第8話 影武者

 妻女山の頂近くに、武田の一の隊がたどり着いたのは、夜明けの霧がまだ山肌にまとわりついていた頃である。合図とともに、鬨の声が山を揺らした。武田の兵は、まるで山そのものを喰らわんとする獣のように、一斉に攻めかかった。

 それに対する上杉軍はすでにこの奇襲を察していた。政虎の軍は、武田の攻撃に対し、烈火のごとく応じた。山中はたちまち修羅の場と化し、槍と刀が交錯する音が、闇夜の中に鈍く響いた。

 その混乱のさなか、上杉の兵に成りすました武田の二の隊は、敵を山の下へと誘導し始めた。闇夜は敵味方の境を曖昧にし、策略を可能にする舞台装置だったのである。

 その頃、中腹の崖の上に二人の僧侶が立っていた。武田信玄と快川紹喜である。東の空は白み始める。周囲は霞に包まれていた。

「よし、先回りしたぞ」

 信玄が呟いた声は、霧に吸われるように消えた。信玄は僧衣を纏い、別行動をとっていたのである。三の隊の信玄は信繁の演じる影武者。二の隊は密かに信玄が統率していたが、それすらも影武者を仕立てたのだった。戦場とは、影が本体を欺く場所だったのである。それだけ信玄は慎重であった。


 信玄の狙いは上杉政虎に取りついた悪霊、富士山麓で無念の死を遂げた武田家の先祖である雪女のマムシである。

 眼下では、敵味方の兵が次々と倒されていた。紹喜はその光景を見て、思わず念仏を唱える。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

「合戦中に念仏はやめよ」

 信玄の声にはどこか諦念が混じっていた。戦とは仏を遠ざけるものなのだ。

 そのとき、上杉の騎馬隊が霧を裂いて通り抜けた。その中に、ひときわ威風を放つ武将の姿があった。信玄と紹喜は、それを政虎と見た。その時、山の気はさらに冷え、霧は濃くなり、ついに雪が舞い始めた。信玄は目を細め、紹喜に命じた。

「紹喜よ、塩を撒け」

 和尚が塩をふりまくと、雪は溶け、霞はわずかに薄まった。

 その頃、崖下の政虎は、何かに気づいたのか、馬を止めて辺りを見渡した。だが、敵の姿は見えない。

「ムカデは気付いていないようでございます」

「うむ、所詮は地虫。上は見えないようだ」

 信玄は懐から軍配を取り出した。それは、かつて武田昌信が雪女を封じた瓢箪。これを潰して軍配したものであるが、今は霊を封じる呪具である。

「上杉禅秀の無念とともに、いますぐ元通りに封印してくれるわ」

 信玄が軍配を構えた。しかし、すぐに眉をひそめた。軍配が何の反応も示さなかったのである。

「む、あやつ、政虎ではないな」

 霧の中に見えたその姿は、政虎の影を借りた何者かであった。信玄は、静かに軍配を下ろした。

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