弍『異邦の少女』

 水を含んだ少し冷たい風が湖を吹き抜けてゆく。やわらかな草が風になびき、花がゆれる。

 湖のすぐそばには人影が佇み、長めの衣装の裾が流れるように揺れている。

 月映つきはは息を呑んで、その人影――舞師・花天かてんを見つめていた。


 夜明けの草花の露に宿る、癒光露ゆこうろ。それは神々からの贈り物だとされている。そして今、神々への感謝を捧げる舞が静かに幕を開ける。

 独特な抑揚の詠唱が紡がれだすと、音もなく花天の足が大地を離れ、しなやかな指先と視線が空へと向けられた。雅な衣装がひらりと宙を舞い、手の動きと足捌きに合わせて鮮やかな色の飾り布が絡みつきながら円をえがく。


 美しい。

 こみ上げる想いに、月映は知らず知らずのうちに強く手を握りしめていた。

 隣に立つ光夜ひかやがそれに気づいて口元を緩めかけたとき、わぁっと声があがった。

 声に反応して舞台をみた光夜の黒い瞳に、撒かれた癒光露ゆこうろが光に煌めきながら空気に溶けこんでゆく様子が映る。

 三十分ほどの舞のさなかに撒かれるそれは、量を保つため湖水で薄められてはいるものの、なお静かに淡く光を放ち、空気までも澄み渡らせんとするかのようだ。

 その光景に月映もまた大きく目を見開く。

 一瞬たりとも見逃すまいと、月映は熱に浮かされたようにその金色の瞳を輝かせた。


 大地を踏み、しなやかに身体を動かしていた花天は、息を整えるように次第にゆっくりと動きを緩めていった。飾り布がはらりと落ち、祈りを捧げ終えた花天がその場で静かに頭を垂れる。

 その瞬間、集まった子供たちから歓声が一斉に湧きあがった。

 月映が飛び出したいのを我慢して、ひと休みする花天の様子を眺めていたとき、花鏡が手を叩いて子供たちの注意をひいた。

「さぁさぁ、後片付けして露を運んだらいつものやるぞ」

 露集めの後はいつも、ちょっとしたお祝いをするのだ。お菓子が出てくるので、子供たちはそれを楽しみにしている。

 月映は名残惜しげにしていたが、疲れている花天の邪魔をするわけにもいかず、他の子供たちと共に移動することにした。



「え? 女の子が?」

 さくりと香ばしい焼き菓子をかじりながら、光夜が蓮茉はすまに聴き返した。その黒い瞳はきょとんと丸く見開かれている。

「俺たちが花天の舞を見てる間にさ、ふらりと現れたらしいぜ」

「たったひとりで?」

 光夜が小首を傾げると、ふわふわした金髪がその弾みで揺れた。

「お前らも見にいってみるか?」

 蓮茉の言葉に、月映が肩をすくめながら応える。

「んー、俺はいいや。他に気になることいっぱいあるし」

「僕もいいかな。だってその子はここに住むわけじゃないんでしょ?」


 ところが、その少女は一週間経っても里に滞在したままだったどころか、住む家を探しているという。

 その話題がでたとき、光夜と月映は蓮茉と一緒に川沿いの小道を歩いていた。陽射しが水面できらきらと揺れている。蓮茉は拾った棒きれで草をぱしぱし叩きながら、前を歩いていた。

