熱帯夜の隣人

階段甘栗野郎

熱帯夜の隣人

あの夏のことを、私は忘れられずにいる。


忘れようと思っても、夜になると、思い出してしまう。


東京の西のはずれ、駅から徒歩十五分ほどの住宅地に建つ、築三年のマンション。


最上階の一室に、私はひとりで暮らしていた。


三十を手前に、都心の会社に勤めながら、猫と静かに暮らす。そんな日常。


でも、その夏だけは違った。


梅雨明けが早かった年で、七月の中旬からすでに猛暑日が続いていた。


ニュースでは「異常気象」という言葉が繰り返され、熱中症の注意喚起ばかりが流れていた。


その夜も、空気がまるで飽和しているようだった。


部屋の窓を開けても、ぬるい風がカーテンをくすぐるだけで、まったく涼しくならなかった。


エアコンをつけたはずなのに、寝室の空気が妙に湿っていた。


私はベッドに横になりながら、天井をぼんやりと見つめていた。


猫のミイが、いつもなら足元に丸まって寝ているはずなのに、その夜はクローゼットの中に隠れて出てこなかった。


何かが違っていた。


部屋は静かで、外からの音もほとんど聞こえない。


だけど・・・何かが「居る」感じがする。


時計は午前二時を回っていた。


そのとき、部屋のインターホンが鳴った。


「ピンポーン」


一瞬、寝ぼけたかと思った・・・でも、鳴った。確かに。


こんな時間に誰が?


スマホで時間を確認しながら、私はリビングへ向かった。


マンションのインターホンは、モニター付きで、玄関前の映像が映る仕組みになっている。


私は画面をのぞき込んだが・・・誰もいない。


静まり返ったエントランスの映像が、ただ映っているだけだった。


誤作動かな、と思って、モニターを切ろうとしたとき——画面の隅で、何かが動いた。


ガラス扉の外。


人影のようなものが、すっと横切ったように見えた。


背筋に冷たいものが走った。


慌ててオートロックの履歴を確認したが、誰も通っていない。


共用部の監視カメラ映像も確認できるが、異常はなかった。


外の通りには、人影すら映っていなかった。


その夜は、眠れなかった。


・・・それからだ。


毎晩のように、同じ時間にインターホンが鳴るようになった。


午前二時。きっかりに。


最初の数日は、怖さよりも不気味さのほうが勝っていた。


だが、数日後、私は「音」がすることに気づいた。


玄関のドアの外、誰かが、そこに「立っている」ような気配。


ピンポンのあと、ノブが、わずかに揺れる音。


金属が「キィ」ときしむような音が、ドアの向こうから聞こえてくる。


私はドアチェーンを確認し、内側から鍵をかけたまま、息を潜めていた。


猫のミイは毎晩のように、押し入れの奥に隠れて、出てこない。


朝になっても、部屋の空気が異様に重い。


ある夜、意を決して、ドアスコープを覗いた。


・・・そこに、「顔」があった。


目の前に、男の顔があった。


黒く、濡れた髪。


見開かれた目はどこを見ているのか分からず、口は半開きで、ひどく乾いて見えた。


その顔が、ゆっくりとスコープの向こうにある私の目と、重なった。


私は叫び声を飲み込みながら、後ずさった。


それから朝まで眠る事も出来ずに、ベットの上で固まっていた。


次の日、管理会社に電話を入れ、防犯カメラの映像を確認してもらったが、何も映っていなかった。


オートロックの解除履歴も、異常なし。


「おそらく誤作動か、機械的な問題かと・・・」と担当者は言ったが、その声も信じられなかった。


このマンションの部屋まで、何かが入ってきている。


そうとしか思えなかった。


決定的だったのは、その一週間後。


その夜、私はエアコンをつけたまま、リビングでうたた寝をしていた。


うっすらと夢を見ていた気がする。


何かが、足元を這うような、冷たい感触。


目を開けると、部屋は真っ暗になっていた。


停電・・・?


スマホを手に取り、ライトをつけようとしたとき、誰かの「息遣い」が聞こえた。


すぐそこ。・・・私の顔のすぐ脇で、誰かが息をしていた。


ぞっとして体を起こした。


でも、目の前には何もいない。


ただ、空気だけが重く湿って、部屋中に「焦げたようなにおい」が漂っていた。


台所のほうから、「パチ・・・パチ・・・」という音がした。


ガスは止めてあるはず。


でも、音は続いていた。


私は恐る恐るキッチンに向かった。


真っ暗な中、冷蔵庫の上にある電子レンジの時計が「2:00」を示して、点滅していた。


そしてその横、窓ガラスに・・・男の姿が、映っていた。


外じゃない。中にいる。


鏡のようになった夜の窓に、私の背後に立つ「何か」が、映っていた。


次の瞬間、私の耳元で、声がした。


「・・・暑い、なあ・・・」


その声は、明らかにこの世のものではなかった。


その晩、私は猫を抱えて、近所のビジネスホテルに逃げ込んだ。


それから引っ越しを決め、今は別の町に住んでいる。


ミイもようやく元の元気を取り戻した。


あれが何だったのかは、結局わからない。


ただ、今でも、深夜二時になると、目が覚めてしまう。


そして、部屋の空気がじっとりと熱くなるような、あの感覚を思い出すのだ。


窓の外を見ても、誰もいない。


けれど、時々、インターホンが・・・鳴る気がする。


ピンポーン。


あの男は、まだどこかの熱帯夜に、立ち続けているのだろうか。

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熱帯夜の隣人 階段甘栗野郎 @kaidanamaguri

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