痴呆老人
なかんずく(就中)
痴呆老人
老人はただただ口を半開きにして、青山の屋敷の一室で、ベッドに籠ったまま天井の一点を見つめていた。この老人にはもはや生の希望は見えていない。肉は落ち骨ばかりとなり、部屋の角の机上に積まれた本の表紙には、厚く埃が被っている。彼に残されたものといえば、枕元で椅子に腰かけ、振り子時計の揺れに合わせて、優しく彼の手を撫で続ける老婦人だけであった。西日はまだ窓硝子を透かし、二人を慈しむように照らしている。その部屋に一人の女中が入ってきた。両手に盆を持ち、その上には陶製の茶碗と、漆塗りの木の匙を乗せている。
「お母さま。お夕食をお持ちしましたよ。そう何時間とご主人様のもとにいらしては、お身体もお疲れにございましょう。」
女中は盆を老婦人の傍の小机に置いた。茶碗の中には白米の粥が、水ばかりに相当薄く入れられている。老婦人は匙を手に取ると、優しくその粥を掬い、ゆっくりと老人の口元に運ぶ。だが老人は口を半開きにしたまま、一切の微動を見せようとしない。老婦人はその開いた口に粥を流し込もうと匙を一寸傾けるが、水滴が老人の唇に落ちたのを見て、その手を止めて自身の口に粥を流し込んだ。
「お母さま、もう少し、精のつくものを召し上がられた方がよいのではないですか。粥ばかりでは腹持ちも悪いでしょうし、台所の者に言えば、肉も魚もお出しできますのに。」
老婦人は薄い粥を飲み込んで、もう一度茶碗から粥を掬いあげた。
「いいのよ。私ももう年寄りだから、こんなものしか喉を通らないの。それにこの人はもう二日も何も食べていないのに、私ばかりが贅沢をするなどできないわ。」
老婦人は粥を茶碗に戻し匙を盆に置き、その手を老人の頭へと伸ばした。仙人の如く伸びた白髪に指を通し、頭を撫でようとすると、老人はその指から逃げるように顔を微かに背け、「んんっ。」と小さな唸り声をあげた。
「この人はもう、本当に、私が誰だかわかっていないのね。顔の近くを触ると、私を避けようとする……。痴呆は当人よりも、周りの人たちの方が苦しい……。」
「……以前、新聞に書いてありました。痴呆というのは死への恐れを免れ、安堵を取り戻そうとする人間の本能らしいのです。ですからご主人様も……。」
そこまで話したところで、女中は言葉を止めた。数秒、部屋には秒針の音だけが響き渡る。
「申し訳ありません。大変失礼なことを……。」
「いいの。いいの。私ももう、分かっているから。最期くらい、安心したいのでしょう。この人はいつも、旅順で戦ったことを自慢するような人だったから。死ぬ怖さなんて、誰よりも、理解しているはずだから……。夕刊はもう届いたかしら。こちらに持ってきてもらえる?」
女中は小さく頷き、部屋を出た。老婦人が部屋の角の机に目をやると、その隅には小さな写真立てが置いてある。その中では、椅子に堂々と腰かけた軍服姿の青年と、絢爛な着物を着た若い女が、凛々しい目で老婦人を見つめている。老人の僅かな息の音が、机上の小人たちを現実のものにたらしめている……。
数分もしないうちに、女中は夕刊を手にしてその部屋に戻ってきた。老婦人はそれを受け取ると、目次に目をやることもなく、ただ見出しと本文を読み始める。不景気による取り付け騒ぎ。財政難による軍縮。心が晴れるようなことは何も書いていない。世間の愚痴のようなものが、もっともらしく並べられている。それでも老婦人はひたすらに、その活字を追い続けた。
「どうしてこうも世の中は暗いのでしょう。もっとかわいらしい話の一つでも書いてみればいいのに。」
「かわいらしい話、ですか?」
「そう。どこどこ町の犬公が、小さな赤ん坊を産みました。なんて書いてあったら、少しは素敵じゃない。」
女中は小さく噴き出して、華奢な白い手で口元を隠す。
「そんな記事がありましたら、少しばかりは新聞を読みたくもなりましょう。」
「嫌ね。年を取ると変な知識ばかりがついて、どうも偏屈になってしまう。若いころは全てが輝かしく見えたのに、今では見たくないものも見ないといけなくなってしまったわ……。見たいものだけが見える、そんな人生も……。」
ここまで口にしたところで、老婦人は新聞越しに老人に視線を移した。気が付けば、老人の息の音は既に止まっていた。静まり返った部屋で、老婦人は新聞を落とし、床に膝をついて老人の肩を掴み、気を取り戻させるようにその肩を揺らした。
「あなた……? あなた!」
老人はもう、彼女から逃げようとはしない。ただ為されるがままに、頭をふらふらと揺らしている。
「すぐに医者を呼んでまいります。すぐに!」
女中はその姿を見るや否や、そう声を張って部屋を飛び出した。
十分ほど経って、息をあげた女中は医者を連れて部屋へと帰ってきた。その部屋では老婦人が、小さな泣き声を響かせながら、老人を抱きしめて、彼の胸元へ顔をうずめていた。医者はその光景に全てを了解した。そして皺の入った浅黒い手を優しく老人の首元へ伸ばし、黙って指を、青白い首筋に押し当てた。
「……ご臨終です。」
医者は小さく呟き合掌した。老婦人は医者の声を聞くと、一層力を込めて老人を抱きしめた。
「あなた、本当に、本当に、お疲れ様でした。」
微かな、だが力強い声と、時折混じる鼻をすする音が老人の胸元で響いている。そしてもう一度、老婦人は彼の頭と首筋に手を置いて、力強く彼を抱擁した。
すると枕のあたりで、老婦人の手に紙切れのような何かが当たる感触がした。老婦人はその感覚を頼りに、枕の下からそれを取り出した。それは机の上に立っているものと同じ、若いころの二人の写真であった。
「この写真……もう、私のことも忘れてしまっていたのに……。」
「忘れたくなかったのでしょう。お母さまのことを。」
「あなた、最後に私のことを忘れられずに、未練はありませんでしたか。苦しくはありませんでしたか。」
「……きっと、大丈夫でございましょう。最期に頭に浮かんだものが、輝かしい若さと、お母さまの顔と……、そしてかわいらしい犬公の赤ん坊であれば、それはもう、幸せな往生だったでしょう。」
そこで老婦人は、初めて大きな声をあげて泣いた。窓から差し込む西日は、痩せこけた老人の頬をまだ微かに温めている。
痴呆老人 なかんずく(就中) @sorosoro
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