 その様子を眺めながら、光夜が月映にぽつりと呟く。

「数ヶ月くらいなら大丈夫なんだろうけど」

「まあ、外から来たやつでも一年ほどは健康に暮らせるみたいだしな。旅の一座だった俺たちの親もそうだったらしいし」

 月映が光夜にそう返すと、蓮茉は振り向いて立ち止まった。

湖白霧こはくむはここで生まれ育った者でないと毒になるっていうし、薬にする前の癒光露ゆこうろにふれて平気なのも里の者だけっていうからなぁ。俺たちは慣れてっけどさ」

 蓮茉の言葉を受けて、光夜は少し考えながら応えた。

「他の土地に行った人たちの子供には受け継がれないらしいから、ここで生まれ育つことで耐性がつくみたいだよね」

「そういえばさ、昔この土地を手に入れようとした余所者がやってきたときには、世界中のあちこちから水の魔物が現れたって話があったよな?」

 蓮茉がからかうような軽い調子で口を挟む。だが、その言葉には一見ふざけているようでいて、どこか冗談とは言い切れない響きがあった。

「ただのお伽話だろ」

 月映が黒い髪を片手でさらりと掻き上げ、少し呆れたように言う。



 里に現れた少女、澄琉耶すりゅうやは肩で切り揃えた真っ直ぐな黒髪を少し乱暴に櫛で梳かしながら、息を吐いた。

 ここまで辿り着くのに、とても大変な思いをしたからだ。

 澄琉耶は、祖母から譲り受けた特別な木札を持っていた。それは、祖母が生まれ育ったという、この土地に関わるものだ。この木札は里で作られ、王族がこの里で作られた薬を受け取るために管理しているはずなのだが、どういうわけか祖母が所持していた。祖母は少し怠慢なところがあったので、おそらく返すべきときに返しそびれて、そのままになってしまったのだろうと思う。もしくは、予備があったのかもしれない。

 ただの好奇心で、こんなところまで来てしまった。唯一の家族だった祖母が亡くなり、少し自暴自棄になったのもあるのかもしれない。

 何もかもが偶然だった。効果は薄れていたものの、この里で作られた薬がまだ手元にあったのも。木札のことを調べるうちに、この土地のことを知ったのも。いや、これらは祖母の遺産なのだから、偶然とも言えないのかもしれない。

 とにかくせっかく辿り着いたのだから、すぐにまたここを出ていくつもりはなかった。それだけ、苦労したのだから。


 ここが、どこか変わった里であるのは確かだ。祖母の話してくれた様々なことが思い起こされる。それに加えて、ただならぬ気配をまとった三つ子と、里人の言葉の端々からうかがえる異様なほど大切にされているふたりの子供の存在。

 澄琉耶は木札を握りしめたまま、そっと目を閉じ、心の奥で決意を固める。胸の奥で、期待と不安が絡み合うように微かに震えた。まだ何も分からない――けれど、知りたい。ここで、自分は何を見つけられるのか。


 そのとき、遠くから子供たちの笑い声がかすかに部屋まで届き、そこに誰かの明るい声が混ざり合った。

 澄琉耶は耳を澄ませながら、里にいる人々の生活の気配をそっと感じ取る。この場所が自分にとって親しみを持てる場所になればいいのに、そう胸の片隅で願った。


 陽が傾き、だいぶ部屋が暗くなってきた頃、扉の向こうからそっと声がした。

「夕食を持ってきましたよ」

 盆を抱えた女性は、親しみ深い笑顔で丁寧に頭を下げた。置かれた皿から湯気がたち、美味しそうな匂いがほのかに部屋に広がる。澄琉耶は小さく会釈を返した。

 熱々の料理を口に運ぶと、慣れない場所でこわばっていた心がほぐれていくのを感じ、長旅で疲れた体もようやく力を抜くことができた。

 しばらくして、夕食を運んできてくれた女性が片付けに戻ってきて、声をかけてきた。

「残さず食べられましたか?」

「はい、とても美味しかったです」

 藤寧ふじねと名乗ったその女性は、穏やかで親しみのある声をしていた。普段は強気で明るい性格だと自覚してはいるものの、両親を亡くして心細さを抱えていた澄琉耶にとって、母親のような優しい気配を持つ藤寧の存在はささやかな慰めになった。


 澄琉耶は再び静かになった部屋のなかで、またひとつ小さく息を吐いた。

 明日はもう少し、里の様子を見てまわろう。帰る家ももうないのだから、足取りの向くまま、祖母の故郷であるこの地でしばらく過ごしてみたい。いや、できればもっと……そんなことをうつらうつらと考える。

 夜が訪れると、澄琉耶はひんやりとした木札を手のなかで握りしめ、そのわずかな重みを感じながら眠りについた。

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