2 森の中

 時の流れは早いもので、キャンプ2日目。乗り心地最低のバス移動に始まった1日目の疲れも抜け切らないまま2日目の調査とコテージでの入浴、課題発表を終えた中学生集団は、一部の人間が待ちに待った自由観察の時間に突入する。

 ただ、多くの生徒は教師の解散号令が出ても動きが緩慢で、その場で発見できる雑草に腰を下ろしたり無言で夜空を見上げたりとしばし留まっていた。2日間の調査で歩き倒し、キャンプ定番の飯ごうカレー作りやキャンプファイヤー設営その他ちょくちょく暴風雨に見舞われる災難まで重なった末、手頃なネタで済まそうという魂胆ダダ漏れの消極的キッズに成り果ててしまったのだ。


 露草つゆくさ 月桃げっとうも例に漏れず、血液型O型の宿命として無数の蚊に刺された腕とすねをこすりながら適当に虫の少なそうで目立たなそうな場所で休もうと企てていた。自由観察のレポートには「空気がおいしい」ぐらいのことを書いておけばいいだろう。設定された最低文字数の制限も予想より少なかったため問題ない。万全だ。

 「老害どもに現代人の象徴と言われそうだな」と自画自賛だけ忘れずして、悠然とした足取りでベンチへ向かう。ここは避暑地と呼ばれているそうだが、昨日も今日も熱帯夜である。足首も痛い。いち早く休憩したかった。


 ところが、少年の切望はいとも簡単に砕かれる。背中から音もなく忍び寄ったハンターに腕を抱かれた。刹那、相手は脱出不可能なホールドをしたまま駆け出す。

「え、ちょっと。おい!」露草つゆくさは反抗したのは口だけで、密着状態で引っ張られるままハンター朝顔あさがお 向日葵ひまわりに付いていくことしかできなかった。


 疲労困ぱいの男子がようやく解放されたのは、山道まで誘拐されてからのこと。

「お前、何すんだよ」露草つゆくさはこの短時間だけで流れた汗を片手で拭う。「危ないだろ」

 こちらの文句を受けた誘拐犯兼同級生は、だが臆面なき顔で周囲を見回していた。人影がないことを確認してから、やっとクラスメートへ顔を向ける。「別にゲットはあの程度で転んだりしないでしょう、運動部なんだし」


「いや、そういう問題じゃ――」

 たしかに俺はソフトテニス部で、普段から走り込みで足腰を鍛えている。朝顔あさがおも陸上部であり、季節柄日焼けした脚は決して華奢ではなかった。無論、「だから何をしてもいい」ということではないが、露草つゆくさは真面目に反論しても意味がない相手であることを察する。

 用件を聞くことにした。

「まぁいい。何の用?」


 すると相手は「えー」とこぼすなり頬を膨らませる。

「何よ、何の用って。忘れたの? 肝試しするんでしょう」

「……あぁ、そうだっけ」

「そうよ!」


 そのような会話があった気もする。その後、朝顔あさがお側からその話題を振られないまま時間が空いて、すっかり忘れていた。自然消滅してくれたら最高だったのに。

 膨れっ面のまま朝顔あさがおは腕を組んだ。「アンタが他の人とくっ付く前に捕まえて連れ出さないとって狙ってたの」

「いや、普通に声を掛けて連れ出せよ」

「普通に声掛けたら『面倒だから嫌だ』とか言って動かないでしょう!」

 それはそうだが、詰めが甘かったな。

「今から戻ることもできるが」

 俺はきびすを返す。


 と、

「何よ、逃げるの!?」朝顔あさがおが腕に抱きついてきた。「昔から変わんない、臆病ゲット! ホラー映画観た後に一人でトイレ行けなかったり、『花火の音でお腹が痛い』って恐がってたこと言いふらしてやる!」

「よせ! やめろぅ! 離せぃ!」

 くそ、コイツ、切り札を出してきやがった。至近距離からぶつけられた情報はすべて事実である。呪怨じゅおんを観て暗闇から髪がのびてくる気がしたし、地元の花火の爆音が腹の奥に響くのが苦手だった。後者は「恐い」とは異なる気もするが、とにかく俺の弱点を熟知してやがる。


