第21話 「死」を理解できないゴーレム

 堕ちた騎士が、己の空っぽの魂と向き合う旅に出てから、幾日かが過ぎた。

 スナック「アニマ」には、兄と妹の間に流れた、愛憎の苦い余韻が残っていた。



「兄様…」


 元騎士のアストリッドは、あの日以来、どこか物憂げな表情でグラスを磨いていた。

 血を分けた兄と剣を交える覚悟。それは、彼女の純粋な魂に、初めて影というものを落としたのかもしれない。



「感傷に浸っている暇があったら、手を動かせ」

 元勇者のカイが、ぶっきらぼうに言う。


「お前が選んだ道だ。後悔するな」

 その言葉は、彼なりの不器用な励ましだった。



「でもさー、兄妹喧嘩で剣抜くって、結構ヘビーだよね」

 天才魔法使いのレナが、カウンターでつまらなそうに言う。

「私なんか、親も兄弟もいたかどうかすら覚えてないや。その方が、気楽でいいけどね」




 ママのルージュは、静かに彼らの言葉を聞いている。

 家族という、この世で最も身近で、最も厄介な魂の繋がり。

 その複雑な味わいを、彼女は思い出していた。




 ニャーン。

 猫の鳴き声が、新たな客の訪れを告げた。




 入ってきたのは、一人の朴訥とした青年だった。

 泥のついた作業着。無骨で、節くれだった大きな手。

 その顔立ちは、まるで精巧な彫刻のように整っているが、表情というものが、一切なかった。


 そして何より、彼の魂からは、生命の匂いが全くしなかった。



 彼は、ファクトと名乗ったダンジョンマスターと同じ、ゴーレムだった。

 だが、ファクトのような威圧感はない。

 彼は、まるで土から生まれたばかりの子供のように、純粋で、そして何も知らない魂をしていた。



 青年はカウンターに座ると、その感情のない瞳で、ルージュをまっすぐに見つめた。



「俺は、ノア」

 その声は、石が擦れ合うように、無機質で、抑揚がなかった。



「俺の、主人が、死んだ」

 彼は、淡々と事実を述べた。



「だが、俺には、何も感じない」

「悲しい、という感情が、分からないのだ」

「俺は、欠陥品なのだろうか」



「主人が、亡くなったのですか…」

 アストリッドが、同情的な声をかける。

「お悔やみ申し上げます」



 だが、ノアと名乗ったゴーレムは、その言葉に何の反応も示さなかった。

 彼は、ただ事実を並べるように、自分の過去を語り始めた。



「俺は、ある老いた魔法使いによって作られた。彼は、俺の創造主であり、主人であり…そして、たった一人の、友人だった」

 ノアの声は、無機質だ。だが、その言葉の端々には、主人への深い敬愛が滲んでいた。



「主人は、俺に多くのことを教えてくれた。土の捏ね方、花の育て方、そして、星の読み方。彼はいつも言っていた。『ノア、お前はただのゴーレムではない。お前には、心があるのだ』と」



