洗面台のばけもの

蟹三郎乃介

洗面台のばけもの

  男の子が洗面台で顔を洗っていたときでした。

 排水口の奥から、はぁーっと息を吐く音が聞こえたのです。

「だれ、だれかいるの?」

 男の子は叫びました。が、これがせいいっぱいだったのです。あとはもうガチガチに固まってしまって、ひとことも言えないどころか息をするのさえ大変なありさまでした。

 ところが、排水口の奥の息は、今度ははっきりと聞こえる声になってかえってきたのです。

「きみは、はずかしくないのかい?」

 とても優しげですがくっきりとした、丁寧な男の人の声でした。まるで秋のはじめに吹き下ろしてくる涼しげな風みたいでした。

「髪はくるくるでぼさぼさだし、目やには付いたままだし、それに歯はみがいたのかい?」

「まだだよ」

 男の子は、さっきよりは少しだけ安心して答えました。

 声があんまり優しかったので、ちょっと安心してしまったのでしょう。それに、男の子はまだ疑うということを知らなかったのです。

「今からするところ」

「やり方は、わかるよね?」

 男の子は、答えあぐねました。というのも、男の子には身支度がいやでいや仕方なかったのです。

頭や顔に水をばしゃばしゃかけるのも、歯磨き粉で歯を磨くのも、こんがらかったねぐせをくしでとかして、仕上げにやかましいドライヤーを使つかうのも、ほんとうにいやでした。なにより男の子には、いやなのを我慢してそんなことをしたところで、得をしたことなんかひとつもないと思えていたのです。

男の子はいちばん正直な言葉を選んでこたえました。

「わかるけど、わからない・・・」

「そうか、ふうん・・・。ねえ、はずかしいとは思わないのかい?」

 声はさとすように言いました。

「きみはこれから出かけるようだけれど、君がそんな格好をしていたら、君のお母さんとお父さんだって恥ずかしいだろう?君が不潔であることは、君のお父さんやお母さん、それにいつか仲良くなる友達や恋人や奥さんやこどもに、とても悪いことなんだよ。」

 男の子は、ほんとうにその通りだと思いました。なにより、そんなことはこれまで考えたこともなかったものですから、ひどくはずかしくなってしまいました。

「それって、はずかしい・・・」

「そうだよ。きみが賢いみたいでぼくはうれしい」

 声は、ほのかに和らいだような調子になって続けます。

「ぼくの仕事というのがね、きみが知らないうちに誰かを悲しませたり、苦しませたりしないように、"ととのえる"ことなんだ。ぼくは地面の下にある国から、そのためにここへやってきたんだよ。きみのためというわけさ」

 男の子は声のいうことを飲み込んで、うんと頷きます。じっさい男の子は話の飲み込みの速いこどもだったのです。

「それで、名前はなあに?」

 男の子が学校で初めて会った子に名前をきくのと同じ調子でいうと、返事の声はちょっぴり低くなりました。

「きみ、それじゃあみんな気を悪くするよ!名前の聞き方にはきまりがあるんだよ。知らないのかい?」

 男の子は、知らないと正直に言いました。はずかしくて、顔を少しだけ赤くしながら。

「ふうん、顔を見るにはずかしがってるみたいだね。いや、落ち込まなくてもいいんだ。これからきまりをちゃんと覚えれば、誰も君を嫌いにならないどころか、むしろ好きになってくれるはずだよ。」そう言った声は、とびきり優しげでした。

「ととのえさえすれば、きみは町でいちばんきれいな男の子になるさ。」

 声の言うとおりに、男の子はひとつずつ身だしなみを整えていきました。

 冷たい水に顔をひたして、かわいたタオルでやさしくぬぐいました。頭のうしろの寝癖まで探して、ていねいにくしでとかしてドヤイヤーを当てました。声がそのほうがいいというので、お父さんのチクチクする歯磨き粉を借りて歯をみがきました。

「鏡をみてごらん!きみ、とてもきれいだよ。」

 声のいうとおりに鏡をよくみてみると、少し前に見た町の合唱団のこどもたちのようにきっちりとした自分がうつっているではありませんか。肌はかがやいて天井の電球のあかりを跳ね返していますし、髪は野原の背の高い草たちがなびくときの、いちばんきれいな瞬間みたいにさらさらしています。

 男の子は目を輝かせました。すかさず声がいいます。

「ほら、こんなに簡単に、こんなにきれいになった。きっときみはもともとがいいのさ。ほんのちょっとととのえただけで、これなんだもの。きみのお父さんやお母さんは、しあわせものだと思うね」 

