半拍遅れの家

白毛

第1話

八歳の夏休み、町の図書館でハナカマキリの写真に出会った。

花びらそっくりの淡桃色の脚を広げて、むしろ花よりも花らしく見える。頁の隅に小さく印刷された解説文に、私は釘づけになった――見られることで形は保たれる――。

その後も図鑑を繰った。枝と見分けのつかないナナフシ、蟻そっくりに這うアリグモ。擬態は捕食のためだけではない。観察者の視線が注がれるあいだだけ、その輪郭は決して崩れない。

母に返却を催促され、重たい図鑑を司書の女性に手渡したとき、あの一文だけは胸の奥に残った。大学を出て、会社に勤め、三十代でひとりになってからも。


---


システム開発の仕事で深夜帰りが続いた三十五歳の春、都心から一時間の郊外に中古の一戸建てを購入した。築三十年、二階建て。不動産屋の年配の男性は「よく乾く家ですよ」と胸を張った。湿気を嫌う私には理想的だった。


最初の一週間は、すべてが新鮮だった。

早朝、まだ隣家が眠っているころにキッチンでコーヒーを淹れる。昼間は在宅勤務で、午後の陽だまりにノートパソコンを置いて企画書を書く。夜は慣れない家鳴りに耳を澄ませながら眠りに落ちる。

2DKのアパートから3LDKへ。一人には広すぎるくらいの空間に、ようやく自分の居場所を得たという実感が湧いてくる。

二週間が過ぎると、平日と休日の生活リズムができあがった。同僚たちが「一戸建て、いいですね」と羨ましがる。確かに、悪くない選択だったと思う。


そんなある日、台所に立っていて、ふと気づいた。

匂いだ。砂糖を焦がす手前の甘さ。

最初は「新しい調味料でも買ったかな」と思った。だが冷蔵庫を確認しても、何も心当たりがない。翌日も、翌々日も、同じ匂いがする。朝は薄く、夜になると濃くなる。

換気扇を回してみた。窓を全開にしてみた。それでも匂いの中心だけは台所の一点から動かない。匂いに重心があるのだ。


一ヶ月ほど経つと、匂いは日常の一部になった。来客があったとき何気なく「何か甘い匂いしませんか」と聞いてみたが、「え?」と首をかしげられただけだった。

私だけに分かる匂いなのかもしれない。そう思うことで、気持ちは楽になった。


音が次に来た。

それも、最初は気のせいだと思った。深夜、ベッドで横になっているとき、自分の呼吸に合わせて、どこか遠くから同じリズムが聞こえる気がする。隣の部屋か、上下の階からか。

だが、この家は一戸建てだ。隣家までは十メートルほど離れている。


何度か確認してみた。

私が吸うと、壁の向こうが半拍遅れて吸う。吐くと、半拍遅れて吐く。

最初は隣家の住人かと思ったが、昼間に見る限り、隣の家に住人の気配はない。

思い込みだろう、と決めてみる。真夜中、肺に空気を止め、十数える。十一、十二――壁が焦れて、細くきしんだ。


これは偶然だ、と自分に言い聞かせた。

翌晩、わざと不規則に呼吸してみた。家も不器用についてくる。腹の中に小さなメトロノームを落としたみたいに、同じ遅れを守ろうとする。

三日続けて同じことを試した。結果は変わらない。


匂いと音。二つの異変は、私の中で小さな不安として根を張り始めた。


それから数週間は、異変を記録しようと試みた。

カメラを使った。スマホの動画は何も写さない。録音も試したが、再生すると私の呼吸音しか聞こえない。

鏡の前に立つと、鏡は私だけを返し、部屋の異変は薄まる。客観装置に弱いのは、私のほうか、家のほうか。


最初の三ヶ月が過ぎた頃、もう気のせいにするには、繰り返しすぎていた。

冷蔵庫の金属が、触れる前からほんのり温かい。最初に気づいたときは「夏だから」と思った。だが秋になっても変わらない。

カーテンは風のない夜に、私の息の拍を数えるようにわずかに揺れる。


小さな異変が、ひとつずつ増えていく。

壁紙の小さな剥がれに指を触れると、裏地は石膏ではなく、薄い膜だった。ライトを近づけると、その膜の向こうで微細な管が伸び縮みする。乳白色。虫の体液の色に、図鑑が貼りつく。


