夏の公衆電話は実質誘蛾灯

緒賀けゐす

夏の公衆電話は実質誘蛾灯


 公衆電話の設置場所は、NTTのHPで調べることができる。


 土地勘のない、初めての街。

 休息とWi-Fiを求め、私はコーヒーチェーンに足を運んでいた。

 保護フィルムのヒビ割れたスマホ。

 ため息まじりに画面を眺めながら、通信量のカプチーノに口を付ける。

 友人・会社からのメッセージの羅列。

 画面に並んだ、二日分の安否確認。


「大丈夫?」

「何かあった?」

「連絡して」


 返信する気にもなれず、既読もつけずアプリを閉じる。

 それに対して、着信は一件もなかった。

 当然といえば当然だった。かかってくる電話のことごとくを、私は着信拒否設定にしていた。

 あの人だけの、例外を除いて。


 がらんとした、スマホの電話帳。

 そこに刻まれる、ただ一人の名前。

 それは男の名前だった。

 LINEにもない。

 SNSのフォローにもない。

 でも、私のスマホを“携帯電話スマホ”たらしめている人の名前。


 私は、その人と話がしたかった。

 否、話をしなければならないと思った。


 公衆電話の設置場所を示したマップをスクリーンショットし、画面を消す。

 暗転した画面、蜘蛛の巣状にヒビが走ったガラスの向こう側に映る、自分の顔と目が合った。赤く充血した目。ファンデーションでは隠しきれない、右目をぐるりと囲む青痣。赤く腫れた頬。その内側で切れた粘膜からは、今も微かに血の味が滲んでいる。


 惨めで、醜い。

 そんな顔の女だった。

 長所なんて、外見これくらいしかないのに。


 短く息を吐き、私は席を立つ。

 2025年8月31日、午後6時。


 夕暮れとなっても、外はまだ熱気を残していた。冷房の効いた店内に後ろ髪を引かれるが、これ以上、周囲の視線を無視できるほどの鈍感さは私にはない。


 出口へ向かう途中、注文を取ってくれたカウンターの若い男性店員が、何か言いたげに唇を震わせていた。私はそれを視界の端にとどめるだけで、何も言わず素通りする。結局、背後から聞こえたのは、マニュアル通りの「ありがとうございました」だった。


   #  #  #  #


 夜の街というのは、酷く輝いて見えるものだ。極端で、歪で、無造作で、混沌としていて、刺激的で扇情的な輝き。人工甘味料のような、あるいはトリックアートのような、人々を騙し、快楽で弄り尽くすための構造物集合体。不自然なそれらは、不自然ゆえに前頭葉を刺激する眩い光となり、快感と快楽を追い求める走性を人々に与える。まるで、ビール瓶の蓋に欲情するタマムシのように。あるいは、誘蛾灯に群がる羽虫のように。紛い物の誘惑に誘われ、人々は心地良い沼に、引き返せないと知らぬまま溺れていく。


 酒に、金に、性に。

 欲に、欲に、欲に。


 有り体にいえば、それはパパ活だった。

 五年前、大学進学に合わせて上京した私は眩い光にまんまと誘き寄せられ、夜の街に捕らえられた。抗う術を、当時の私は持ち合わせていなかった。愚行とすら思っていなかった。


 心を殺すのは、短い時間だけ。

 好きでもない男と同席して食事をし、笑顔を振りまく。一回り以上年上の男の手を繋ぎ、夜の街を歩く。天井を見上げて金勘定をしながら、男に体を預ける。


 生まれつき容姿だけは平均以上だったため、そうしているだけで昼間に働くのが馬鹿馬鹿しくなるほどの大金が手に入った。自分の心を蔑ろにすることで、ブランド物の服飾品や最新機種のスマホなど、欲しいものが不自由なく手に入った。気が付けばそんな世界に頭まで浸かっていた。ただ、物質的に満たされていくごとに、心の中で埋められない部分があることに気が付いた。かつてそこに何かあったのかも、私には分からなくなっていた。