 ちょうどのとき、お母さんがドアの外から男の子に呼びかけました。

「そんな長いことこもって、なにしてるの?」

小さなため息が聞こえます。

「お母さんはとっくに支度がすみましたよ。遊んでないで出てきなさい。」

「はあい」

 男の子は洗面台から離れて、ドアへ駆け寄ります。ドアノブを捻ろうとしたとき、ふいにあの声が聞こえました。

「ぜったいに忘れちゃだめだよ。今日みたいにちゃんときれいにすれば、きみもみんなも、どれほどはずかしがらずに済むかってことを」

「はあい!」

 それだけ返事をして、男の子はバスルームをあとにしました。

「えっ、すごくきれいにおめかしできてるわ。まじめにやれば、できるんじゃない!」

 お母さんがあんまりおどろいて褒めるので、男の子は家を出る間も車に乗っている間もずっとにこにこ笑いっぱなしでした。時々堪えきれなくてくすっと笑いもしました。

「でも、"はい"はひとつでいいのよ」ともいわれましたが。

 


 男の子とお母さんが乗った車は、コンサートホールの駐車場のはじっこで停まりました。

男の子のお父さんはヴァイオリン奏者で、今日は演奏会があるのです。

ふたりは入り口をくぐって、エントランスの立派なソファに腰掛けました。革張りのクッションがむぎゅうっと鳴ります。

「お父さんの居場所を聞いてくるから、すこし待っててね。動いちゃダメよ。」

「はあい」

男の子が返事をすると、お母さんはカウンターの方へ向かって歩いていきました。男の子はお母さんの言いつけ通りしばらくじっとしていましたが、そのうちソファの背もたれをそっと撫でながら、そのすべすべした感触に夢中になっています。ふたつの目は、みごとに縫い付けられた正方形のクッションに釘付けです。男の子は誰と遊ぶよりことよりもなによりも、形のいい椅子を眺めることが、大好きだったのです。

このコンサートホールには、いい椅子がたくさんあります。この長ソファに、楽屋の背の高い椅子、それから廊下にあるかっちりした一人がけの椅子に、絵本コーナーに置いてある、円柱形を捻ったような形の不思議なクッション椅子。とくに、ずらっとならんだ赤色の客席はもうたまりません。短い真っ赤な毛や真っ直ぐ取り付けられた肘掛けのなかにすっぽりとおさまっていると、もう二度と動きたくなんかならないのです。

ですから、お母さんが戻ってきたことにも簡単には気づきませんでした。

「お父さんのところに行くから、こっちにきて」

少し離れたところでお母さんがいいます。

「ぼくずっとここにいるよ」

男の子がいいます。

「演奏会がはじまったら、会えるんだから」

お母さんはうんざりといったふうにため息をついてから、言いました。

「またなのね。じゃあひとりで行ってくるから、そこでじっとしてるのよ。」

そういうとお母さんは狭い通路の奥へ消えていきました。またあの声が聞こえたのは、そのときでした。今度はソファの下から聞こえます。

「ねえ、わすれたのかい」

バスルームで最後に聞いたときと違って、とても不満げなきびしさのある声色でした。

「せっかく見た目がととのっても、全くだめだ。お母さんのあの様子!あれ見ても、きみははずかしくないのかい?」

男の子は今度はもうびっくりせずに、すぐに答えました。

「はずかしい?どうして?」

「お母さんは、きみといっしょにお父さんに会いにいきたかったんだよ」

変わらない調子で、声は続けます。

「お母さんだけじゃない。お父さんも、きっとがっかりしているだろうなあ。せっかくこれから晴れ舞台なのに、息子にあっておけないなんて。きみはあとで会えるっていったけど、奏者っていうのはそんな暇な仕事じゃないんだ。ぼくは知っているけれど、とても集中しなくちゃいけない仕事さ。演奏が終わってくたくたになってうんざりしながら楽屋を出るまで、きみの顔なんて見てる暇はないんだよ。きみは、わざわざきみをここまで連れてきたお母さんと、これから仕事をしなくちゃいけないお父さんを、苦しませているんだよ。」

男の子は、ひどく恥ずかしくなりました。洗面台の前でしたよりも、もっと顔を真っ赤にさせて。

「ぼくは、はずかしいことをしたんだ・・・」

「そう。やっぱりきみは話がはやい。」

声は心底うれしそうにいいます。

「いいかい、きれいにしなくちゃいけないのは、心もなんだ。きみはその椅子に夢中なようだけど、それはきれいでもなんでもない。むしろきみしか嬉しくないんだから。誰にとっても嬉しくないことは、誰にとってもきれいじゃないんだ。きみがちょっと足をのばしてふたりのところまでいって、おそくなってごめんなさい。がんばってね。って言えば、きみひとりじゃなくて、ふたりが嬉しくなるんだ。きみの言葉が、ふたりにとって何よりもきれいなものになるんだよ。」