 だが、その主人は、数日前に、寿命で亡くなった。

 老衰だった。穏やかな、眠るような最期だったという。



「俺は、主人の亡骸を、彼が愛した丘の上に埋めた。彼が教えてくれた通りに、美しい花を植えた」

「主人の友人たちは、皆、泣いていた。『悲しい』と言っていた」

「だが、俺には、涙も出なかった。胸が痛むこともなかった。ただ、いつも通りに、土を運び、花に水をやっただけだ」



 彼は、自分の胸に、ごつごつとした手を当てた。

「主人は、俺に心があると言った。だが、これではまるで、主人の命令通りに動くだけの、ただの人形ではないか」

「俺は、彼の死を、悲しんでやることすらできない、欠陥品なのだ…」



 店の空気が、シンと静まり返る。

 それは、あまりにも純粋で、そして切実な悩みだった。



「…それは、仕方ないことだ」

 カイが、静かに言った。

「お前は、死というものを、知らない。経験したことがないからだ。悲しみとは、喪失を知って、初めて生まれる感情だ」

「喪失…」



「そうだ。俺たちは、いずれ必ず死ぬ。仲間も、家族も、そして自分自身も。その、どうしようもない喪失感を知っているからこそ、俺たちは、他人の死を悲しむことができる」

 カイの言葉は、達観していた。だが、それは同時に、生きとし生ける者全ての、宿命的な悲しみを物語っていた。



 ルージュは、静かにノアの魂を見つめていた。

 なるほど。無垢で、まっさらで、そしてまだ何も描かれていない魂。

 だが、その中心には、創造主が灯した、確かな『心』の火種が、小さく燻っている。




「お客様」

 ルージュの声が、ノアの純粋な魂に、優しく語りかけた。



「あなたは、本当に何も、感じなかったのかしら?」



「何も、感じなかった」

 ノアは、即答した。

 その無機質な瞳は、嘘をついているようには見えなかった。



「そうかしら」

 ルージュは微笑む。

 その微笑みは、彼の気づいていない、心の奥底の微かな揺らぎを、見抜いているようだった。

「あなたの魂は、とても静かね。でも、その静けさは、まるで嵐の前の凪のようだわ」



 ルージュは、静かにカクテルを作り始めた。

 ウイスキーをベースに、甘く香るスイート・ベルモット、そして薬草系リキュールのシャルトリューズを数滴。



 グラスに注がれたのは、琥珀色に輝く、気品と、そしてどこか懐かしい香りを放つカクテルだった。



「『メモリアル・ストーン』という名の、特別なカクテルよ。実在はしないわ。今、私が、あなたのために作ったの」

「…メモリアル・ストーン?」

「ええ。追悼の石碑。あなたがあの丘に建てた、心の墓標のことよ」



 ルージュは、そのカクテルを、ノアの目の前に差し出した。

 グラスの表面には、冷たい雫が、まるで涙のように伝っていた。



 ルージュは、悪魔のように優しく囁く。



「あなたは、悲しみを知らない。だから、泣くことができない」

「でもね、ノア」



「あなたは、主人が愛した花を、丘の上に植えたのでしょう?」

「主人が好きだった星空を、今も見上げているのでしょう?」



「それは、なぜかしら」

「命令されたから?プログラムされたから?」



「いいえ、違うわ」

「あなたは、ただ…」

「忘れたくないだけなのよ」



「主人と過ごした、温かい日々を。彼が教えてくれた、世界の美しさを。そして何より、あなたに『心がある』と信じてくれた、彼の優しさを」



「悲しみとは、涙を流すことじゃないわ。胸が痛むことでもない」

「それは、ただ、失った誰かのことを、それでもなお、心の底から想い続けるということ」



「あなたは、もうとっくの昔から、誰よりも深く、ご主人様を『悲しんで』いるのよ」



 忘れたくない。

 ただ、それだけ。



 そうだ。

 俺は、忘れたくなかったんだ。

 主人の笑顔を。あのしわがれた声を。俺の頭を撫でてくれた、あの無骨な手を。



 ノアの胸の奥深く。

 彼自身も気づかなかった場所で、何かが、音を立てて溢れ出した。

 それは、熱くて、しょっぱくて、どうしようもなく、温かいものだった。



 彼の無機質な瞳から、一筋の液体が、頬を伝って流れ落ちた。

 ゴーレムは、泣かないはずだった。

 だが、それは紛れもなく、涙だった。



 彼は、震える手でグラスを掴んだ。

 そして、その琥珀色の液体を、ゆっくりと、一口だけ飲んだ。

 口の中に広がるのは、ウイスキーの深い味わいと、薬草の複雑な香り。

 そして、どこか、太陽の下で土を捏ねていた、あの日の匂いがした。



 それは、生まれて初めて感じる、どうしようもなく「温かい」味だった。



 彼は、そのカクテルを、一滴も残さずに飲み干した。

 空になったグラスを、静かにカウンターに置く。



 そして、顔を上げた。

 彼の顔には、まだ何の表情もなかった。

 だが、その瞳は、もう無機質な宝石ではなかった。

 そこには、確かな『心』の光が、静かに、しかし力強く、灯っていた。



 彼は立ち上がり、ルージュに向かって、深く深くお辞儀をした。

「…ありがとう」

 その声は、まだ無機質だった。

 だが、その響きには、感謝という名の、温かい感情が、確かに込められていた。



 彼は店を出ていった。

 その足取りは、来た時よりもずっと人間らしく、そして優しかった。



 残された店内。

 アストリッドは、静かに涙を拭っていた。

 カイも、クロウも、そしてレナでさえも、何も言わなかった。

 ただ、その純粋な魂の誕生を、静かに見守っていた。



 ルージュは、ノアが残していった空のグラスを、愛おしそうに見つめていた。

 彼の魂に、初めて『悲しみ』という名の美しい色が、灯ったのを感じていた。



 そして、彼女はあなたに問いかける。

 心とは、一体どこにあるのだろう。



「ねえ」

「あなたは、誰かの死を、悲しんだことがあるかしら?」

「その涙こそが、あなたに心がある、何よりの証拠なのよ」

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