 皆、同じことをしているから。

 同じことをしないと、皆と同じ世界にいられないから。

 私は、こうしないと生きていけないから。

 一年半も経つと、そんな思想が凝り固まっていた。


 途端、自分は間違っているという自己嫌悪に苛まれるようになった。かつての友人に、話をできる相手がいなくなった。親の電話に出られなくなった。やがて、電話というものが怖くて出られなくなった。電話のバイブレーションがなるだけで、動悸と過呼吸が私を襲うようになった。電話の先にいる人間が、私を責め立て、罵るのだろうとしか思えなくなった。パパ活の中で知り合ったリストカットだけの同業者にメンタルクリニックを紹介してもらった。パニック障害の一種だろうと診断され、カウンセリングの紹介をされた。薬が処方されることはなかった。紹介してくれた彼女が、かつて処方された薬をODオーバードーズしていたからだった。LINEで報告すると、薬を分けてもらう算段だったらしい彼女はメッセージで罵り、通話を掛けてきた。動悸と震える手の中、私は彼女をブロックした。


 疲れ切った私は、スマホを自宅に投げ捨てて夜の街に逃げ出した。

 季節は冬に差し掛かろうとしていた。

 本当は、ここから離れるべきなのだと頭の片隅では理解している。

 それでも誘蛾灯に誘われる羽虫のように、私はただ夜の街に飲み込まれることしかできない。たとえその後、電流を浴びて命を絶たれるのだと分かっていても。


 そうやって流れ着いた、寂れたバー。

 一人だけいた先客。

 そこで、私はその男と出会った。


「どうやらお困りのようだ。私でよければ、話を聞かせてもらえないかな」


 四十代前半あたりの、眼鏡をかけたパッとしない男だった。

 スーツを着こなし清潔感こそあるが、華やかさはお世辞にもなかった。

 ただ目元に湛えた笑い皺が、彼の人柄を感じさせた。レンズの奥に見える茶褐色の瞳が、見ているだけで吸い込まれるように錯覚した。

 あてもなく流れ着いたバーで出会った、私の人生において何の脈絡もない人。

 打算のない、突発的な人間関係。

 だから、私は話した。

 大学進学に伴い上京してきたこと。

 気がついたら夜の街に囚われ、パパ活を始めていたこと。

 後ろめたさを感じつつも、一度始めてしまった罪悪感と、物質的に満たされていく過程から得られる充足感に絡めとられてしまったこと。後ろめたさから、過去の自分を求めて連絡してくる相手に恐怖を感じるようになってしまったこと。

 その影響で、電話に出られなくなったこと。

 それが辛く苦しいから、何とかしたいこと。


「なるほど、電話か……」


 男は自身の顎に手を当てながら、しばし黙考した。

 そして自分の中で言葉をまとめたのか、柔らかな声音で語りかけてきた。


「こうして、対面で人と話すのはいいのだろう?」


 私は頷く。


「なら、公衆電話はどうだい?」


 公衆電話……?

 ただ言葉を反復する私に、男も頷きで返す。


「君がいま電話が怖いのは、両方向だからだろう? 公衆電話であれば、こちらから掛けることはあっても、向こうから掛かってくることはない。試してみる価値はあると思うけどね。あとは時間制限もある。十円で十五秒だけの、あらかじめ定められたコミュニケーション。そう思えば、心理的ハードルは下がるんじゃないかな? なんの知見もない、素人考えだけどね」


 私にも、特に根拠のない言葉だと思えた。

 でもそれが、私には救いの手に思えた。まるで、カンダタの前に降ろされた蜘蛛の糸のように。たとえそれが誘蛾灯の前に仕掛けられた蜘蛛の巣であり、そのまま捕食されるのだとしても。このまま灯に飛び込むくらいなら、誰かに喰われてしまうほうがマシだと思った。


