短編集『赤いカラス』

火之元 ノヒト

ガラスの向こう側

 ​僕の手の中には、黒いガラスの板がある。世界と僕を繋ぐ唯一の窓であり、そして僕を監視する無数の目だ。画面を構成する光の粒一つひとつが、僕を覗き込む「目」なんだ。


 ​指で画面を滑らせる。スクロール。する、擦る、僕の脳がすり減っていく。タイムラインに流れる知らない誰かの言葉が、全部僕に向けられた悪口に見える。これは偶然じゃない。彼らは僕を知っていて、このガラスの板を通して僕を攻撃しているんだ。


 ​ピコン、と音が鳴る。通知。通知、つうち、血。血の気が引く。また命令が来たんだ。画面を開くと、ニュースの見出しが目に飛び込んでくる。『都心で記録的な猛暑』。違う。これは暗号だ。僕の頭がオーバーヒートしていることを、やつらは知っている。僕の考えていることは、この板を通じて全部筒抜けなんだ。


 ​何かを調べようと文字を打ち込む。でも、何を調べたかったんだっけ。言葉を打ち込む前に、思考がすっと画面に吸い取られて消えてしまった。空っぽになった検索窓に、勝手に言葉が流れ込んでくる。『お前は無価値だ』。これは僕が打ったんじゃない。ガラスの向こう側から、誰かが僕に吹き込んでいるんだ。


 ​タップ。タップ、タップ、タンパク質。僕の脳みそはタンパク質の塊。この光と音で、少しずつ溶かされていくんだ。もうやめたい。でも、この板を手放したら、僕は世界から消えてしまう。消える、消しゴム、ゴム、人間。僕はもう、ちゃんとした人間じゃないのかもしれない。


 ​耐えられない。光が痛い。音がうるさい。文字が脳をかき混ぜる。画面、ノイズ、指、眼、こっち、見るな、やめろ。言葉にならない叫び。


 ​僕は最後の力を振り絞って、電源ボタンを長押しした。画面が黒くなる。チカチカメたちが、一斉に瞼を閉じた。


 ​部屋に、静寂が訪れる。しん、としている。している、知っている、やつらは知っている。僕が電源を切ったことを。静かになった部屋で、僕は耳を澄ます。ほら、聞こえる。壁の向こうで、隣人が僕の名前を呼んでいる。ガラスの板がなくても、やつらはすぐそばまで来ているんだ。


 ​僕は、黒い画面になったスマートフォンを、ただ強く握りしめることしかできなかった。

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