第26話 ただいま

「長い家出だったな」

「ええ。もう戻ってくるつもりはありませんでしたけれど」

「おかしなことを言う。お前が戻らなければ、一体どれ程の犠牲を生むか。知らないわけではないだろうに」

「…………」



 この男の非情さは、何年経っても変わらない。


 その血を受け継いでいるかと思うと、凄まじい嫌悪が駆け巡る。いつまでも自分を愛せない、愛されもしない。私を唯一愛してくれていた、優しく強い母は早くに死んだ。心の拠り所をなくせば、幼かった自分が壊れるのは必然。


 だから逃げ出したんだ。何もかも。察しの悪いわけではないこの男が、気付いていないはずはないけれど。



「私のことなど放っておけば良いものを。以前のあなたならそうした筈ですが」

「子どもを心配しない親はいない。そうだろう?」

「……よく、そんなことが言えますね」



 今までお前が私を見たことはあったのか。心配などしたことはあったのか。親とはどういうものか、その責務を、自覚をもって私に接したことはあったのか。母の愛情を愚かだと切り捨てて葬式すら行わず、おざなりな墓に埋めたお前を許す日は来ない。



「全ては会社の為のコマなんでしょう。……残念ですが。教育を途中で投げ出した私に、後継など務まりませんよ」

「心配しなくても、お前に会社を継がせることは諦めたよ」



 代わりに、と側に立っていた相田さんに目配せをすると、一枚の紙を提示された。



「お前には、財閥のご子息と結婚してもらう」

「……は?」



 ……なにを、言われているのか。


 よく聞き取れなかった。


 頭のなかで反芻して、ようやくつかんだ意味の断片。それらをつなぎ合わせた頃には、目の奥で、何かが砕ける音がした。

 笑ってしまいそうだった。 結婚、と言ったか、この男。



「この期に及んで……」

「だからこそだ」



 だからこそ、とはどういう意味か。逃げた娘に差し出す縁談が、お前にとっての愛情か。馬鹿にするのも大概にしろ。


 大きな憤りと同時に、ある意味納得もした。呆れと諦めに近い。やはりな、という感情。簡単にも思えるその諦めは、ここまで逃げて一人で歩いてきたつもりだった人生でさえも、この男の盤上を進んでいたに過ぎなかったと理解させられたからだ。


 私はこの男にとって、会社の捨て駒でしかない。この人生に自由を求めることは、初めから許されていなかった。



「そうだな、……この結婚に同意すれば、お前の借金も返しておこうか。結婚してしまえば経済的に困ることはないし、相手も優しく聡明なお方だと聞く。断る理由がどこにあるんだ」



 それ以前に娘が逃げた原因すら流していることが、断る理由を察せない元ではないですか。


 条件の提示で納得するような、右も左もわからないような子供じゃないんですよ。あなたの中の前提として。私の気持ちは、断る理由にならないということですよね。どれだけ尤もなことを述べようと、拒否することを選択できないこの息苦しさ。



「……どうして、今になって連れ戻そうとしたのですか」

「もう充分楽しんだだろう。だから迎えに来ただけの話だ」

「迎えに、ですか」



 そんな、子供のお遊びのように言わないでくれ。


 あの時どんな犠牲を払って、どんな気持ちで、どんな覚悟で!!


 ……わたしがこわれそうだったこと、なにもしらないくせに。


 ぐつぐつと今にも爆発しそうな心情をどうにか抑えるために、男から目を逸らして深く息を吐いた。


 この男が知ろうともしていないことは、分かっていた。どういう理由で動いたのかも、なんとなく勘づいてはいる。すぐに連れ戻さなかったのはきっと、無力さを突き付けるために。お前には初めから無理だったのだと。認めさせるために泳がされていたというのが実際のところか。



「美尊。諦めなさい」

「……っ、」



 それは反抗も意思も怨みも、全てをわかった上で押し潰すような言葉だった。


 結局。どれ程足掻いても私は、用意されたレールを歩かなければならなかった。無様に生きようともがく姿は、ひどく愚かだろうよ。分かっていたら、余計な犠牲を生むことは無かったのに。私自身ではない形骸的な、“本田美尊”に懸けられた価値が首を絞めていく。


 伸ばした手が、耳元の深い青に触れる。


 あの時共有していた温度は、もう私だけのものに変わってしまった。信じられる唯一のものは、冷たく、ひどく頼りない小ささで。彼の存在がどれだけ大きかったのかを、今になってまた、思い知らされる。


 初めて私自身を見てくれたあなたは、もう隣にはいない。



「……、……」



 少しだけ、息を吐いてから言ったそれ。死に絶えた感情は、言葉に意味をのせることもない。



「……わかりました」



 触れたタンザナイトとその思い出だけが、確かにあったあの人との時間を証明し続ける墓標だ。

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