   #  #  #  #


 それから週に一度、私は公衆電話に通うようになった。

 掛ける電話番号は、あの後男性から手渡れたメモの電話番号。

 カタカナで書かれた名前は、本名なのか偽名なのかも分からない。

 でも、それでよかった。

 タイミングはまちまちだが、基本的には週半ばの夕方。彼の仕事終わりを狙う。

 普段使わない小銭をポケットに忍ばせ、電話ボックスに入る。受話器を持ち上げ、十円玉を四枚投入し、電話番号をダイヤルする。

 彼はいつも、三回目のコール音で電話に出る。


『やぁ、調子はどうかな』


 それから私たちは、お互いの時間を確認する。

 一人三十秒、二十円ごとの報告。

 最後の言葉は、いつも決まって彼だった。


『では、続きはいつものバーで』


 そして私たちは、あの出会ったバーで落ち合い、他愛もない話の続きをする。

 彼はウイスキーのハーフアップ、私はカンパリソーダを片手に。

 毎週末、一時間の会話を楽しんだ。

 彼は自身の仕事について。

 私も電話では語り切れなかった出来事を語る。

 あるいは私の悩み事に、彼が助言を述べる。

 会計持ちはその時々で変わり、より話で満足させた方が払うことで決まっていた。だからこそ、日常の中で彼を満足させるような話がないか探しながら日々を暮らすようになった。

 その営みは、物質的豊かさに依存していた私を徐々に解放してくれた。

 日々生きていく中で、彼と話をすることが一番の楽しみになった。

 きっかけとなる、公衆電話が段々と好きになってきた。透明な箱に向かい、中でダイヤルを入力しているときは、飾らない、本当の自分でいられる気がした。やがて私は身体を売ることを辞め、バーのマスターの紹介で、信頼できる筋のキャバクラに勤めるようになった。一度汚れた身体とはいえ、これ以上汚しながら彼と話せる自信がなかった。

 そんな関係が、あっという間に四ヶ月も続いた。

 やがて支払いの他にも、私達の間には幾つかの暗黙の領海が生まれた。

 公衆電話の利用は四十円分、約六十二秒であること。

 あくまで公衆電話からの呼びかけに限り、スマホからの発信は行わないこと。


 そして――お互いに一線を引き、踏み込みすぎないこと。


 私が公衆電話で呼びかけ、彼がそれに応える。彼と出会ったバーで、彼とカウンターに並んで談笑する。より面白い話を持ってきたほうが、その日の会計を持つ。次回の予定をざっくりとだけ決め、バーを出ればそのまま解散する。

 手を振る彼の薬指で光るものについては、触れないままで――。


 彼に対し、恋愛感情はなかった。

 いや……正しく言うならば、そうならないように努めていた、となる。

 彼をキャバクラの客として誘わなかったのは、一人の女として見てほしかったからではない。客とキャバ嬢という立場でなく、同じ立場――行きつけのバーで出会う客という関係で話をしたかったからだった。自宅で一人鏡と向かい合っているときと変わらない、仮面を付けない自分で話がしたかったからだった。上京してきた私にとって、それができる唯一無二の人物だったから焦がれたのだ。だからこそ彼への感情を、敬愛や憧憬といった言葉に収めるために自分に言い聞かせていたのだ。


 ある日の、昼の街中。

 あらかじめその日は休日と聞いていたので、いつもより早いと思いながらも、私は彼に電話するためにいつもの公衆電話に向かっていた。前日キャバクラで相手した男が変な人間だったので、それについて話そうと勘案しながら私は歩いていた。

 そこで、私は見てしまった。

 彼が女性と子供と、三人で仲睦まじく歩いている姿を。

 彼に対して、憎しみや嫌悪は感じなかった。今まで目を逸らし、気付かない振りをしていたものが目の前に現れただけなのだと素直に思えた。

 元々、私のものではない人。

 それ自体は、初めて出会ったあの夜、薬指を見て理解していたはずだった。

 どれだけ優しい人であっても、恋愛感情は抱かないと決めていた。

 彼は彼岸の人であり、私が触れてはいけないのだと言い聞かせていたはずだった。

 ただ、涙が溢れて止まらなくなった。

 心の拠り所で、縋りついていた人が、私がいなくても当たり前のように幸せにしていることが悲しかった。心の均衡を量る天秤の上、彼にとっての私と、私にとっての彼では、分銅としての価値が違うのだと理解してしまった。