「じゃあ、恐がりじゃないことを証明してよ! ほら、行くよ!」

「ぐああ! くそ、くそおおぉ!」

 精神的に完全にろ獲された男は、女による迷いなきけん引から逃げ出せなかった。

 ボブカットからほのかに漂うシャンプーの香りに、「折を見て、汗臭くなる前に帰るよう提案すればいいか」と次の策を考える。


 アテがあるのかないのか朝顔あさがおは数メートル歩いたところで背の高い雑草をかき分け木々の中へ突入した。露草つゆくさは漆黒に吸収される前に、ポケットに差し込んだ旅のしおりを取り出す。寒気がするほどセンスのない表紙をめくり、タイムスケジュールと腕時計を見比べた。

 自然観察の終了時刻9時に対し、現在8時40分。集合場所である広場に余裕を持って戻れるよう8時50分ちょい前を目安に引き返すことにした。「早くー!」と高飛車な催促が迎えに来ると、誘拐被害者はため息をその場に残し、一応、懐中電灯の調子を確認してから虫の気配と熱気に満ちた真っ暗闇へ足を踏み入れる。


 幽霊などいるはずがない。初夏に誕生日を迎えた14歳の身としてわかっている。恐いものなどなにもないのだ。

 寧ろ現実に飛び交う羽虫――特に蚊こそが俺の天敵である。後、クモの巣。そして木の根などの段差。けもの道すらない緑を突き進んでいれば予期せぬ転倒をしたり、足をくじく危険がある。草で指や脚を切ることもあるだろう。いっそ、ケガでもすれば朝顔あさがおもなえて「早く戻ろう」と言い出してくれるかも知れないが……。

 たった数分の探検で見出した疑問を口にする。


「ってか、なんで俺が前なの? 言い出しっぺのお前が前を歩けよ」

「なんでよ! 男でしょ!」

「いやいや――ぷぁ! ……くそ!」

「なによ、ビックリした! 恐いの? 恐いんだ!」

「ちげーし! クモの巣だよ!」


 手近な木の枝をへし折り、クモの巣を壊しながら前進した。木の幹に枝のぶつかるパキパキという音と、草むらを踏み荒らすガサガサという音がしばらく続く。

 いつの間にか前後が入れ替わっていたが、恐らくコイツは数秒置きに(本当に、10歩も歩かぬ内に)接触するクモの巣や耳元を虫がブンブンするのに嫌気が差したのだろう。先に俺を行かせることで少しでも快適な道を進もうと言うのだ。このひきょう者!


「きゃあ!」

「うおお! なんだ!」

「ごめん、つまづいた」


 当のおさななじの上半身が背中にぶつかってきた。「心を読まれたのか!?」とヒヤヒヤしたが、大自然の天罰だったようだ。ざまあみろ。……とは言え、やはり共に過ごす時間が長い身として体は大事にしてほしいとも思ってしまう。

「気をつけろ」

「ん……アンタもね」

 ……なんか、調子が狂うな。


 うっそうと生いしげる枝葉をかき分け、ひたすら前身する。

 不思議なことに苦行に勤しんでいる間は時間の経過が遅く感じるもので、何度も腕時計を見るが森に入ってからまだ5分と経過していなかった。思っていたよりも奥まで進めてしまいそうだ。位置情報を把握している教師から「今すぐ戻れ」などと通話連絡が来たりしないかと不安が芽生える。携帯電話は……うん、現在、着信なし。バッテリーも電波も異常なし。

 残る懸念はアクシデントだ。山道の灯りはとうに届かず、気づけば夜空の星々の薄明かりも巨木で遮られていた。ここで懐中電灯の電池が切れたりしたら――それはもう、ホラー作品のご定番そのものだ。そして、そのような展開で出てくるものと言えば、


「ねえ」

「っ! ……どうした」不意に後ろから声を掛けられ心臓が飛び出そうになったが、どうにか平静を繕って返事する。

 振り返ったところで朝顔あさがおが質問した。「熊が出たりとか、しないよね」


 相手の口にした内容よりも、「恐がっていることがバレていなくて良かった」という安どが先だった。その感情すら押し殺し、哀れな男子は答える。「鹿が出るかも知れない」

「鹿って、人を襲う?」いつもと打って変わって、女子は声を潜めていた。

 なんだ、お前こそ恐いんじゃないか。露草つゆくさは不思議な安心感を抱くと共に、これまた原因不明なのだが、仲間とはぐれた小動物にも見える少女を元気づけたい気持ちに駆られた。

「さあ。トラと見間違えたら、『シカでした。』って言おうな」

「え? なに、それ」

「ん。気にするな、今のは俺が悪い」


 俺もどうかしているようだ。男子に流行りのネタは大抵、女子には通じないのに。奴らはきっと、「男子は子供っぽい」と言うためだけに、異性の間で話題になっているものを徹底的に生活から排除しているに違いない。


