白蛇さまのおんがえし
飛梅ヒロ
其の壱
水色に橙色をすこし混ぜたようなグロテスクな色の空、ゼンマイのおもちゃみたいな蝉の声、そして窓を開けっぱなしにした誰かの家から香るお線香。
下校途中の通学路は、そんな陰気くさい空気で満ちていた。
しかし前を行く小学生たちはそんなことも気にせず、きゃっきゃと楽しそうにもうすぐ来るであろう夏休みの予定を話し合っていた。海に行くとか、遊園地に行くとか、なんの心配事もなさそうな無邪気な笑顔で。
――最後にあんな風に笑えたのはいつだろう。
家に帰ってもパチンコだか競輪だか、ギャンブルで負けたお父さんの八つ当たりと散らかったゴミが待っていて、学校に行ってもうちの事情で腫れ物扱い。笑える場所なんかありゃしない。
夏の本番を告げるぬるい風が頬を撫でると、昨日お父さんに殴られたところがひりひりと痛んだ。しかも家路を一歩一歩進むたびに痛みがしつこくなっていっているような気がして、足取りがさらに重くなる。
そうやって頭の中でぐちゃぐちゃ考えながら歩いていると、けたたましいクラクションの音が後ろのほうからがなり立ててきた。
「危ないだろ!」
声に驚いて振り返るとダンプカーが私のほんのすぐうしろで止まっていた。何も言えずに道の端によると、ダンプカーの運転手は大きくため息をついて、窓から頭を引っ込めて狭い道をそそくさと走り抜けていった。
(……やだなあ、男の人の怒った声)
怒鳴られるのには慣れているつもりだったけれど、いつものように脈が速くなって、少し恥ずかしいような、むかむかするような気持ちが体の中の血と一緒に全身にいきわたる嫌な感覚がした。
もっと周りに注意して歩こうと視線を足元から目の前に移動させると、家の近くの丁字路に差しかかっていることに気がついた。右へ行けばそのまま家にたどり着くけど、左に行けば古い貯水池がある。
私のボロボロのスニーカーは無意識に左の道――、貯水池に続く、砂利の隙間から雑草が顔をのぞかせる道をとぼとぼと歩きはじめていた。どうせ家に帰っても嫌な思いをするだけだから、何もないところで時間を潰した方がマシだ。
草がぼうぼうに生い茂った空き地とか、広告の入っていない錆びた看板とか、瓦の崩れかけた廃屋とかがぽつぽつあって、まるで私以外みんな死んでしまった世界に迷い込んだみたい。
――本当にそうなってしまえばいいのに。
物騒なことを考えながら歩いていたら、そのうち対岸が雑木林に囲まれた濃い緑色に濁った池が顔を見せた。時々釣りをしている人を見かけるけれど、今日は誰もいないみたい。
土手に腰を下ろして休もうとしたそのときだった。すぐそこの草むらから、がさがさと音がした。反射的に音のした方に目をやると、ちらりと細いなにかがチラチラと動いている。
猫でも潜んでいるんだろうか、そう思って草むらの中を覗き込む。しかしそこにいたのは猫なんかじゃなくて、うねうねとうごめく、捨てられた釣り糸やゴミに絡まった何か白いホースみたいなつるつるした物体だった。
「……ひっ!」
ぬるぬると冷たい質感と気持ちの悪い動き。二の腕のあたりにぞぞっと鳥肌が走って、思わず後ずさりする。草むらでうごめいていたものの正体は白い蛇だった。よく見るとうっすら小銭のような金色の模様が全身に入っている。
蛇は宝石みたいに赤い目を「助けて」とでもいうように大きく見開いて、目のうしろの方まで裂けた口を開けてもだえ苦しんでいた。糸は思ったよりも細く複雑に蛇に絡みついているみたいで、もがけばもがくほど食い込んでいくらしい。そのうちちぎれてしまうんじゃないかと心配になる。
いつもの私なら怖くなって逃げ出していたかもしれない。でも今回ばかりはどういうわけか、無意識にカバンの中に手を突っ込んで、カッターとかはさみとか、なにか糸を切れるようなものを探しはじめていた。
ごそごそやっているとなにか固いものが手にあたった。取り出してみると今日家庭科の時間で使った裁縫セットだった。
安っぽいプラスチックの箱の中から糸切バサミを取り出して、意を決して草の中でのたうち回っている蛇をつかむ。生き物特有のずっしりした重みと冷たく湿った感触が手に伝わって思わず放り投げたくなったけど、その気持ちをぐっとこらえて比較的食い込みのましなところを探して刃を通した。
「おとなしくしててねぇ……」
刃が糸に触れた瞬間、蛇はさっきまで大きく開けていた口を何かを堪えるようにぎゅっと結んだ。自分が助けられていることを分かっているんだろうか。
釣り糸は思ったよりも硬くて、しかも見た目よりもかなりきつく食い込んでいるみたいで切りづらい。あと緊張のせいか手にうまく力が入らなくて、余計に切るのに時間がかかる。手元が狂って蛇を傷つけてしまわないか心配。
「け、怪我させちゃったらごめんね」
思わず独り言のように、言葉なんか分かるはずもない相手にそんなことを言い聞かせながら固い糸を一本ずつ切り取っていたら、終わる頃には茜色の空の東に藍色が少し混じりはじめていた。
蛇はしばらく私の手の上でおとなしくしていたけれど、やがて自分の身体が釣り糸から解き放たれたと分かるや否や、急に体をよじらせて、私の手のひらから飛び降りるようにして一目散にどこかへ逃げて行ってしまった。
「なにさ、お礼ぐらい言ってくれてもいいのに」
なんだか自分から逃げられたような気がして少し悔しくなった。まあ蛇がお礼なんか言えるわけないし、そもそも私が助けようとしたということを理解できているのかすら怪しいのだが。
ふと顔をあげてあたりを見回すと、真っ暗闇になりかけていた。そろそろ家に帰らないと、お父さんの機嫌が悪くなりそうだ。また顔がはれるぐらいまで殴られてはたまったもんじゃない。
――帰るか。
蛇に感謝もされぬまま、今日はどこを殴られるのかと憂鬱な気分のまま、さながら終末世界のような丁字路までの道を、私はとぼとぼと歩き出した。
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