男の子はもう我慢ができなくなってソファから飛び降り、すこしも振り返らずにお母さんのあとを追いました。

「やっぱりきみは、いいひとだ!ぼくにはわかってたんだ!」

もう見えなくなったソファのほうから、ものすごく嬉しそうな声がそう叫ぶのを聞いた気がしました。



 「めずらしいじゃないか!よくきてくれたね。」

お父さんはほんとうに嬉しそうにそういいました。

お母さんも、はじめからそうしてればいいのにとはいいましたが、どこか誇らしそうな、やっぱり嬉しそうな顔で男の子を見つめています。少し離れたところでなにか話し合っていたお父さんの仲間たちも、失礼のないていどに、こっそりと嬉しそうな目線を男の子とお父さんのほうに向けていました。

「すぐに来なくてごめんなさい。演奏がんばって、お父さん。」

男の子は恥ずかしくてもじもじしながらいいました。さっきあの声に言われたことを思い出して、すぐに来なかったことを心から後悔していたのです。

「なんにもあやまらなくていいのに、どうしてそんなことをいうんだ?」

お父さんは笑っていいました。

「それに、こんなに上手におめかししてきてくれるなんて!いつもならずっと眠そうな顔をしているし、寝癖は二、三のこってるのにな。実はすこし心配してたんだが、どうやら心配しすぎだったみたいだ。息子よ、今日はよく聴いててくれ。だれよりもいちばんいい演奏をしてやるから。」

お父さんはいつもより嬉しそうでした。好物のステーキを出されたときよりも、ずっとにこにこしています。

「ちゃんと聴くよ。お父さんが弾くと、きっときれいでしょ!」

 集合を知らせるアナウンスが鳴り響きました。男の子とお母さんは、手を振って楽屋をあとにします。

ふたりは客席が開かれるまで、絵本コーナーで待つことにしました。今、コンサートホールには、お父さんに会いに行く前よりもたくさんの人たちがやってきているようでした。

男の子は絵本コーナーのお気に入りの椅子に腰掛けました。緑色で、円柱の真ん中がくびれて細くなっています。この椅子を見るたびに、男の子は惚れ惚れするのでした。

ふと、目の前の赤い逆三角形の椅子に腰掛けている子に気がつきました。丸いメガネをかけた、賢そうな女の子です。両手で大事そうにバッハの伝記の本を抱えて読んでいました。コンサートホールですから、絵本の他に少し難しい音楽家の伝記も何冊か置いてあるのでしょう。

「ねえ、それバッハでしょ?」

「ウン。音楽の父。」

男の子は、思わずくすっと笑いました。ウン、といったときの声があんまりおかしかったのです。

「ぼくも知ってるよ、お父さんが好きだから。」

「ヘエ」

男の子は、また笑いました。今度はさっきよりも一段高い声で。さすに気がついたのか、メガネをかけた子はけげんそうな顔をしていいました。

「ナニ?わたしのメガネ、そんなにおかしい?」

「イヤ、ちがう」

男の子は、メガネの子のへんな調子を真似していいました。面白いものの真似をするのが、きれいな椅子の次に好きだったのです。

「よかった。わたしこのメガネが大好きなのに、みんな笑うから。」

「ヘエ」

男の子はおかしくておかしくて、足をバタバタさせました。もうメガネをかけた子がいやそうにしているのは明らかです。

「ソレやめて!足バタバタさせるの、うるさいから!」

メガネをかけた子はもう今すぐにでも泣いてやるぞというような顔をして、うわずった声で叫びました。さすがにかわいそうになったので、男の子は足をぴたりとくっつけて二度とバタバタさせませんでした。声の真似は続きましたけれど。

「ごめんね。」

「いいよ。」

そのとき、絵本コーナーの入り口から怒鳴り声が聞こえました。ここを管理しているおばさんが、二人を注意したのです。

「しずかになさぁい!」

男の子はびくっとして黙り込みましたが、メガネの子はまるで聞こえてないみたいに本の上から目を外しません。

「しずかになさぁい・・・」

おばさんの言い方が面白かったので、男の子はなんとなくそれを真似てみました。すると、目の前でメガネをかけた子の体が大きく前に揺れました。

「フフウッ」

メガネをかけた子が、本をじっとみながら吹き出したのです。その声の面白いことといったら、男の子がすぐにもうきうきで真似をし始めたほどです。

「フフウッ・・・」

「ねえ、きみははなせばわかるのに自分では気づけないのかい?」

あの声です。今までとは比べ物にならないほどの、吹き荒ぶような冷たい声でした。

「きみは人を傷つけて、苦しませている。ねえ、わからないのかい?はずかしくないのかい?」

男の子はあたりをきょろきょろ見回しました。どうやら今度は壁のそばの小さなロッカーから声が聞こえているようです。すぐにメガネをかけた子のほうに向き直りましたが、この子にはなにも聞こえなかったのか、あいかわらずバッハの伝記をじっと見つめています。

