第3話 しつけ

 徐に立ち上がり、扉を開けて出ていく時にちらりと視線を向けてまた歩き出すから、多分付いてこいってことなんだと思う。


 絶対付いて行きたくない。


 けれども私は大人なので、踏んだ特大地雷に責任をもたなければなりません。そして私の意思に反して、見えないリードで引っ張られていくように体が動いていっちゃうのなんで。



「乗れ」



 短く吐き出された一言には、有無を言わせない迫力がある。何も言えなかった。今からでも事を穏便に進める方法、誰か教えてくれないだろうか。



「おかえりなさい、瀬川副社長」

「……あぁ」



 運転手の人はこの男に深く頭を下げ、お兄さんはそれを一瞥することもなく乗り込む。


 スッ、と開けられたドア。こんな道の往来で叫んだら誰か助けに来てくれるかな。そう思って周囲を見渡そうと視線を上げれば、冷えた目が静かにこちらを見つめていた。


 ……無理だと思いました。乗れば、車はすぐに発進。呼吸をすることすら気を遣うような、重苦しい空気だった。


 二十分ほどして着いたのは、見上げると首が痛くなるような高層マンション。すぐに車のドアを開ける運転手。きっとこんなことも全て、この男からすれば日常なのだろう。歩き出すのを付いていけば、カードキーを取り出してエレベーターに乗り込んだ。


 ちらりと振り返ると、運転手さんは無慈悲なお辞儀。諦めてくださいってか。見えないリードはなおもつながっているようで、クイッと彼が顎を動かしたことにつられてそのまま密室空間へ足を踏み出した。



「……、……」

「…………」



 お通夜かよ、ここは。それとも私のメンタルの墓場か。


 階が上昇するにつれて、緊張と恐怖と不安と若干の好奇心と後悔と。要するにぐちゃぐちゃ過ぎてまとまってない。これから何があるかなんて聞けると思うか。聞ける空気じゃない。


 ていうかなに。酷いコトって。もはやボロ雑巾の想像さえ越えてくるだろこれ。


 ……もう、あれだ。私たぶん生きて帰れないんだよ。


 私の臓器たちはどこへ……とそっとお腹に手を当てていると、沈黙を破るようにポーンとレトロな音が響いて、エレベーターの扉が開く。


 真正面には一つだけ、大きな両開きのドアが。



「……なんですか、ここ」

「俺の家」

「はっ……? ……あ、いや」



 まさかの本丸。


 驚くに決まっている私の反応を一瞥で捩じ伏せる。ドアを開けると、呆然と立ち尽くす私の腕を強く引っ張り、その家の中へと連れ込まれた。



「ああの、くっ、くつはどこに……!!」

「……脱ぎ捨てとけよそんなもん」

「いやそれが、通勤中に犬のフン踏みつけちゃって」

「今すぐ脱げ」



 腰に手を当ててため息を吐いている瀬川さんをよそに、脱ぎづらいパンプスをどうにか脱ぐと、そのままゴミ箱に投げ捨てられた。……あぁ、私の靴。


 靴との思い出に浸る間もなく、再び腕を引かれてずんずんと歩いていく広い廊下の、突き当たり。


 また一つ扉を開けば、ダブルサイズのベッドに放り投げられた。どさり。衝撃に慌てて体を起こそうとすれば、振り返ったところで顔の横に両手を置かれたせいで、背中にはまだふかふかな布団とおともだち。



「な、にを、」

「ここまできて分かんないほどバカじゃないだろ」



 彼の左手が、ツーっと頬をなぞる。


 獲物を捉えた猛獣のような圧が、とてもくるしい。不自然な呼吸のリズムを奏でるのは、いつも私で。


 色が鈍く灯る、その瞳が云いたいことが分からないわけはないけれど。ちょうどいいわ、と薄く笑うのを見て、やっぱり裏はあるんじゃないかと遅い遅い後悔。



「ソープで働かせる前に、部下にでも確かめさせとこうとは思ってたけど。酷いコトして欲しいなら、俺がどこまでイけんのか見てやってもいいよ」

「!!」



 やっぱりあるんじゃないか。

 私にとっての、最大のデメリット。



「……風俗では、働かせないって、」

「ロクでもない、店ではな。……そんな心配しなくても、本番しないようにちゃんと取り締まってる優良店紹介するから大丈夫」



 今の話に大丈夫なところなんて一つもなかった。小さく笑う表情を可愛いなんて思わない。


 あの時、やはり圧力なんかに負けずに逃げ出しておけば。連続する不幸。人生の選択を、どうしてこうも間違え続けるのか。バカな私にはなにもわからなかった。


 憎むことしかできない、目の前の不幸の象徴。



「っの、悪魔が!!」

「ふはっ、……どうとでも言え」



 獲物をいたぶるように、じりじりと距離を詰めてくるのはきっと、私の反抗心を叩きのめすことを楽しむためなんだろう。



「どうして、こんなことするんですか!!」

「お前が疑いもせず男の家に上がるバカ、てことがよく分かったからだよ。社会で働かせても、その様子じゃカモまっしぐらだろうから」



 だから教えてやろうと思って。


 そう微笑む男の表情は、私をいくつの絶望に突き落とすのだろう。



「……いみが、わかりません……」

「放し飼いは諦める、つー話だよ」



 つまり私の飼育員さんが、本格的にあなたに決定してしまったということですか。


 なにその地獄のエンターテインメントショー。



「……チェンジ希望で」

「交換不可ですね、お客サン」

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