第4話 見守っててね

 妻と再婚相手が家を出ていく日、俺は何もできなかった。

 怒りをぶつける気力すら、もう残っていなかったのかもしれない。

 ただ、空っぽになった家の中に、ぽつりと取り残された俺。

 完全な孤独。

 いよいよ、自分はこの世から“本当に”消えてしまうのかもしれない。

 そう思った矢先だった。

 二人が出て行った数日後、玄関から物音が聞こえ、リビングの扉が開いた。

 荷物を抱えた娘が戻ってきたのだ。

 もう成人して、一人暮らしをしているはずの娘が。

 俺には理由がわからなかった。

 何があったのか、どうして戻ってきたのか。

 ただ、彼女は静かに部屋に入り、リビングの隅に鞄を置いた。

 そして、ぽつりと呟いた。

 「見守っててね、お父さん」

 その瞬間、俺の中から何かが溢れだした。

 あたたかく、懐かしく、そして優しい気持ち。

 忘れていた。

 俺は――ただ、守りたかったんだ。

 この家を。

 あの子を。

 妻のことも。

 憎しみも怒りも、ふとした言葉ひとつで、すべて溶けていくのだと知った。

 娘は、俺の存在に気づいているわけじゃない。

 ただ、覚えていてくれたのだ。

 それだけのことが、嬉しくてたまらなかった。

 俺は、娘の暮らしを見守ることにした。

 もう、声も手も届かなくていい。

 ここにいる。

 それだけで、十分だ。

 ただそこにある、空気の様に。

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死して忘れゆく者たち 目白一重 @tyuunibyouislife

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