変わりつつある。
杏は画面に打った。
《可視化ランプ:拡張パッチ配布可。滑らか化の下でも“光る”。》
《台帳:西塚→室井→矢代→倉庫→掲示板(同期)。》
《推奨:“入口誓約” 掲示テンプレ+見える人の常設。》
送信。
通知音が重なり、都市がまたひとつ深い息をしたように思えた。
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