 咄嗟に路地裏に逃げ込み、私はそこで崩れ落ちる。

 ふと、初めて会った夜の言葉が頭に浮かぶ。


(公衆電話であれば、こちらから掛けることはあっても、向こうから掛かってくることはない)


 ああ、そういうことか。

 私の感情は、公衆電話と同じ。

 こちらからしか届けられない、一方的なものでしかなかったのだ。


   #  #  #  #


 大学の単位を留年しない程度に取りながら、週に二、三度キャバクラで働く日々が過ぎていく。メッセージは辛うじて返答できるが、それもあくまで事務的な返答のみ。SNSもキャバクラでの話題作りのために見てはいるが、自分からの投稿はしない。

 電話については、一切を着信拒否していた。

 未練がましく、一人を除いて。

 あの日から、私は公衆電話に近づくことができなくなった。

 近づくだけで、一度は埋まったかのように思えた心の穴が、どこまでも深く広がって凍てついていくような感覚を覚えるようになってしまっていた。

 彼からの電話はない。こちらが公衆電話から掛けていた以上、私の携帯の電話番号を知らないのだから当然だった。それでも時々、電話帳に登録したその電話番号を見つめている自分がいた。こちらからの電話でなく、向こうから掛けてくることを空想する自分がいた。そのたび、心の穴をこれ以上広げないために身を抱いて泣いた。

 心の穴をかさぶたが覆い隠して泣かなくなった頃、私は大学を卒業した。

 夜職からは、就活を始めるタイミングで身を引いていた。

 就職先は、職種優先で場所は問わずに決めた。

 地元にも、この街にもいられないと思ったからだった。

 だから最後にと思い、私はあのバーに足を運んだ。

 そこに、彼はいなかった。

 安心して、悲しくなった。

 会いたかったし、会いたくもなかった。

 ただマスターが私の姿を認め、変わりなく微笑みかけてくれた。

 いつものカウンターの椅子に腰掛ける。

 なんとなく、彼が飲んでいたウイスキーのトワイスアップを注文してみた。

 出されたそれを、私は風情もなく一気に流し込む。キャバクラでもっと強い酒を飲んだこともあるはずなのに、それは人生の中で最も喉を灼く熱さだった。


 帰り際、私はマスターに一枚の紙片を渡す。

 扱いについてはマスターに一任し、私はとうとう、この街から去った。


 電話恐怖症は、相変わらず治らない。

 それでもチャットやメッセージはできたのと、リモート会議のように顔の見えるかたちであれば相手の表情が見えるので余計な被害妄想が邪魔しなかった。だからこそ仕事は、電話のない在宅ワーク可能な仕事を選んでいた。

 仕事で家からあまり出ない分、週末はなるべく外出するように心掛けた。

 日中は散歩やショッピングに、夜は居酒屋での晩酌に興じた。

 なるべく人のいるところを選んだ。

 知り合いのいない集団の中での孤独が、一番安心して自分を見つめられた。

 その度に、心の穴を覆ったかさぶたの、ざらざらとした手触りを感じていた。

 その下にあったはずの傷も、自分のはずだった。

 けれどもう、それに直接触れることはできない。


 一人の夜は、考え事が巡り続けた。

 一度答えを出したはずの問いが、飽きもせずに浮かんできた。


 私が彼との距離感を意識していたのは、彼が既婚者だと知っていたからだ。

 彼の妻、そして子供に迷惑をかけないよう、それが必要だと考えたからだ。

 言い聞かせていなければ、私は彼の人生を壊していた。

 そう考えるといつも、心の中でもう一人の私が語り掛けてくる。


(キャバクラのお客さんにも、既婚者はいたと思うよ?)

