其の弐
お父さんは自分がしっかりしていないくせに他人には厳しい。そのことを口実にして、ただ憂さ晴らしとして殴っているようにしか思えない。むしろ殴った理由なんか言わないことだってしょっちゅうだ。
――今日はお父さんにどこを殴られるんだろう。
おそらくバラエティ番組だろう、開け放たれた文化住宅の窓から漏れ聴こえてくるガヤの声と安っぽいBGMが私の心をさらに憂鬱にさせた。青白い蛍光灯に照らされたガラス戸を開ける。
なるべく音を立てないように開けたつもりだったけれど、怯えた耳には十分大きすぎる音だった。
「……ただいま」
しばらく間をおいて、ぎしぎしと床のきしむ音が近づいてくる。
――あ、来る。
「遅ぇぞ、どこほっつき歩いてたんだ!」
おかえり、の代わりに家の中から聞こえたのは酒焼けした怒鳴り声。中に入ろうとすると、ごめんなさいと謝らせてもらう暇もなく髪の毛をつかまれて、やけに素早いビンタを何発か喰らった。
「い、痛い……」
「痛い、じゃねえだろ! 俺の手の方が痛えわ!」
そんな言葉と同時に放ったビンタが耳にあたって、右耳の奥が詰まったみたいにくぐもる。
「……ご、ごめんなさい」
「……たく」
私からの謝罪を聞くなり、お父さんはつかんでいた髪の毛をぽいっと投げるように放すと、そのまま倒れ込んだ私のお腹を軽く蹴った。一瞬また追撃が来るかと身構えたけれど、足音はそのままぎしぎしと居間の方へ去っていった。
にぶく痛むおへその下を抱えながら起き上がり、物音を立てないようにそろりそろりとゴミと余計なものだらけの家の中を歩く。ここで空き缶でも蹴ってしまおうものならまたボコボコにされる。
廃墟みたいになった自室の床に敷かれた薄い蒲団に身を投げる。横になってすぐにお腹が鳴ったけど、もう何も食べる気力もない。どうせお酒以外何も入っていない冷蔵庫なんか漁ったって体力の無駄。
割れた蛍光灯をぼんやり眺めながら、眠りに落ちるまでの時を待つ。
お父さんに殴られるのももううんざり。
――逃げ出しちゃおうか。
小学五年生の五月、図書室かなにかで読んだ小説の真似をして、初めて家出をした日を思い出す。結局暗くなってからお巡りさんに交番に連れていかれて、お父さんに迎えに来られたあとめちゃくちゃ殴られたんだっけ。
あの時お父さんが交番で見せた外面の良い笑顔は、今でも脳みその奥底にこびりついている。
逃げ出せないならどうしよう。お父さんを消したらどうなるんだろう。お父さんがいなかったなら、もっとましな毎日にはなっていただろうか。
いや、いなくなってどうする。いなくなったからといって今よりましな生活が手に入るわけじゃないし。
そんなことを考えているうちに、薄い壁の向こうから聞こえてくるテレビの音が遠くなっていった。
***
「おい、そこの小娘」
それからしばらく経った終業式の日の午後。白蛇を助けたことも忘れかけようとしていたその日、例の池のほとりで物思いにふけっていたところ、後ろからしわがれた低い女の人の声が私の背中に語りかけてきた。
やたらと古風な声に驚いて振り返ると、小学校中学年くらいだろうか、知らない女の子が私のすぐ後ろに立っていた。赤い着物に首から下げた大きな数珠、そしておかっぱ頭。その浮世離れした姿はどことなく座敷童みたいな妖怪とか、そんな不思議な存在を想わせた。
「うわっ!」
「そんなに驚かんでもいいだろう」
爬虫類みたいに縦長に裂けた赤い瞳と目が合い、思わず後ずさると、女の子は心外そうに顔をしかめる。
「あ、ごめんなさい……」
慌てて非礼を詫びる。女の子になにを感じたのかは自分でも分からないけど、なぜか口から出てきた言葉は敬語になっていた。
「そう恐れるでない、別に取って喰ったりはせんからに。お前さんだろう、こないだ
「と、とも?」
何のことか分からず戸惑っていると、女の子の着物の袂からするすると見覚えのある白い蛇が顔をのぞかせた。
「こやつの貌に見覚えはないか。幾日か前、ここいらで不届者の捨てた釣り糸に絡まって困っていた折、お前さんに救われたと聞いておるが」
甘えるように首元に這いよる蛇を、女の子はか細い指先で撫でる。ところどころに浮かぶ小銭のような模様と、全身に糸を巻き付けられたような痛々しい傷跡をみて、先日の記憶がふと脳裏に蘇った。
「え、あ、うん。私、です」
どうやらあの白蛇はこの子のペットだったらしい。
「そうかそうか。ではこの
水津智、と名乗った女の子は人形みたいに無機質だった表情をほころばせ、うやうやしく頭を下げた。さらさらの黒い髪がするんと垂れ下がる。
「い、いえ。大したことはしてませんし……。その子も怖がらせちゃったみたいで――、あ、
つられてお辞儀をすると、白蛇と一瞬だけ目が合った。白蛇は少し恥ずかしがるようにその長い首をそむけた。水津智さんにだいぶ可愛がられてきたのだろう、蛇ながら感情豊かな子らしい。
「ところで凛音とやら、そのような格好をしていて暑くないのか」
水津智さんは少し心配そうな顔をして、汗の浮いた私の額を見る。それもそのはず、夏もののセーラー服の下から黒い長そでを着ているのだから。着ている理由は言わずもがな。今朝お父さんが機嫌を損ねなければこんな暑い思いはしなくて済んだのに。
「う、うん。ちょっと暑いかな」
適当な返事をしてはぐらかす。うちのくだらない事情に誰かを、しかも今であったばかりの子を巻き込みたくはない。
というか相談してなんになるっていうんだろう。
「……まあええ。そこの森に我のねぐらがあるから、少し涼んでゆくといい」
彼女は少し思案するように首を傾げたあと、私の手を優しく引いて、池の反対側にある森への道ちょこちょこと速足で歩き出した。
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