3 神様に
吸い込まれるように木々の間を抜けると、そこは霧に沈んだ広い場所であることがわかった。夜空を見上げることはできるが、異様にけぶった先に星々のきらめきが微かに見える程度。先程までの暑さがウソのように肌寒く、足元は一面、白い花に埋め尽くされた花畑であった。
「森の奥に、こんな場所があるなんて……」
後方にいた
「うお! どうした」
「寒いから、ちょっと、こうしてよう」
「いや、大して変わんないだろ」率直な意見を述べるも、どこか恥じらいと弱々しさのにじむ幼なじみの顔を見て、気が変わる。「……まぁ、いいけど」
どうして、
知らない場所――だだっ広く、どこか寂しい空間で、きっと俺たち以外に誰もいないこの状況が、俺の意識を狂わせてしまっているような気がした。吊り橋効果ってやつ? ちょっと違うか。何か神様のイタズラにもてあそばれているような感覚だ。
特に言葉が見つからないまま、草花を踏みしめて霧の中を歩く。たまに
そろそろ、帰らなければならない時間だろうか。
腕時計を見る。霧のせいか、アナログ時計のガラス面に無数の水滴が付着し時間が読めない。
「……」
もう、帰らなければならないだろうか。
まだ、帰らなくてもいいだろうか。
俺は、もっとここで、ここでしかできない会話がしたい。
マズいのはわかっているけど……と考えてしまう。
鼓動が大きくなる。
今ここで、自分の胸の内を伝えるべきだと、
謎の覚悟が体を突き動かそうとしていた。
俺は、幼なじみを前にした時の照れくささの正体を知っていた。
「長い付き合いだから、今更そんな気持ちがわくはずない」と今まで否定していた感情が、日常と隔絶された不思議な場所で――常識やしがらみから解き放たれた環境で、それが心の底に封じ込められた本心であることを思い出させるように――首をもたげ、奮い立ち、「今だ」と声を上げていた。
歩みを止める。
見慣れた顔がこちらを見上げる。
俺の言葉を、次の行動を、待つように。
期待しているかのように――
俺たちは今、
お互いの本音を分かり合っているような気がした。
どうしてか、説明する言葉は見つからない。
きっと、見つける必要がない。
そういうものなのだ。
そう、わかる。
わかってしまった。
だから。
もう、伝える。
そう決めた。
「ヒマ……」
「ゲット……」
向かい合い、
後は、喉から出てくるままに、言うだけだ。
「俺、お前のこと――」
「ふん♪ ふん♪ ふふ、ふーん♪」
不意に、陽気な鼻歌が響いた。
いや、雰囲気ぶち壊し!
そんな文句を言う余裕もない。
誰かいるのか。見ていたのか! 聞いていたのか!?
いつから、どこから、どうやって……!
今度は焦りと緊張によってドキドキしながら、慌てて視界を巡らせる。
と、霧の中に人影を見つけた。
その人物は、草をする音を立てながらゆっくりこちらへ向かってくる。
「ウブよのう、お二人さん」
高みの見物に興じていた風な言葉と共に姿を現したのは、小学生みたいな身長の、真っ白な長髪をなびかせた少女であった。
「わらわはの、恋する乙女が、大好きじゃ」
陶器のように白い顔が、白い歯をのぞかせて屈託なく笑う。
「……」
「……」
どこからツッコめばよいのだろう。
服装は着物を思わせるデザインだが、色彩鮮やかで、荘厳な雰囲気よりも可愛らしい印象を与えている。足首までのはかまの先からのぞく足は、足袋とわらじを履いていた。長い振り袖からはやはり白くて小さい手が。
見た目は、どこから見ても幼い子供である。しかし年寄りぶった言葉遣いとコスプレ色の強い出で立ち、なにより「この時間にこの場所にいる」という事実が、ただならぬ気配を中学生に感じさせた。
「あなた、どうしたの?」切り出したのは
この状況に似つかわしくないながら、弟のいる女子の強みか、面倒見の良いお姉さんらしい言葉を滑らかに紡いだ。
まぁ、聞くとしたらそんなとこだよな。この時間のこんな場所にこの外見の子がいれば、迷子ぐらいしか……。親御さんと夜の冒険にでも来て、花畑を見つけてはしゃいではぐれてしまったとか、そんなところか。
「そんな訳なかろう」
少女は俺の感情まで読んだかのように決定的な否定を繰り出す。子供扱いが気に入らなかったのか、しかめっ面になっていた。
悪態の追撃を予感させる態度とは裏腹に、彼女は「コホン」とせき払いすると、その場で腰に手をあてがい、胸を張って見せる。
堂々と、その正体が発表された。
「わらわは、この森に住まう神じゃ」
「……」
「……」
「……」
「……は?」
かみ。カミ。神。紙?