また冷たい声がひびきました。

「きみは、よくない癖をもっている。きみに友達が少ないのは知っていたけれど、いまみたところそれが大きな原因のようだ。なあ、きみだって自分のいやなところを真似されて、なんとも思わないことはないだろう。たとえば、きみが学校で先生にあてらえて、問題を答えられなかったことがあっただろう。覚えてるかい?きみは十六と答えるべきところを、じゅう・・・じゅう・・・じゅう・・・って口ごもってうまく答えられなかった。そのあとほかの子がすんなりと答えたのに、きみはじゅう・・・じゅう・・・じゅう・・・って、じゅうを三回もいってたね。じゅう・・・じゅう・・・」

男の子がたまらなくなって、いきなり椅子を立ち上がってロッカーの方に駆け寄ろうとしたそのときでした。声がいちだんと大きな声になって続けたのです。

「ほら!耐えられなくなったろう?きみが人の真似をするたびに、みんな今のきみと同じ気持ちになるんだ。」

男の子は立ち上がったまま、うごけずに固まってしまいました。これまでよりもうんとはずかしい気持ちがめらめら立ち上ってきて、顔を真っ赤に染めあげます。風邪をひいたときみたいに、頭がフラフラしました。

「ごめんね」

メガネをかけた子に向かって、男の子はいいました。そうせずにはいられなかったのです。でも、メガネをかけた子はやっぱり何にも聞こえていないというように、返事もせずに同じ姿勢のまま本を読み続けています。もしかすると、涙を堪えるのに必死になりながらいった言葉だったので、小さすぎて聞こえなかったのかもしれません。

「ごめんね!」

男の子はひっくり返った声でいいました。こんどはあまりにも声が大きすぎたのでしょう。メガネをかけた子がびっくりして本から顔をあげたまではよかったのですが、運の悪いことに、あの管理係のおばさんが声に気づいて叫び返しました。

「しずかになさぁい!」

もう笑っていられる場合ではありませんでした。ロッカーからはうれしそうなこえが聞こえましたが、なんと言ったのかよくわかりません。男の子はもうただこわくなって、絵本コーナーを走って飛び出しました。おばさんの声が後から聞こえます。

「はしらなぁい!」

景色ががくがくと震え、いつのまにか涙が止まらなくなって流れ続けます。男の子は廊下を走り抜けてエントランスまで辿り着くと、外の曇った景色を写した出入り口をめざしていちもくさんに駆け抜けました。



「きみはなんて、りっぱなんだ!」

その声が聞こえたのは、男の子が駐車場の端っこにある茂みに体を突っ込んで小さくなっていたときでした。すぐそばにある、鉄格子で塞がれた排水口から声が聞こえているのがすぐにわかりました。声は穏やかでしたが、もう歌い出したくてたまらないというのを我慢しているふうなのがまるわかりです。

「きみはぼくそっくりなんだ。ほんとうに!もしかしたら生き別れの兄弟か、前世でいっしょだった兵隊仲間だったりするのかな?はははは!きみはそんなにいい顔と髪をもってて、おまけに心根が良くて、すこし言われたらすぐに非を認めて悪いところを直すことだってできる。お礼することも、謝ることもできる。ぼくはひとりでやったけど、きみはひとりじゃないんだ。ねえ、こっちをみなよ」

男の子は泣き腫らした目で鉄格子の奥を見つめました。真っ暗で、なにもありません。鼻を塞ぎたくなるようなにおいがはぁーっと漏れているばかりです。

「こっちをみなよ。ぼくの顔がみえるでしょ?ぼくの名前はね、きみさ。それできみの名前は、ぼくなんだ。きみはりっぱにととのったんだよ、もう一人前っていってもいいくらいだ。あとはおかしな趣味さえ直せば、きみはたくさんの優しい友達と、怒らない大人たちといっしょに暮らせるだろうね。でも、それは地面の下でも同じことなんだ。つまりきみはここにいたって地面の下にいたって、結局は同じなのさ!こっちにきてよ、ぼくのところはまださびしいけれど、きみとぼくみたいにきれいな二人がいる家に来たがらないやつなんてまずいないだろう?」