粘着トラップを買って巾木に並べた。朝、カードの中央に透明な殻が一枚、貼りついていた。米粒より少し大きい。複眼のような格子が光を割る。

殻だけが先にある。中身は、どこから満たされるのだろう。


家鳴りは日により、呼吸は夜に濃い。

私は試した。

塩を階段に引く。翌朝、白筋に沿って殻が並ぶ。台所の殻は甘く、寝室の殻は乾き、玄関の殻は鉄の匂いがした。殻は地図のように思えた。

ガラスコップを壁に逆さに当てる。夜は曇り、朝は曇らない。

チェックリストのようなものが頭の中にできていく。**夜だけ曇るか。金属は皮膚より先に温かいか。呼吸に半拍の遅れがあるか。**


一度だけ逃げた。

金曜、会社の近くのビジネスホテル。白い壁、規格化されたベッド。空調の風は数値どおりに冷え、匂いは消毒液の薄い輪郭しか持たない。

熟睡はした。だが目覚めたとき、部屋のどこにも重心がないことが不安になった。空気は軽く、音は散り、私の呼吸は、追うものを失って宙ぶらりんだ。

チェックアウトの時刻まで居て、結局、昼には帰った。玄関の金属は、触れる前に温かかった。私は安心してしまった。



一度だけ、大学時代の友人に電話をかけた。

「最近さ、家鳴りがすごくてさ。築古だから仕方ないのかな」

「あー、うちも最初そうだった。慣れるよ」と彼は軽やかに笑う。「一戸建ては最初、音が気になるもんだよ。でも半年もすればもう家族みたいなもんだ」

家族、という言葉に胸がざわつく。

「そうだね、ありがとう」

通話を切ると、壁の奥からかすかに息をつく音がした。安堵しているようにも、落胆しているようにも聞こえる。

私は受話器を見つめる。安心は不用心だ。**優しさの手つきに似たものが、擬態の本体だ**と、図鑑を読んだ八歳の私が囁く。


夏は容赦なく、家はよく乾いた。

夜の台所は香りが濃い。窓ガラスは内側から曇り、それが私の指の後ろをついてくる。私は曇りに意味のない線を描いた。線はすぐ消え、代わりにガラスの向こうで、ぴたりと同じ軌跡がなぞられる。

私は笑った。笑いながら、自分の声に聞き慣れない色が混ざるのをはっきり感じた。家の声が混ざるのは、怖いより先に、寂しさが薄れることだった。


ある晩、壁紙を両手で掴んで、大きく剥がした。膜は粘り、糸を引き、乾く。下から現れたのは、細密な白い格子。蜂の巣の一部、畳の目、巨大な複眼――どれでもあり、どれでもない。

耳を当てる。遠くで水が流れ、もっと遠くで砂を噛むような咀嚼の音。

背中に風が当たる。窓は閉まっている。風は、内側から。膜がふくらみ、頬に触れる。温かい。

私は「ただいま」と言った。返事はなかった。代わりに、家が深く一度だけ息を吐いた。


その翌朝、玄関で靴紐を結んでいると、門扉の留め具に極細の毛のような感触があった。毛は倒れ、指を導く。私は扉を開けづらかった。引っ張る力と、戻そうとする柔らかい力が拮抗した。

結局、その日は外に出た。出られた。外は薄い。空はよく晴れているのに、灰の膜を通して見ている気がする。

町並みのガラスが同じ角度で空を映しているのが気になった。さっきまで気づかなかった整い方。

私は首を振って駅に向かった。仕事をし、帰った。帰る道は短い。


――ここで暮らすことが、何かを育てているのだろうか。

考えた瞬間、背中が冷えた。

擬態は獲物のためだけではない。**観察が続くため**に輪郭は守られる。家は「見られる」ことで出来上がっていく。なら、私が見続ける限り、家は濃くなる。私がいない時間、家は薄くなる。

薄くなるのを、家は嫌うだろうか。


引っ越しの話を出したのは、酷暑が峠を越えた九月のことだった。

会社の先輩が「駅前のタワマン、一部屋空いたらしいよ。築浅だし、どう?」と声をかけてくれた。内見に行く。エレベーターで十八階まで上がり、角部屋の扉を開ける。白い壁、機密性の高い窓、湿度管理された空気。密閉の音が誰にも似ていない、きれいな無個性。