ふむ……。
幾らか返答のレパートリーを精査した後、
「ふざけてんのか?」
発言と同時にドン! と土が爆ぜ、草と白い花弁、そして何かが目の前を横切った。
「うお……!?」とっさに身を引く。地面には、帯状の何かが飛び出したような一筋の裂け目ができていた。今、何が起こった? 一体、何をされたのだ。この景色だけでは鼻先をかすめた物体の正体はわからない。
恐るおそる謎の女児へ視線を戻した時、相手は待っていたみたいにニッコリ笑顔で男の視線を出迎えた。
「ふざけてなどいない。神への不敬は許さんぞ」断言に忠告まで足される。
中指を立てないでください。
「ゲット、あんまり怒らせない方がいいよ」傍らからも
最初に失礼なことを言ったのはお前だけどな……という意見は飲み込んでやろう。
「わらわのことがわかったところで」自称神が話し始めた。「わらべよ。おぬしらは、ここへ何をしに来たのだ。ここは我が聖域と知っての侵入か」
「いいえ!」
お前、やけに順応性が高いではないか。慌ただしい幼なじみの仕草には首を傾げたくなるが、先刻体験した謎の力への警戒もあり、
神が「はん」と鼻を鳴らす。「迷い込んだ、か。ここへ侵入した愚か者は皆、そう言っていたよ」
「ウソじゃないんです! お願いです、信じてください」女子は手を合わせて懇願した。
どうしてそうも必死なのかはわからないが、
「神様。無礼を働き、大変失礼しました。俺は、
俺たちは、通ってる学校の行事で近くにキャンプに来ていて、今は自由行動の時間だったから、探検していただけなんです」
助け船を出してやる。丸め込むのは得意だ。
「神様のことを何も知らず、聖域に入ってしまったことは本当に申し訳なく思っています。二度と入ったりなんかしません。だから、どうかお許しください。
それと……実は、俺たち、もうすぐ戻らないといけなくて。今度、お供え物でも何でも用意します。今は、帰らせてもらえないでしょうか」
と、神は子供が大人を真似るように、短い指をアゴにあてる。「ふん。賢しいこわっぱめ。口は達者なようだ」
少し声色を低くした相手の感情はいまいち読めない。気に入られたのか、気に障ったのか。
不敵な笑みのまま数秒を置いて、ようやく神は口を開いた。
「そうさな……反省し、二度とここを荒らさぬと誓うのであれば、返してやらんでもないぞ。片方だけ、な」
「片方、だけ?」疑問が口を衝いて出る。
「一人は、帰れないの?」
「我がハラカラを粗末に扱ったろう。かの者の恨み辛みを鎮めるためには、イケニエが必要なのじゃ」言い切るなり少女は口の端を釣り上げる。その仕草が慣れているかのように、舌なめずりした。
「イケ、ニエ……?」
ハラカラとは家族や仲間という意味だったはず。神様と言うからには、ここへ来るまでの間に木々を傷つけたり、虫も踏みつけてきたことを言っていそうだ。
あれ、これ、もしかしてマズい状況か。ひょうひょうとした振る舞いだから気軽に解放してもらえるものと思い込んでいたが、事態は想像以上に深刻らしい。
「あ、あの!」
なんだ、こんな時に。
お願いだから、余計なことは言ってくれるなよ。
「本当に神様なら、あなたは何の神様ですか? その……例えば、恋の神様とか」
いや、マジで今聞くこと!? それ!