(その人達の人生を壊してきたとは思わないの?)

(彼だけ、特別扱い?)


 それは……違うと思う。私はキャバクラで働く従業員であり、その関係性は客と店員だ。キャバ嬢としての私は、いつも仮面を付けていた。なるべく指名を貰えるように愛想を振りまける、そんな自分を作っていた。もし彼と出会った場所がキャバクラだったら、キャバ嬢としての私は、彼を「キャバクラに来た客」としてしか見ることができない。彼を特別視はしなかったはずだった。


(なら、彼が一人でやっていた時の客だったら?)

(彼が貴方の体を買おうとしたら、貴方はお金を受け取り、体を差し出した?)


 それも、きっと同じだろう。

 その場合の彼の目的は、私の体。

 私はただ対価を受け取り、体で返すだけ。

 私の目に映る彼は、きっと誘蛾灯に誘われた羽虫でしかないのだから。


 そうして、自問自答を繰り返す日々が続いていた頃。

 仕事で、あの街のすぐ近くに足を運ぶこととなった。

 その日はそのまま、そこで泊まることになった。


 知らないながらもどこか懐かしさを覚える街並みに哀愁を覚えながら、飲み屋街を歩く。

 近道しようと、私は狭い路地に入る。

 そこで背後から、一人の女性に呼び止められた。


 年上の、見知らぬ女だった。

 彼の妻ではない。

 キャバクラ時代の同僚でもない。

 ならば彼女は一体――。

 黙ったまま見つめるだけの私に、女は言葉を続けた。


「――という名前に覚えはある?」


 息が詰まった。

 本名ではなかった。

 キャバクラ時代の源氏名でもなかった。

 パパ活をやっていた頃の、いかにも舐め腐ったハンドルネームだった。

 私の反応で、女は自分の直観が正しいと確信したようだった。


「やっぱり、お前が……!」


 突如、女は血相を変え、私の顔面に右ストレートを打ち込んできた。

 右目に拳を受けた私は、そのまま耐え切れず地面に倒れこむ。

 女はすぐさま私の服の胸元を掴み、私の頬をもう一度殴った。


「お前がっ、お前がっ、お前がっ! 私からあの人を奪った!」


 誰かから寝取った記憶はなかった。あるとすれば、私きっかけで女遊びにはまってしまい、家庭を壊した男がいた、とかそういう話なのだろう。ならばとんだ逆恨みだ、と思った。殴打されながらも、頭だけは冷静に動く。

 何人かの顔が頭に浮かんだ。

 私をリピートした、数名の男。

 その中で、私で初めて女を買ったと話してきた男。

 それでも、一人には絞れなかった。


 痛くてしょうがないのに、乾いた笑いが漏れる。


「このっ、クソ女! 汚らわしいメス豚っ! 卑しい売春婦!」


 思っていたより、私ってクソみたいな女だったんだな。


 鞄で殴られ、ヒールで蹴られる度、心が軽くなってしまう。自分の中で溜め込んでいた罪悪感を、正面から非難してくれることに安堵してしまう。それこそが、許されないことだと知りながら。体の傷が増えたところで、他人の家庭を崩壊させた罪は消えないというのに。

 やがて通りがかった二人組の男性の一人が慌ててその女を羽交い絞めにして止めるまで、殴打は続いた。もう一人の男性が私を起こして警察と救急車を呼ぶか尋ねてきたので、私は断った。電話、という単語への拒否反応でもあった。落として画面のヒビ割れたスマホを拾い上げ、痛む体を無理やり動かして裏路地を歩いて逃げ出す。曲がり角を曲がっても、女は私に向けて汚い言葉を投げ続ける。


