第17話 価値

 自分の価値がどれ程のものなのか。


 考える人間はそれなりにいるだろう。自分で決める分にはいい。


 けれども、それを他人によって決定されてしまった場合。


 そこに自分の意思が介入することは無く、ともすれば意味も分からず消されることだってある。




「……私のことだけど、ね」



 結局食べきることのできなかった料理にラップをかけながら、長すぎる夜を持て余していた。それでも、寝る支度を進めて布団に入るまではよかった。律さんのことを思って幸せな気分でいられたから。


 ……ただ、広く暗い寝室の中にいるとダメだ。閉じた瞳も意味がない。眠りに誘われることもなく一人で冷たいシーツに身を預けている時間は、目を背けていた深い思考にのまれてしまう。


 律さんと過ごした、2ヶ月。人生で一番濃いものだと断言できるけれど、心を殺して過ごした18年は、そう簡単には消えてくれない。私の思想の奥に深く影響を及ぼし、どうしようもなく根付いてしまっている。


 自分の価値は、他人によって決まるものだ。


 生まれた時からそんな状況に置かれていれば、それが憐れなことかすら分からない。いわば、籠に閉じ込められた鳥のような。深窓の令嬢、と言えば聞こえは良いが、実際は偏った常識の中でしか生きられなかった世間知らず。


 

「……律さんに言ったら、鼻で笑われそうだけど」



 でもそういう反応をくれる人が、私にとってはとても新鮮だった。


 あの時逃げなかったら、ぜんぶ知らなかったこと。


 何もかもうまくいったわけじゃない。死ななかった、ということが唯一にして最大の幸福として残っただけ。側付きの人間も、地位も、信用も、確定したはずのレールも。犠牲になったものは計り知れない。


 その事を知った上で飛び出した、18の冬。


 ……ひどく、寒くて風が冷たかったことを覚えている。ただ、必死に逃げて逃げて逃げて、逃げ続けて。そこで掴んだ自由に、初めて生きた心地がした。場所を転々として、どうにか生き延びて、でも本当にどうしようもなくなって死にかけたとき。最終的に優しいおばあさんに助けてもらい、その縁で以前の働き口に就職することになった。


 おばあさんは厳しいけれど、誰よりも強くて、優しくて、愛のある人だった。……早くに亡くなった母に、よく似ていて。この人に精一杯、恩を返していけたらと。その中で、このまま人並みの生活を営んでいけるのだと思っていた。しかし結局は借金を押し付けられ、裏切られてしまった。



 人を信用すること。その怖さを知っていたはずだったのに、また、信じて裏切られる。いっそ何もかも嫌いになれたらラクだった。


 どれだけ明るく前を向こうと、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせようと。


 怖いものは怖いままで。自分を偽ることは得意だけれど、何も信じないでいようと思ってたんだ。


……だけど。




「……律さん、おかえりなさい」

「っ、起きてたの」



 微かに、部屋の扉が開く音が聞こえたから。


 まだ浅いままで、すぐに浮上していった意識。帰ってくるのちゃんと待ってたんですよ、って寂しさの代わりに伝えるつもりだった。


 だから状況を理解しようとすると、いつもは声をかけてくれるはずが、腹部にぐっと重みが乗って。そこから、柔らかく頭を撫でていた手が、震えるようにゆるく首に乗せられて、ぎこちなく離れていく。カチャリ、と鳴らされた音で、彼のしようとしていることにようやく気が付いた。


 長い長い空白の時間。


 それはきっと、彼が私を天秤にかけた時間。

何も抵抗しなかったのは、期待しちゃったんだ。結局は裏切られると知っていながら。信じたかった。あなただけは、もしかしたら、って。


 ……だけど。



「……ごめん」

「……、……」



 ひどくかすれて、何か押し殺したものを吐き出すような声がこぼれ落ちた。なんでって気持ちと、あぁやっぱりって気持ちと。夢が急速に醒めていく。


 知らなかったわけじゃない。


 自分に懸けられた価値も、この人の本当の目的も。


 でも、優しくしてくれた日々も、笑いかけてくれた瞬間も、くれた言葉もさ。どうしたって信じちゃうんだよ。初めて自分で自分自身の価値を見出だせた。自分のままであなたといられることが楽しかった。必要とされてるのかもしれないって、……嬉しかったんだよ。



「……まだ、朝は来ないから。寝てていいよ」

「まだ、じゃなくて。……二度と、来ないんでしょう?」

「………」



 知ってたんだ、と諦めたように小さく笑う。


 それすらもぎこちなくて、こんな時になってまであなたの優しさを感じる。



「……なんで逃げなかった」

「なんで……?」

「殺したくなかったよ。逃げ出したら追うつもりもなかった、……生きてて欲しいから。それまでだったって、諦めるつもりだったんだよ、」

「それじゃ律さんが困るじゃないですか」



 普段は読み取らせてもくれない仮面の下。

 それが、今じゃ痛いくらいに伝わる。


 私を殺すことが、そんなにも苦しそうな表情をさせてしまうのなら。それなりの理由があったんじゃないかって、懲りもせず信じてしまう。情なんか見せないでほしかったと思うけど。その選択にちゃんと感情が伴っていたこと、あなたが誰より示してくれている。


 ……ずるい人だと思った。恨むことすらさせてくれない。私だって、本当は生きていたいよ。でもその思いとあなたを天秤にかけてしまったら、答えなんてわかりきっていた。


 それに、と重ねた言葉はもう一つの本心であり、願い。



「それに、……律さんになら、殺されてもいいですよ」

「……、……」



 苦しそうにまた一つ刻まれた眉間の皺をなぞって、彼の頬にそっと手を当てる。この温度を、覚えておけるように。



「借金だってこれで返すことが出来るし、面倒も迷惑も、ッ、かけなくて、済むし。……ね、殺すの、間違ってないですよ」



 こんなときにまで負担をかけたくない。


 大丈夫、絶対ぜったい恨まないですよ。律さんにもらったことが、本当に幸せだったから。……あぁ、また眉間の皺が増えた。そんな顔より、笑った顔、見せてくださいよ。


 言ってませんでしたけど。律さんのいじわるな笑顔も、ちゃんと好きでしたよ。

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