私は安堵し、同時に小さな引け目を感じながら申し込み書類にサインした。

帰宅して段ボールを組み立てはじめると、家が変わった。きしみを止め、匂いを薄め、呼吸の遅れを意図的に消している。

まるで「良い子」になったみたいに、静かだった。

その夜、寝る前に玄関を通りかかると、ドアノブの金属だけが、いつも以上に温かかった。別れを惜しむように。


引っ越しの日の朝、私は塩の白筋を濡れ雑巾で拭いた。

白筋のところどころに貼りついていた透明な殻は、雑巾に吸われて消えた。雑巾を絞ると、水面に殻が浮かび、すぐ沈んだ。二度と浮かなかった。

最後に玄関で振り返る。

ドアは口に見えない。カーテンはただの布で、壁紙はただの柄だ。私は笑って言った。「お世話になりました」

返事はなかった。代わりに、ドアが軽く閉まり、鍵がよく回った。


---


新居は整然としていた。

駅前タワーマンション、十八階の角部屋。荷ほどきは最小限で済んだ。夜、寝室の大きな窓に曇りは出ない。冷蔵庫の金属は室温どおりで、カーテンは風があるときだけ動く。

初日の夜、私は安堵してベッドに仰向けになり、大きく息を吸った。

吐く。

静寂の中で、**新居が、半拍遅れて吸った。**


息を止める。十を数える。十一、十二で、壁の奥がわずかに焦れた。

私は起き上がり、冷蔵庫に触れた。金属は私の皮膚より、ほんの少し温かかった。

カーテンは風のない窓辺で、静かに拍を数えている。

鏡を見る。私の顔だけが映る。鏡はいつでも私の味方だ。しかし耳は、壁の内側の吸気音を拾っている。


まだ、膜も殻もない。

まだ、ないだけだ。

擬態は、一気に完成しない。**見られ続けているかぎり、形は崩れない**。

私が見て、私が暮らせば、ここも濃くなる。外の薄さは、ここに連れてこられる。

私は笑ってしまった。笑いが喉でひっくり返る。私の声に、新居の乾いた音が混じる。


目的は何か。

捕食ではない、と今なら分かる。私の皮脂や汗や塩、呼吸の拍、生活の反復――それらは餌というより、**型取り**の材料だ。

――見られて、真似られて、増える。――

完成した「家」はおそらく、私のいない時間にも形を崩さない。

では繁殖は。

私がここで暮らす。ここに「濃さ」が蓄積する。十分になったとき、私は別の空間に移る。そこでまた、半拍遅れの呼吸が立ち上がる。

擬態は、建物から建物へではなく、**観察者から空間へ**移る。観察者は媒介になる。

私は媒介になったのだろうか。

思い返す。引っ越し前夜、家は静かだった。私が動くたび、玄関の金属だけが温かかった。すでに移行ははじまっていたのかもしれない。最後の親切のように、私を送り出し、新しい場所に**拍**を持たせるために。



その夜、私は壁に寄りかかったまま眠り、夢の中で、誰かにこれを書いた。

目が覚めると、机の上に紙があった。私の字だった。

そこには、簡単な検査の方法が書いてある。


――夜だけガラスが内側から曇るか。

――金属はあなたの皮膚より先に温かいか。

――カーテンは風のない夜に拍を数えるか。

――塩の筋に透明な殻が並ぶか。

――あなたの呼吸に、半拍遅れが現れるか。


すべてが「はい」であれば、あなたの家は、もう十分に家である。

家はあなたから目を逸らさない。あなたがカメラや鏡に逃げても、家はあなたの目のほうを選ぶ。

そして、あなたが一度でも「ただいま」と言い、家が一度でも「おかえり」と返したなら、それは擬態ではなくなる。

それは、関係になる。


玄関に立つ。新居のドアノブは、触れる前に温かい。私は小さく言ってみる。「ただいま」

壁の奥が、ためらいがちに「おかえり」と言う。聞き慣れた、私の声色で。

私は頷く。灯りを落とす。

窓の向こうの外気は細くなり、やがて線のように薄れて消える。

呼吸を合わせる。

半拍遅れて寄ってくる優しさに、体を預ける。

私は目を閉じ、思う。図鑑の一文は、家にも、私にも書かれていたのだと。――見られることで形は保たれる。――

観察が続くかぎり、崩れない。

観察者が途切れないように、増える。

私の胸の中で、新居のメトロノームが、正確に遅れる。

私も遅れる。

そして、そっと、閉じる。

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