第20話 堕ちた元騎士
オークの将軍が、復讐という名の新たな宿命を背負って去った夜。
スナック「アニマ」には、憎しみと罪悪感が交錯した、重苦しい空気が澱のように溜まっていた。
「俺が殺すに値する英雄、か」
元勇者のカイが、空になったグラスを見つめ、自嘲気味に呟く。
「都合のいいことを言ってくれる。俺はもう、誰かを救うための剣は振るわんと決めたのだ」
だが、その瞳の奥には、かつての闘志の火が、微かに燻っているようにも見えた。
「カイ様は、カイ様のままでいいのです」
生真目な元騎士アストリッドが、まっすぐな声で言う。
「あなたは、世界を救った英雄です。その事実は、誰にも汚すことはできません」
彼女の言葉は、純粋な尊敬に満ちていた。
だが、その純粋さこそが、時に人を傷つける刃ともなることを、彼女はまだ知らなかった。
「純粋だねぇ、アストリッドちゃんは」
天才魔法使いのレナが、カウンターの隅で新しい魔法薬を調合しながら、面白そうに言う。
「そういうキラキラした正義感ってさ、ちょっとしたことで、簡単にポッキリ折れちゃうんだよね」
「なっ…!私の正義は、そんな脆いものではありません!」
アストリッドが、顔を赤くして反論する。
ママのルージュは、静かに彼らの魂の交錯を見つめている。
カイの罪悪感、アストリッドの純真、レナの達観。
そして、クロウの沈黙。
それぞれの魂が、それぞれの物語を奏で、複雑な不協和音を生み出している。
それこそが、彼女が最も愛する音楽だった。
ニャーン。
猫の鳴き声が、新たな客の訪れを告げた。
だが、その音は、どこか不吉な響きを帯びていた。
入ってきたのは、一人の男だった。
上質な、しかし着古された貴族の服。
腰には、かつては名剣だったであろう、しかし今は手入れもされず錆びついた剣。
そして何より、その瞳。
全ての希望を失い、嫉妬と絶望に濁りきった、暗い瞳をしていた。
男は、店の中を見回し、やがて、その視線を一点に定めた。
アストリッドに。
男の唇が、歪んだ笑みに吊り上がる。
「…探したぞ、アストリッド」
その声は、ひどく掠れていた。
「我が、愚かな妹よ」
アストリッドの顔から、さっと血の気が引いた。
その美しい顔が、驚愕と、そして恐怖に引きつる。
彼女は、震える声で、その男の名を呼んだ。
「…兄様…?」
「なぜ…あなたが、ここに…」
「ヴォルフ兄様…!」
アストリッドの声は、震えていた。
ヴォルフと名乗った男。アストリッドの兄。
かつては、聖騎士の名門であるフォン・クライスト家の次期当主として、誰よりも輝いていたはずの男。
だが、今の彼の姿は、見る影もなかった。
「なぜ、だと?」
ヴォルフは、嘲るように笑った。
「お前を、連れ戻しに来たに決まっているだろう。こんな薄汚い酒場で、下賤な者たちに酌などして。我が家の名を、これ以上汚すのは許さんぞ」
彼の言葉は、アストリッドだけでなく、店の全員を侮辱していた。
カイの眉間に、深い皺が刻まれる。
クロウは、静かに煙草の火を揉み消した。
「兄様、私はもう、あの家には戻りません!」
アストリッドは、毅然とした態度で言い返す。
「私は、自分の信じる正義のために、ここで…!」
「正義、だと?」
ヴォルフは、腹を抱えて笑った。
「笑わせるな!お前が信じる正義とは、なんだ!権力者に逆らい、家の名誉を地に落とし、挙句の果てには騎士団から追放された。それが、お前の言う正義の成れの果てか!」
「そ、それは…!」
「全て、お前のせいだ!」
ヴォルフの顔が、憎悪に歪む。
「お前が生まれなければ!お前が、あの忌々しい聖剣に、才覚など示さなければ…!」
彼は、腰の錆びついた剣を、ギリリと握りしめた。
「私が、家の跡継ぎとして、聖剣の使い手として、輝かしい未来を歩むはずだったのだ!それを、全て、お前が!お前が、奪ったのだ!」
嫉妬。
それは、どんな魔剣よりも鋭く、人の魂を蝕む毒。
アストリッドは、顔を青ざめさせ、何も言い返せない。
そうだ。兄は、ずっとそうだった。
私が剣の稽古で兄を打ち負かした日も、私が聖剣の儀で兄よりも高い適性を示した日も、いつも、いつも、その嫉妬に満ちた目で、私を見ていた。
ルージュは、静かに二人の魂を見つめていた。
なるほど。聖女と堕ちた騎士。光と影。
どこにでもある、ありふれた、しかしだからこそ根深い、兄妹の物語。
「お客様」
ルージュの声が、ヴォルフの醜い嫉妬の炎を、優しく、しかし有無を言わさず、制した。
「妹君への積年の恨み、よく分かりましたわ。でも、ここは貴方様の家ではありません。他のお客様のご迷惑ですわ」
その声には、絶対的な威圧感がこもっていた。
「さあ、まずは一杯いかがかしら。その乾ききった魂を、少しは潤して差し上げますわ」
ヴォルフは、ルージュの威圧感に一瞬怯んだ。
だが、すぐに気を取り直し、フンと鼻を鳴らした。
「よかろう。どうせなら、この店で一番強い酒を持ってこい。お前たちの魂のように、安っぽくないやつをな」