強制退場だ。「ヒマ、ちょっと下がろうか」と肩を捕まえる。
神は再び自慢げに腕を組んだ。「人間の中には、そう呼ぶ者もいるな」
いるんだ!? 子供のなりだけど、偉いんだ。
「やっぱり、縁結びの神様なんだ!」と
この緊急時に興奮すんな。
神は。「そうじゃ。あぬしらは結ばれん。破局じゃ」
「えー! そんな!」
「お前、もういいからこっち来い!」
撃沈した夢見る少女を強引に引き寄せる。さっきまでの展開もあって気にならないでもないけど、絶対それどころじゃないんだ、今は。
「勘違いするな。わらわはあくまで守護神」語気が段々と強くなる。「生きとし生ける者すべてを守り、またそのトガを食らうもの。すべてお見通しじゃ。
悪意の有無は関係ない。反省などという人間の判断も無意味。
ただの摂理として、罪を償ってもらう」
神は指を立てて、一振り。その声に、眼に、嫌な気配が差した。
その直後、再び地面が爆ぜた。目にも止まらぬ速さで生えた物体が
「ぐぅ――!?」
不意打ちの窒息。それだけではない、骨を折らんばかりの強烈な圧迫が中学生を襲った。殺意すら感じる束縛から逃れようと、首に巻き付く物体に両手をあてる。ところが、樹皮のようなザラザラとワイシャツみたいなツルツルが混在したような表面は、引っ張っても引っかいてもビクともせず、到底自力で取り外すことはできなかった。
「ゲット! 嫌、なにこれ……やだぁ!」
彼女もそれを早々に察したようで、
「ごめんなさい! 悪いのは私なんです。私が誘っただけで、ゲットは何も悪くないの! だから、お願い。本当にお願いします! どうか、殺さないで。殺さないでぇ……!」地面に額を押し付け、決死の土下座を試みる。
声の限りに謝罪する幼なじみを前に、男子は薄れゆく意識の中で自身の無力さを痛感した。
あぁ、さっきまで良い雰囲気だったはずなのに、くそ。
そんな場違いなことが脳裏をよぎった。これは、走馬灯というやつの一種だろうか。違うかな。
と、首の圧力が緩んだ。
「うっ……ご、ほっ! ごほっ!」
首にからんだ触手が一気に外れる。
酸素を取り込もうと何度も深く息を吸う。最初の2回は完全に押し潰された気道が開かず失敗したが、3回目にしてようやく肺に空気を入れることが叶った。あぁ、空気っておいしい。自由観察のネタができたよ、くそ。
こちらの生殺与奪を握っていた忌々しい存在は、花畑を切り裂いて生えていた。全体が真っ白で先端が細いそれは何かの尾のようにも見えるが……正体は判然としない。ただわかるのは、尚も侵入者をイカクするように周囲をうねっているということ。先ほどそれを触った手に、はがれた皮のような透明な薄膜が幾つも付着していること。この感じ、どこかで……。
「ゲット! 大丈夫!?」
「ああ。まぁ、落ち着け」
まずは、コイツに落ち着いてもらおう。
死にかけたと言うのに、思考は不思議なほど冷静だった。あるいは、死にかけたからこそ、かも知れない。
落ち着いて、生きながらえる術を模索する。
膝を立て、立ち上がった。大丈夫、首を絞められただけで、体を動かすのには支障ない。
恐ろしき女児をにらむ。
いつの間にか無数の触手を背後に従えた神は、自身もまた触手に腰掛けて上昇し、魔王じみた笑みを浮かべて獲物を見下ろしていた。
おっかねえ。けど、恐ろし過ぎて、逆に面白いかもな。
ドキドキする。どの類いの興奮なのかは、もうわからない。
アンタが神様なのはわかったよ。
けど、アンタ、詰めが甘いぜ。
首を絞められた時はヤバいと思ったが、
そんなことで、俺は諦めない。
ここからは本気だ。
普段は大人しくしてるだけで、
大人を丸め込むのと、
目上の奴を出し抜くの、
好きなんだよね。
幼なじみの手を、強く握る。
一瞬だけ神から視線を逸らし、目配せする。
――逃げるぞ。
こちらが行動を起こすのを予感していたのか、
頼れる少女こちらへ視線だけくれていた。
せー、の!
