第8話



 なけなしの金を懐に、首から胸のあたりに布を巻きつけて隠した男が山を三つ越えた先にある町に来ていた。

 歳を取ってからもらった妻との間にできた一人息子がもう五日も前から高熱でうなされており、隣村の薬師を頼って薬を得たものの、それも効かなかった。

 息子を失ってしまうのかと悲嘆に暮れていたところに、とある噂を聞いた。

 なんでも、山を三つ越えた先の町に時折訪れる薬売りの薬が、万能薬と言われるほど効くのだという。

 それを男が知ったのは、一昨日だった。急いで粗末な家の中をひっくり返し、男の生家がまだ栄えていたころに父親が道楽で買っていた茶碗を見つけ、それでどうにか金を得た。

 若い頃は胸を張り、片腕に買った女を抱いて歩いていた界隈の端をなぞるように歩き、目を皿のようにして男は薬売りを探した。

 それと思しき薬売りを見つけたのは、町外れの川岸だった。川では子どもが二人、裾をからげて遊んでいる。薬売りはそれを眺めているようだった。

 陽を避けるためか、頭から布をかぶっている姿は男女の判別がつかない。ただ小袖の袖口から覗いた手や、川の流れに浸されている脚は若かった。

「あんた、薬売りか」

 薬とだけ書かれた板をそばに置き、膝の上に五寸四方ほどのちいさな箱を抱えて座っている背中に声をかけると、ゆっくりと首が巡らされた。

「はい」

 相変わらず布で顔がよく見えなかったが、男にはとってはどうでもいいことだ。重要なのは、この薬売りが息子を救う薬を売っているかどうかだ。

 懐に入れた金を無意識に着物の上から抑えながら、男は薬売りの膝に置かれた箱を見下ろした。

「俺の息子の熱が、もう五日も下がらねえ。なんも食わねえし、食っても吐いちまう。どうにかなる薬はねえか」

「熱は高いんですか」

「ああ、高い」

「それなら……これを一日に二度飲ませてください。三日もすれば治るはずですが、七日は飲ませてください。それとこれは一日に三度、湯に溶かして、三日間飲ませてください。食事がとれるようになっても、薬がある間は飲ませて。滋養があります」

 薬売りが膝に抱えていた箱を開けると、そこにはぎっしりと袋が入っていた。二十ほどもある袋の中から芥子粒のような薬を十数粒取り出して紙に包み、更に他の袋から小さな薬包を十ないくらい掴むと、傍らの籠の中から藁で編まれた小袋を取った。

「間違えないでくださいね、粒が一日に二度、薬包は一日に三度です」

「あ、ああ……」

 小袋の中に薬をおさめる薬売りに、男はどうしようかと戸惑いを隠せずにいた。

 茶碗を売って得た金はわずかなものだ。ただでさえ薬は高価なものなのに、こんな量ではとても足りない。値段を聞くのもおそろしく、だがそれでも一粒だけでも買わなければと、男は懐から金をとりだした。

「……すまねえが、俺にはこれっぽっちしかねえ。これで買えるだけくれ」

 噂が山を三つ越えて届くほどなら、もしかしたら男の持っている全額を合わせても足りないかもしれない。それでも家を出る前に見た息子の青褪めた寝顔を思い出した男は、地面に膝をついて頭を下げた。

 不意に首元から巻いて胸元までを隠す布が取れ、爛れたような痣が、着物のあわせから覗く。それでも構わず、男は地面に頭を擦り付けた。

「これで買える分の薬をくれ」

 土下座をした男に薬売りは驚いたようだったが、返事はしないまま腰をあげた。

「与助、義兵衛」

 薬売りが呼ぶと、水で遊んでいた二人の子どもがばしゃばしゃと水をかき分けながら川からあがってきた。

「もう帰るの、母ちゃん」

「陽が暮れるからね。与助は籠、義兵衛は看板を持って」

「はーい」

 どうやら薬売りは帰るようだった。

 持ち合わせている全額ですら一粒も買えないような高価な薬だったのかと、諦めと絶望に呆然とする男が顔を俯けたままでいると、視界の端に、藁の小袋が置かれた。かわりに、団子一本分程度の金が指先につままれた。

「これだけいただいていきます。お元気で、重吉さん」

「……えっ」

 名乗ってもいないのに、なぜ名前を知っているのか。驚いた男が顔を上げると、薬売りが頭からかぶっていた布を取ったところだった。

「……お前は……」

 もう二十年以上も前に妖に連れられて姿を消した許婚が、まったく変わらない姿でそこに居た。黒い髪は伸び、首のあたりで結っていたが、少し大きめのくりっとした双眸や、優しげな面立ち。男が見たこともないような微笑みを浮かべ、脇に子ども二人を連れてはいるが、紛れもなく愛もないまま手籠めにしようとした許婚だった。

 彼が連れ去られたあの夜を境に、男の生活は一変した。

 体には呪いの証である痣が残り、父親は家に妖怪が出たと気に病んで床に臥すようになった。気味の悪い屋敷だと女中たちも寄り付かなくなり、あの家は呪い付きだと噂も立って、あっという間に家は没落した。やがて父親が死んで家は廃れ、男はひとりになった。