男の子の頭の中では、声が今言ったことと前に言ったこととがごちゃごちゃに混ざり合っていました。耳を塞いでも息を止めてもいつまでもぐわんぐわんと響き続けています。

「ぼくは、いやなやつだ!」

男の子はわけもわからないままいいました。驚いたようすで声が叫びます。

「なに?・ぼ・く・が・い・や・な・や・つ?ねえ、落ち着いてよ。泣かないで!いやなきみはしんだんだから。いやなぼくがしんだみたいに!」

「ぼくはしぬの?」

男の子が聞き返します。それどころじゃなかったものですから、ちゃんと聞こえなかったのです。

「ちがう、死んだんだよ!」

そのときです。いきなり、しげみの外から声がきこえました。

「エ、しぬの?」

男の子ははっとしました。あのメガネをかけた子の声です。

「ここくさいけどたぶんしなないよ。ネエ、ごめんね。無視したんじゃなくて、考えてたの。」

とても真面目な声でした。これって、あたりまえのことでしょ?というような。

「無視したの?」

「してないって」

「うん、無視はしてなかったよ。」

「ウン。」

がさがさと音を鳴らしながら、しげみの中へ細い手が伸びてきました。男の子はもう泣いていません。なにがなんだかよくわからなくて、泣いているどころではなくなってしまったんでしょうね。

 手を掴むと、しげみの外へ向かってぐっと引き寄せられました。固い枝が頭の先から足の先までがさがさ引っ掻きます。しげみを抜けると幸いケガはありませんでしたが、髪の毛はぼさぼさになってしましました。服もいくつかの場所がほつれて、黒い毛糸がぴょんぴょん飛び出ています。

 それからしげみの向こうからあの声がなにかいっているのがたしかに聞こえたのですが、なにをいっているのかまではわかりませんでした。それよりもはるかに面白いことが起こったのです。

「ハしらなぁい・・・」

だしぬけに、メガネをかけた子が、とっても小さな声であのおばさんの真似をしたのです。それもあのへんな調子といっしょに!

「ハァしらなぁい!」

笑いながら言ったので、やろうとしていたよりもっとおかしな声になってしまいました。けれどもうそれすらも面白くて仕方がありません。

「フフゥッ」

メガネをかけた子が笑います。

「ソレ面白い!フフゥ・・・!」

こんどは面白すぎてわけがわかりません。

 気がついたらふたりはもうエントランスを通り抜けて、絵本コーナーに続く廊下の前までやってきていました。長ソファにかけていたお母さんは男の子に気がつくと、ぷりぷりしていいました。

「友達と遊びに行くなら先に言いなさいって、もう何度も言ってるでしょう?っていうか、そんなに髪も服もくしゃくしゃにして、せっかくきれいにしたのに無駄じゃない!」

お母さんはひどく怒っていました。男の子はいしゅくしてしまいましたが、メガネをかけた子はまるでその場にいないみたいに平然としています。

「もうはじまるから!」

お母さんは男の子の手を強引に握ると、そのままホールへ向かってずかずか歩き出しました。実のところ、ほんとうに演奏が始まる三分前だったのです。


 ホールの扉が閉まりました。楽団と指揮者が登場すると、一斉に拍手が湧き起こります。

 舞台の上の全員がお辞儀をして、やがて拍手が完全に止むと、指揮者が楽団のほうへ向き直りました。客席のみんなは一斉にエヘンエヘン、オホン、グッグッ、と急いで咳を済ませます。

男の子はというと、ふかふかで毛の短い真っ赤な座席に夢中なのでした。なにせ、形だけでなくてにおいまで素敵なのですから。

みんな、すばらしい音楽に耳を傾けています。何重にも重なった音がホールを、みんなを包み込みました。涙のせいでむせてしまう人も何人かいましたが、誰もちっとも気にしていない様子です。ですから最初の一音からもう男の子がなんにも聞いていなかったことには、きっと誰も気づかなかったでしょう。



 次の日、お父さんに演奏はどうだったかと聞かれた男の子は、正直にいいました。

「とってもすてきだったよ。ふわふわしててね・・・」

お父さんはうれしくて笑いました。キッチンにいたお母さんも、はぁとため息をついたあとでふふと優しく笑いました。

ふたりが笑っている間じゅう、キッチンの流し台の排水口にたくさんのもこもこした白い泡が流れ込んでは、ときどきぼこっと音を立ててそれを吐き出しているのでした。

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洗面台のばけもの 蟹三郎乃介 @kanikaniparapara115

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