「ってか、お前、この辺りの動物のこととか知らないの?」

「へ。なんで、私が知ってるの?」

「いや、旅のしおりの表紙に色々描いてたじゃん。鹿とか」

 男子は旅のしおりを取り出し、懐中電灯で照らす。朝顔あさがお 向日葵ひまわりという女子は、今まさに光に暴かれた、この小学生レベルの画力で動物と制服姿の人間を所狭しと書き殴ったうるさい表紙を描いた張本人だ。

 事前にキャンプ場周辺の動植物を調べた上で描いた訳ではないのだろうか。


「ああ」朝顔あさがおは何食わぬ顔。「それは、『こういう動物いるかなー』って、想像でウサギとか描いただけで」

「お前……はぁ」

「えー! いいじゃん、別に!」


 色々と興味をもってやるのは良い。陸上部で一番になれなくても、毎朝俺より早く登校して朝練に励む真面目さと一生懸命さもある。もっと言えばコイツには下に弟がいて、面倒見が良く、料理も上手なのだから責任感のあるとても良いお姉さんだ。特に料理の腕前は俺が保証する。毎日食べたいぐらいだ。とにもかくにもコイツには多くの魅力がある。けどコイツはまた、いつも少し考えが浅い、適当な奴でもある。昔からそうだ。

 よし、そんなアホを直す絶好の機会だ。周りを見てしっかり勉強しよう。勉強する大切さを学ぼうではないか。ウサギはどこだ。鹿は。ライオンは。そもそも「こういう動物いるかなー」でよくライオンが出たな。動物園かここは。ついでに人間も見ろ。しおりには色々な奴がいたよな。虫眼鏡で植物を観察する白衣姿はあったか? ウィンクしながらフライパンでチャーハンを作る奴はどこにいた? 俺たちは当初の計画通りカレーを作ったんだよ。ハートマークをまき散らすカップルは。キャンプファイヤーの火が燃え移ってアフロヘアになった男子は。カエルを背中に入れられて白目をむいて驚く男子は。なんだこれ。キャンプの行事内のコンテンツとギリギリひも付いた絵なら多少怪しくてもOKだとしよう、それでもだ、どうしてこんな変人大集合に仕上がってしまったんだ。あと、男子にネタキャラを頼り過ぎだ。

 俺こそ何を言っているんだ。駄目だ、アホが移る。


「そう言えば、蛇に気をつけろってガイドさんが言ってたね!」

「そうだっけ?」

「話はちゃんと聞きなさいよー」

「疲れてるから仕方ない。デカいの?」

「小さいのばかりだけど、大きいのもいるかもって言ってた。天敵のイノシシやタヌキが害じゅうとしてだいぶ前に駆除されたから、長く生きる蛇が増えたんだって」

「ふーん。ここら辺りの食物連鎖の王様ってことか」

「おー、確かに。自然観察のレポートに書こう!」

「良かったな。で、その王様は、しおりには描いたの?」

「描いてない」

「はぁ……」

「知らなかったんだもーん!」


 改めて旅のしおりを見た。あぁ、くそ。表紙のウサギの隣に鶏がいるのに気づいちまった。お前、これ小学校の飼育小屋メンバーじゃん。くそ、ツッコミを入れたいところだが我慢だ我慢!

 俺は、ここで、真剣に、コイツをたたき直す!

 立ち止まり、深呼吸して、朝顔あさがおへと向き直った。


「なあ、ヒマ」低い声で、呼ぶ。

「え……」

「言いたいことがある」

「……」


 足元を向いた懐中電灯の光を受ける同級生は、空気を察してくれたようで、緊張したように目元を強張らせ、口を引き結んだ真剣な顔になる。


 お前が真面目なの、俺は好きだからさ。

 だから、もうちょいよく考えてから行動しようぜ。

 そうすりゃ、もっと色々うまくいくよ。

 な?


 と、言おうとした。

 それよりも先に、


「なに、あれ」朝顔あさがおが首を傾げ、体まで傾ける。

 俺の背中側をのぞこうと体勢を変えたのだと気づいて、露草つゆくさは振り返った。


 ヒヤリとした。

 先程まで周囲を覆っていた人間の侵入を拒むような草木と闇は間近で途絶え、その先には、青白い霧と微かな光を抱く開けた空間が広がっていた。

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