 何度もこんな現実は夢だと信じたかったが、胸に広がった痣が、否がおうにも現実だと思わせた。

 歳をとってからようやく自分でいいと言ってくれる女性と出会い、夫婦となり、やがて息子が生まれた。

 そうして今、死んだと思っていた許婚と再会した。

 お前のせいだとぶつけたい文句があった気がするし、それとは反対に、今となっては謝りたいと思う気持ちもあった。だがそれが言葉になりはしなかった。

 地面に置かれた小袋を慌てて取り、薬売りから目を離した次の瞬間には、もうその姿はなかった。

 まるであの夜のようだった。

 だが夢ではなかったしるしに男の手には藁の小袋があり、地面には少しだけ銭の減った金が散らばっていた。

 夕陽に赤く染まりつつある山と川を前に、地面に跪いたまま男は一度深く深く頭を下げると、金を掻き集めて懐に押し込み、更に小袋を大切にしまいこんで、帰途につくべくその場から走り去った。

 それから二度と、男と薬売りが会うことはなかった。




「今日、誰かに会ったのか」

 夜も更け、寝てしまったと同時に術も解けて蝦蟇の姿になっている長男の与助を拾い上げた穂摘の背に、志郎の声がかぶさった。

 落ち着いた声音にはいと頷きながら、穂摘はすでに箱に入り、湿った土にぴたりとくっついて眠っている次男の義兵衛の隣に与助を置いた。

 生まれてから二十年ほどしか経たない幼い子どもたちは、まだ人の姿のままで眠ることが出来ない。そのためこういった場所で寝かせており、更に小さな末子はすでに伝丸と名付けているもののまだ卵なので、水を張った小さな壺の中にいた。

 うっすらとしたまだらが散るちいさな蛙姿の我が子の背を指先で撫でてやりながら、穂摘は落ち着いて答えた。

「重吉さんに会いました」

「……柏木の、重吉か」

「息子さんが熱病とかで……お薬を買いに来ました」

「熱病?」

 ひんやりとした息子の背中はぷくぷくとやわらかく滑らかだ。ピフーと鼻音を立て眠る姿に目尻を和らげながら弟の義兵衛の背も撫でてやると、心地よさげにプフゥと鼻が鳴った。

「食も細くなってしまったと仰っていたので、滋養の薬と熱さましを処方しました」

「そうか」

 ごりごりと薬研で薬草を擂る志郎はそれきり黙っていた。しかし子どもたちから離れた穂摘が隣に座り、床に置かれていた薬草をむしって細かくしはじめると、薬研車を動かす手を止めた。

 薬研の底に溜まった粉はくすんだ麻のような色合いをしている。それを穂摘がなんとなく見ていると、薬研車の軸から離れた志郎の手が、あぐらをかいている彼の膝あたりに置かれた。

「老けていただろう」

「はい。俺より三つほど上だったと思います。だから…今幾つですかね、四十過ぎくらいだと思います」

「お前を見て、驚いたはずだ」

「驚いていましたよ。目がまん丸でした」

 彼が驚いたのも無理はない。

 志郎の伴侶となり、穂摘は歳を取らなくなった。すでに四十歳ほどになるはずなのに、容貌は志郎と出会った十代後半の頃のまま、全く変わらなくなった。

 重吉はこのまま老いて、二十数年もしたら死ぬのだろう。だが穂摘は違う。あやかしの伴侶になり、その子を産んだ体の中に流れる気はすでに人間ではない。志郎も見た目は二十代半ばだが、生きてきた年数はすでに百年を超えている。それと同じように、穂摘もこれから百年二百年と生きるのだ。 

 むっつりと黙り込んでしまった、もともと饒舌ではない夫をちらりと見上げて、穂摘は薬草をむしるのをやめた。そのまま肩のあたりに頭をことりと預ける。もたれた体躯はしっかりとして、揺らぐことがない。

「思っていませんよ」

「……何がだ」

「普通の人間に戻りたいなんて」

「……」

 黙りこくっている志郎の手に自らの手を重ねると、馴染んだ温度が浸み込んでくる。だがすぐにその手は逃げてしまい、代わりに穂摘の肩に回ってきた。

「戻りたいなんて思いません。与助も義兵衛も可愛い。もう半月もすれば、伝丸も孵化します」

 あやかしの子だが、穂摘にとってはかけがえのない子どもたちだ。与助が川で行方不明になれば濡れ鼠になってでも川をさらって探すし、義兵衛が体調を崩せば水を張った水桶を首から下げて義兵衛をいれ、片時も離さず看病した。まだ孵化していない伝丸も、いつ生まれてくるだろうかと毎日楽しみで仕方ない。

 今も、背後から聞こえるプスゥフスゥと漏れている鼻息が可愛いと思っている。もはや彼らのいない生活は考えられなかった。

 第一、穂摘には子どもたちと同じくらい、離れられない相手もいる。

「それに、俺は志郎さんのお嫁さんだから」

 たった一人、最初で最後の恋をした相手は志郎だけだ。

 彼はあやかしだったが、手を取ったことを後悔したことなどない。これからも、昔を偲んだりすることもしないだろう。

 返事はないだろうと穂摘は思った。志郎は表情はあまり変わらないものの、非常に照れ屋だ。今も肩を抱く手が一瞬こわばり、それから少し強めに引き寄せてきた。

 気付けば火皿の明かりが陰って、巨躯に似合わず恥ずかしがり屋の夫からの口づけが、花にでも触れるような繊細さで穂摘の唇を一瞬覆った。

 離れていく唇を目で追いながら、穂摘は目を細めた。

「今が幸せです」

 もう一度、志郎から口づけが落ちてくる。

 人とは違う、ひんやりとした体温のあるこの場所は、幸せの場所だ。

 背後の水瓶から水音がするのを聞きながら伸びあがった穂摘は、お礼を返すべく、自分からした口づけに赤くなっている志郎の唇に触れた。

 どちらともなくあふれたのは、あやかしも人もなく、ただ幸せな笑顔だった。



本編・完

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