その態度は、どこまでも傲慢だった。
ルージュは、静かにカクテルを作り始めた。
氷を入れたグラスに、辛口のジンを注ぐ。
そして、ドライ・ベルモット、ほろ苦いカンパリ。
最後に、オレンジの皮を、まるで傷口に塩を塗り込むかのように、ぎゅっと絞った。
グラスに注がれたのは、血のように赤黒く、そして危険な香りを放つカクテルだった。
「『ブロークン・ハート』」
ルージュは、そのカクテルを、ヴォルフの目の前に差し出した。
「失恋、という意味のカクテルよ。でも、折れてしまったのは、本当に恋心だけかしら」
ヴォルフは、その不吉な名前のカクテルを、睨みつけた。
ルージュは、悪魔のように優しく囁く。
「あなたの魂は、完全に折れてしまっているわね。騎士としての誇りも、家の跡継ぎとしての自負も、そして何より、妹を愛するという、兄としての心も」
「黙れ!」
ヴォルフは叫ぶ。
「あなたは、妹君を妬んでいるんじゃないわ。本当は」
ルージュの瞳が、ヴォルフの魂の最も暗い部分を、見抜いた。
「聖剣に選ばれず、妹に才能で追い越され、誰からも認められなかった、『惨めなあなた自身』。その現実から、ただ目を逸らしているだけよ」
「妹を憎むことでしか、あなたはそのプライドを保てない。なんと哀れで、なんと弱い魂なのでしょう」
「だまらっしゃいッ!!」
ヴォルフは、ついに堪えきれず、腰の剣を抜いた。
その錆びついた切っ先が、ルージュへと向けられる。
だが、ルージュは動じない。
彼女が瞬きするよりも早く、二つの影が動いた。
一つは、カイ。
彼は、ヴォルフの背後に音もなく回り込み、その首筋に、鞘に収まったままの剣を当てていた。
「それ以上、動くな。殺すぞ」
その声は、絶対零度の冷たさだった。
もう一つは、アストリッド。
彼女は、ヴォルフの前に立ちはだかり、自分の剣を抜いていた。
その切っ先は、兄へと、まっすぐに向けられていた。
「…兄様」
彼女の声は、震えていた。だが、その瞳には、迷いはなかった。
「ママに、剣を向けるというのなら…この私が、お相手します!」
それは、彼女の決別宣言だった。
ヴォルフは、愕然とした。
妹が、自分に剣を向けるなど。
しかも、自分の知らないところで、こんな化け物のような男たちと、絆を深めていたとは。
彼の嫉妬の炎は、行き場を失い、代わりに、どうしようもない敗北感が、その魂を支配した。
彼は、力なく剣を取り落とした。
ガラン、と乾いた音が、店内に響き渡る。
ブロークン・ハート。
折れた心。
そうだ、俺の心は、もうとっくの昔に、折れていたのだ。
ヴォルフは、その場に崩れ落ちた。
そして、子供のように、声を上げて泣き始めた。
「俺だって…俺だって、なりたかったんだ…!父様のような、立派な聖騎士に…!お前さえ…お前さえ、いなければ…!」
その醜い嗚咽は、彼の魂の、最後の断末魔のようだった。
カイとアストリッドは、何も言わず、剣を収めた。
ルージュは、そんな彼の無様な姿を、ただ静かに見つめていた。
そして、カウンターに置かれた『ブロークン・ハート』を手に取ると、泣きじゃくる彼の前に、そっと差し出した。
「さあ、お飲みなさいな」
その声は、まるで母親が子供をあやすように、優しかった。
「その一杯が、あなたの折れてしまった心の、最後の弔いになるわ」
「そして、明日からは、また新しい物語を始めればいい。騎士でも、貴族でもない、ただのヴォルフという男の物語をね」
ヴォルフは、しゃくりあげながら、その赤いカクテルを手に取った。
そして、その液体を、ゆっくりと、ゆっくりと、喉に流し込んでいく。
苦い。
ひたすらに、苦い。
まるで、自分の惨めな人生そのものを、飲んでいるかのようだった。
飲み干した後、彼は空のグラスを、静かにカウンターに置いた。
そして、立ち上がる。
その足取りは、まだおぼつかない。
だが、彼の瞳からは、醜い嫉妬の炎が消え、代わりに、空っぽの、しかし澄んだ光が宿っていた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、妹であるアストリッドを、一度だけ、じっと見つめると、静かに、そして力なく、店を去っていった。
残された店内。
アストリッドは、兄が去っていったドアを、ただ黙って見つめていた。
その瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
ルージュは、ヴォルフが残していった空のグラスを、愛おしそうに見つめていた。
彼の魂が、一度完全に砕け散り、そして、新しい再生の可能性を秘めて、去っていったのを感じていた。
そして、彼女はあなたに問いかける。
光と、影。
「ねえ」
「あなたは、誰かの輝きに、嫉妬していないかしら?」
「でも、忘れないで」
「どんなに強い光も、それと同じくらい濃い影がなければ、決して輝くことはできないのよ」
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