 2025年8月29日、週末の夜の出来事だった。


   #  #  #  #


 マップを元に辿り着いた電話ボックスは、久しく使われていないようだった。

 囲うガラスは薄汚れ、湿気でゴワゴワになったタウンページが放置されている。

 何よりも、群がる虫の量が多かった。

 電話をしていた時、季節は晩秋から初春の間だった。

 だから夏の電話ボックスの様相に、私は少し身構える。

 少しでも虫除けのためなのか、脇の電柱に、誘蛾灯が設置されていた。

 小さい羽虫や蛾が飛び回り、時折パチリと音を立て、地面へ落ちていた。

 走光性。虫が光刺激を受け、それに引き寄せられる習性。

 私という虫は、夜の街という誘蛾灯に誘われた。

 やがて私自身も誘蛾灯となり、男を誘って金を得た。

 そして私は今、光を探している。

 あまりにも魅力的だった、彼という光を。


 電話番号は、確認するまでもなかった。覚悟を決めて電話ボックスに入り受話器を取り上げれば、指が勝手に十円玉を四枚投入して電話番号をダイヤルしていた。

 聞きなれたダイヤル音。

 続いて、コール音が鳴る。

 一回、二回、三回。

 そこから三回を足して切るか迷った頃、電話を取る音がした。


『……』


 通話の向こうの彼は、すぐには喋ろうととしなかった。


 だから、待たずに私は話し出した。

 堰を切った言葉を、止めることができなかった。

 本当は好きだったこと。

 既婚者と知っていたから、必死に我慢していたこと。

 私が、どうしようもなく汚れていること。

 そんな人間の救いとなってくれたことが、何よりも嬉しかったこと。

 貰った暖かさとそれに対する感謝を、胸に抱いて生きていくこと。

 いつかまた、私が綺麗になる日があるのなら。

 その時はまた、こうして話をしてほしい。


 濁流のように湧き出す言葉を、順序も気にせずに紡いでいく。

 そして最後に、一番伝えたいことを口にした。


「だから、ありが――」


 言い切る前に、通話が断たれる。

 四十円分、六十二秒。

 彼と決めた、二人の電話のタイムリミット。

 延長してはいけない、私と彼の制限時間。


 受話器を、腕を下す慣性に任せて置く。

 バチリ、とまた誘蛾灯が音を鳴らす。

 電話ボックスの横を、また一匹の羽虫が落ちていく。

 ああ、終わったんだ――。

 私を成り立たせていた、何か大事なものが失せたのが分かった。

 耳の奥で、かさぶたが剥がれる音が聞こえた。

 途端に膝の力が抜け、あの時のように、その場で崩れ落ちた。

 彼との二回目の決別。

 今度は、涙は出なかった。

 心に空いた大穴が、溢れ出るものをすべて飲み込んでくれていた。

 そのまま数分か数時間、誘蛾灯に誘われて死んでいく虫を眺めていた。











 パチリ、











 ほんの少しだけ、誘蛾灯が長く暗転した。

 そしてそれと同じタイミング、私の携帯が震えた。


 電話――。


 冷え切っていたはずの血が一瞬で沸騰する。

 心臓が早鐘を打ち始める。

 過去がフラッシュバックする。

 時間を引き延ばし、脳裏を流れていく映像。

 その映像が、一枚の画で止まった。

 たった一人だけ登録された、私の電話帳。

 そこに刻まれた、カタカナ表記の男の名前。

 気が付くと、すべてが静まっていた。

 ポケットからスマホを取り出す。


 発信元は、彼の電話番号ではなかった。

 それでも、『公衆電話』が指し示す人なんて他にはいなかった。


 それは、彼から届いた初めての着信。

 彼と私をつなぐ、一本の電話回線。

 蜘蛛の糸で紡がれた、極楽と地獄を結ぶ糸電話。


 心の大穴が涙で満ちる。

 パチリ、と誘蛾灯の音。

 地獄の大池に、天上の極楽から一粒の種が零れ落ちる。

 種はすぐさま芽吹いて葉を広げ、蕾をつけて。

 一面を、蓮の花で埋め尽くしてみせた。


 決壊し止まらない涙と鼻水を、必死に袖で拭う。

 その下で、震える口を抑えきれないまま。


 私は、数年ぶりにスマホを操作して耳元に寄せた。



  〈了〉

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