息を合わせて振り返り、来た道を一目散に走る――
「え?」
はずだった。2人は立ち止まる。
ない。
道がない。
ここまで歩いてきたはずの開けた道が、影も形もなくなり、うっそうと生いしげる緑に覆われていた。
これも神の力か? マジでゲームみたいだ。
が、迷っている暇はない。
こっちだって、常識なんかとうに捨てている。
「こっちだ!」
逃げ切る希望は、まだある!
「ほっほっほ」女児の声が、老人じみた口振りで問う。「わらわから逃げようと言うのか」
彼女の意思に呼応するかのように、地面がせり上がる。
月明かりでおぼろげながら視認できる空間に、木々の根が首をもたげるのが見えた。
周囲の雑草がガサガサと音を立てる。木の枝や幹を何かがこする音に、スズメバチよりも低く大きい羽音も。
何かが追ってきている。
大自然のすべてが、自分たちを狙っているのだ。
携帯電話を取り出す。緊急通話を――操作が間に合わない。太い根が首を狙って振るわれる。電話を手放し、
草に覆われた足元のでこぼこで何度もつまづくが、転びそうになる少女の手を必死に引っ張り、とにかく動きを止めないよう走り続けた。
ごめん、手加減できないから、腕も肩も痛いよな。けど、頑張ってくれ。俺は、生きたいんだ。お前にも、生きていてほしいんだ。
一緒に――!
「ほれほれ、わらべ、逃げ切ってみい」こちらの逃走をあざわらうかのような神の声。スピーカーか何かを使っているみたいに反響している。
後方からバキバキと激しい音。何かが押し寄せている。一瞬だけ振り返るが、駄目だ、霧が濃くなっていて姿が見えない。逃走に専念しよう。
迷いを見抜いたみたいに、にわかに森そのものによる妨害の勢いが増した。
真っ白な尾が横なぎに足元を通った。
強引に引っ張られた肩が痛いのだろう、
カラカラと音が迫る。
イカク音だと直観した。
ある生物が尾を震わせて鳴らす音だ。
記憶がよみがえる。
夏の炎天下で干からびていた死体。不思議な手触り。
それを解体している時に、手にたくさん付いた、
砂、土、体液、そして、透明なウロコ。
神の言った「粗末に扱われたハラカラ」とは、まさか――
俺たちを襲う、神の正体は――
俺は巻き込まれたのではない。
俺が、巻き込んだのだ。
気づいたところでもう遅い。確認しようもない。
罪悪感と共に、「ヒマを守らなければ」という使命感が湧く。
後でいくらでも謝る。なんでもおごる。ぶたれたっていい。
ぜんぶ忘れて、生きて、これからも色んなことをたくさんしよう。
だから、今はただ、
走れ。走れ! 走れぇ!
暗闇から枝とは異なる細長い物体が。腕を前に構えて突進する。手応えも硬くはなく、払うことができた。なんだ、こんなものか――安心も束の間、物体の根元へ視線をやると、ぎょっとした。人間の大人よりも大きなクモが、一つひとつが自分たちの顔ぐらいある複眼でこちらをにらんでいる。一本いっぽんが数メートルはあろう多足を音もなく動かして、柔らかな体躯を揺らしながら木々の間を駆け抜けていた。走りながら周囲をうかがえば、同様に並走するクモに、自分たちをあっさりと抜き去り先回りするクモも。「ぎゃあ!」後ろで
ちくしょう。ちくしょう!
こんな場所から、絶対に逃げてやる!
草木をかき分け、攻撃をかわし、
段差を踏み越え壁を乗り越え、
泣いては駆け、跳び、登り、
叫んで殴り、払い、蹴り、
やがて前方木々の間に、
青白い月夜空――外。
木も地面もない。
すなわち、
崖。
高さはわからない。
死ぬかも知れない。
でも行くしかない!
異形の足音と羽音、そして殺意を背中に浴びながら、
「ゲットおおぉ!!」
「ヒマああぁ――!!」
全力で地面を蹴り、2人揃って空中に身を投げた。
神様、一生のお願いだ。
もう悪いことは絶対にしない。
だから……!
宙をただ落ちる風と音に包まれて、
この世で最も大切な人を胸に抱いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます