夏の果てに
霜月れお
夏の果てに
灼熱の太陽に蝉も声を潜めるような昼下がり、大学の附属病院に入院している百合の主治医からの電話で、夫の蓮司は現実に引き戻される。
蓮司は両サイドに座る同僚に「電話、出てきます」と小さく告げ、スマホを握り、席を立つ。片田舎の地方公務員の悪くないところは、融通が利くことなのかもしれない。蓮司は主治医が息を吸う合間を見計らって合図地を打ちながら休憩室に向かい、窓際で立ったまま主治医との話を続けた。窓から見える青空のコントラストは、さっきまでパソコンを睨んでいた蓮司の目には眩しくて、手で遮った。
「はい、はい。そうですか。その時間なら行けると思いますので、よろしくお願いします」
急性間質性肺炎。はじまりは、ただの風邪だった。
手短に電話を終わらせた蓮司に上司の
「少しだけ早上がりさせてもらおうかと」
上司とは言っても歳の差にして二つ違いの入谷は、蓮司が職場で気を張ることなく話せる数少ない人だった。入谷に蓮司は軽く頭をさげ、パソコンに向うも、幾度となく繰り返されたこのやり取りに気が散ってしまって集中できそうにない。蓮司は、吸い込んだ空気が肺からゆっくりと押し出していくような低く長い息をついた。
こうしている間にも、百合の肺にある細胞が破壊され、機能を失っている。
考えれば考える程に時間はゆっくりと流れ、卓上扇風機の音が蓮司の耳に流れ込んでくる。
「一ノ瀬さん、わたしでも何かできることがあったら、ちゃんと
隣に座る後輩が声を潜めて蓮司に声をかける。
「ありがとう、助かるよ。それなら前に現場に行った報告書、写真だけでもまとめてもらえへん?」
蓮司は、後輩の言葉に甘え、現場でのメモがコピーされたA4用紙を渡し、職場を後にした。派手な稼ぎは無く、業務内容と同僚は運でしかないが、融通の利き易さと福利厚生には恵まれているのが幸いして、今も百合のいる病院に向かうことができている。
それに連日発令される熱中症警戒アラートと百合の病気を除いてしまえば、穏やかな日常だ。
蓮司が病院に到着した頃には真夏の太陽が傾いていて、白い病棟が黄色の光に照らされている。蓮司は、噎せ返るよう駐車場のアスファルトの上を歩き、正面玄関に向かう。普段の見舞いでは時間外出入口から中へ入っていた蓮司は、珍しく正面玄関から院内に入ることになった。タッチパネル式の外来の診察受付、吹き抜けの高い天井や白い壁が日に照らされて幾分か明るい気分にさせる。日が暮れかけている時間外に訪れるのとは違う賑わいを蓮司は感じ、誰とも目を合わせないよう足早に通り抜ける。
慣れた足さばきで蓮司がエレベーターに乗り込むと、エレベーターは重く滑らかに上昇し、百合の居る十階まで蓮司を運んでいく。
蓮司が向かった外来用相談室には百合の主治医が座っていて、その後ろに看護師が控えていた。ノックをして入った蓮司は促された椅子に腰かける。
「今日はお忙しいところお越しいただき、ありがとうございます」
蓮司はしばしの静寂に耐えかねて、真っ白な机の角を視線でなぞった。
淡々と話し始めた百合の主治医曰く、未承認の新薬を投与しても肺の機能は平行線で急変もあり得るうえに、併発した別の病も快復には至っていないとのことだった。
「次の投薬で許容量に達しますので、改善が見られない可能性もあります。好転する気配があれば、こちらとしては百合さんにせめて車椅子に乗れるまでリハビリを続けてもらって、自宅での療養が可能になればと考えています」
「そう……です、か」
百合の介護という言葉が蓮司の頭をよぎる。
ゆっくりで構わないから、今後のことをご夫婦で考えるように、と言われて蓮司は席を立ち、百合の居る病室に向かった。
大学の附属病院は、海と山に挟まれている平地に立っていて、百合が入院してから、この周辺では一番の景色を眺望できる場所にもなっていると蓮司は知った。部屋に入れば、窓から溢れる真夏の光と、波間の光る海が目に飛び込んでくる。いつ来ても素敵な景色だ。
「あら、あなた。今日は少し早いんやね」
斜めにしたベッドに身を任せたままの百合のかすれた声。ひとことふたこと言葉を発するだけで、百合が繋がれているコードの先にあるモニターに表示されたいくつもの数値が上昇と下降を繰り返すので、落ち着くまで蓮司は見守る。
「あぁ、主治医と話してきたんよ」
「そう……」
百合が入院してから何か月経ったのか。蓮司はそんなことを考えながら、使い終わった百合の荷物を手際よくまとめ、窓際に腰かける。しばらく髪を切っていない百合の前髪は、しっとりとした黒い瞳よりも長く、左右に分けられて露わになっている白い額を見るたびに愛おしく思う。
「蓮司さん、わたしはやっぱり完全には良くはならんようやわ」
「あぁ、そう聞いとる」
最近の病院は患者本人に隠すこともせず、状態を説明してくれる。もちろん良いことばかりではないが、蓮司も百合も病院の丁寧な対応に感謝している。
「ホント、残念ねえ。近いところに居るのに、今年の花火を見ることができないんやから。当日は音だけでも一緒に聴ければええのに」
面会時間が終わった後には無理やんね、と明るい様子の百合に蓮司は、初めてふたりで行った地元の花火大会を思い出す。百合が用意した手荷物はレジャーシートにポテトチップスの大袋やったか。蓮司の口角がふっと上がった。
「……せやな。主治医に相談してみるわ」
わたしからも相談してみるわ、と言い終わる前に、百合の乾いた咳がいくつか部屋に響いた。
翌日、定時であがろうとした蓮司を上司の入谷が呼び止めた。
「一ノ瀬の奥さん、確か桃が好きやったやろ? これ見舞いに持っていけ」
入谷がぶっきらぼうに蓮司に差し出したビニール袋には、いくつもの桃が入っている。
「もう少し常温で置いておくのがええよ。ちょうど土日には食べ頃や」
入谷は蓮司に差し出した腕をもうひと伸ばしした。
蓮司は軽く礼を言って受け取り「百合はもう、良くならないそうなん」と消えそうな声で入谷に漏らす。入谷は何も言わず、静かに蓮司の肩に手を置いた。
蓮司が病院の駐車場に着いた頃、病棟の奥に大きく成長しオレンジ色に光る入道雲が夕空に浮かんでいた。蓮司は足早に時間外出入口から百合の病室に向かっていく。
今日の百合は何処か遠い場所に居るようで妙に大人しく、蓮司は僅かに声のトーンをあげる。
「百合、今日は上司の入谷から差し入れの桃を頂いたんよ」
蓮司は桃を備え付けのテレビ台に置く。百合が苦労せずに食べられるよう細かく刻むのが一番だろう。蓮司はスマホのメモに「果物ナイフ、皿、スプーン」と入力する。
ガッシャンという大きな音に反射で蓮司の肩が跳ねる。蓮司が驚き振り返ると、百合が握りしめた拳をオーバーテーブルに向かって再び振り下ろす。
ドンッ。
「アンタ、ここからいつ連れ出してくれるん!」
初めて見るような百合の唸るような怒声に纏わりつく視線。
未承認の新薬は、妄想と錯乱を引き起こす。副作用が出る可能性が高いのですが、と主治医が静かに言っていた。それでも微かな可能性が残っているのであればと、ふたりで選択したものだった。
どろりとした百合の視線に蓮司の背中に汗がじわりと滲んでくる。蓮司が止める間もなく、百合は目の前のテーブルに乗せているテッシュケース、ストロー付きのコップやカラトリーの類を手で薙ぎ払い、床に散らばっていった品々が暴力的な音を発し、病室から十階のフロアに響き渡っていた。
看護師たちが「一ノ瀬さんっ大丈夫ですか!」と駆けてきて、百合が暴れないよう両肩から抑えていた。
「ちょっと! なにすんっ?!」
やめて、出してと叫ぶ百合の白い腕には一筋の赤い血が流れている。妄想と自己の間で苦しむ百合と、その額に流れる汗に蓮司は視線を外すことができなかった。
狂ってる。
帰宅した蓮司は、そのままソファーに身を投げ、目を閉じる。昼夜点けっぱなしのエアコンの風で汗の残るワイシャツが身体から剥がれ落ちていくのがわかった。
白く折れそうな普段の百合とは違う、血を流し汗をかいて暴れ狂う百合の姿が焦げ付いていて、その姿を繰り返し思い出しているうちに蓮司は深い眠りに落ちていった。
せめて土日の午前中くらいゆっくり寝ていて欲しい、と思う蓮司は、仕事終わりより早めの昼食後に百合の元に向かう。
入院し始めたばかりのころ、平日の午前中に見舞いに来た蓮司は、百合の身体拭きの時間と被り、恥ずかしがる百合を見て、病室の外で待つこともあった。それに、入院している百合の午前中は主治医との問診やリハビリなどで、元気に働いている自分よりも百合は忙しいと蓮司は思う。
百合の居る病棟は、土曜だというのに看護師たちが慌ただしくしている。
蓮司は近づいてきた看護師に面会受付票を渡す。
「あ、一ノ瀬さんの夫さんですね。今朝方から微熱が出ているお話って聞いてます?」
いえ、と蓮司は短く切り、百合の居る号室に視線を送る。
「熱が上がり続けているわけでもないので、ご心配し過ぎないでください。面会、大丈夫ですよ」
看護師から解放された蓮司は、百合の病室の扉を開ける。カーテンの向こうからは、規則的な機械音が聞こえ、蓮司は息が止まっていたかのように深く空気を吐き出した。
百合の呼吸は浅く、胸元が小刻みに上下している。蓮司はベッドに近づき、寝ている百合の額にそっと手を当てる。百合の額が持つ温度は、ほのかに温かい蓮司と変わらない気がした。
百合の淡いピンク色の唇にそっと人差し指を押し当てる蓮司は、昨日の暴力的な百合の言葉を思い出し、この唇から出たのだと確認するように指で優しく押しつぶさないよう唇をなぞる。
なにか言葉が聞こえたような気がして蓮司は耳を百合の口元に近づける。
「イ……リヤ……さん」
百合から発せられた言葉に、蓮司は口元をふさぎ息を飲んだ。入谷は職場の上司で、何かと相談できる人で、それで、それで……と、蓮司は頭の中を引っ搔きまわす。
過度に飲み込んだ空気を吐き出し、蓮司は整わない呼吸のまま、微熱でうっすらと額に汗を滲ませている百合に問いかける。
「どうして、入谷なん?」
蓮司は目を覚まさない百合の頬を撫でて病室を後にした。
翌日は花火の音を聴く日だった。日が傾き青空にピンクの雲が浮かんでいる夕刻に、花火に向かう人の大河を横目に見やりながら、蓮司は面会時間もとうに過ぎた百合の病室に向かっていた。
主治医と病院の配慮、それに百合の願いを蓮司は断ることができなかった。
電灯が最低限の場所だけ点灯している病棟の廊下は、蓮司をいくぶんか安心させる。蓮司が音を立てないよう電気の点いていない病室に入ると、百合はうたた寝をしているようで、安らかにその瞳を閉じていた。
蓮司は寝ている百合に近づき、柔らかく白い百合の額から頬にかけて大切に撫でおろす。
蓮司が繰り返し撫でていると百合が次第に目覚めていくのが手のひらから伝わってきた。
「う……ん? 蓮司さん、いらっしゃい」
「そろそろ始まる時間やに」
撫でていた手を止め、蓮司は窓を開けるために百合の元から離れた。蓮司が窓をそおっと開けると、一瞬だけ、整えられた病室の空気に熱気が入り、混ざっていくのが感じられた。
蓮司はスマホで時間を確認しつつ、テレビ台に置いた桃を手に取り、百合が食べれるよう細かく、その実を潰さないよう丁寧にみじん切りにして、皿に入れる。
「甘そうな、ええ匂いね」
百合が目を閉じ大きく息を吸い、浅く吐き出す。
「きっと食べ頃が間に合ったんや」
蓮司は手元の桃から目を離さず、視線を落としたまま返事をした。
「さすがに今年は、ポテトチップス食べれへんよなぁ」
「せや、飲み込むのも
蓮司が慣れない果物ナイフで刻んだ桃は、形が揃っていないが百合の弱った力でも簡単に押しつぶすことができそうだった。
花火大会の開催を知らせる音がかろうじて病室に届く。
「少し遠いな」
「でも、十分よ」
蓮司は百合の横に座り、丁寧に桃をスプーンですくい、百合の口に運ぶ。白い肌に浮かぶ薄い桃色の唇が桃の汁で艶やかになった百合を見て、百合が独りでは何もできないのだと思うほど、狂いつつある百合の姿を思い出され甘美するような想いへと堕とされていく感覚に蓮司は眩暈する。
「ん~!」
百合の表情がパッと咲き、遠くの方で花火の上がる音がした。
「きっとこれ、川中島白桃やな。一番好きなの」
「そか、それは良かった」
そんなに詳しいなんて知らんかった。
蓮司は次ひと口をスプーンの上に用意し、百合にゆっくりと与え、百合のほころぶ顔を眺め、訊く。
「そんなに美味しい?」
「そやに? めちゃ美味しい」
その返事に蓮司は手に握ったスプーンの背で皿に残っている桃を押し潰す。
「そか、そんなに美味しいなら、これは特別な桃やな」
蓮司は慎重に桃を飲み込む百合にから目を離す。
窓から入る和太鼓のような花火の音にせかされているようで、百合の話す声も桃を咀嚼し飲み込む音も全てを止めてしまいたかった。
音だけの花火も百合に切り分けた桃も全てが終わった静かな夏の夜のなかを、蓮司は歩き、車に向かう。病院に到着する救急車の横を蓮司は意味もなく会釈する。蓮司の背中にじわりと汗が広がり、足の裏に熱を感じながら歩いた。
病院の敷地内には都会的なライトに照らされた植栽がそびえていて、蓮司はライトの元に一匹の蝉が「ジジ、ジジ」と音を出してのたうち回っているのを目にして、音を立てないよう静かに車に乗り込み帰宅した。
月曜からいつもと変わらず仕事の蓮司は、パンとコーヒーだけの簡単な朝食をゆったりと済ませ、身支度を整える。電話をかけても失礼のない時間になったのを見測り、スマホを手に電話をかける。
「入谷さん、僕です。一ノ瀬です」
蓮司は入谷が何か言い終わらないうちに、続ける。
「百合が桃が好きって、どうして知っとったん?」
蓮司の心臓が大きな鼓動を繰り返し、熱くなっていく体温で背中にじわりと汗が広がっていく感じがして、蓮司の呼吸は肩を動かすほど荒くなっていく。
蓮司は何も発さない入谷に耐えきれず、無言で電話をぶち切り玄関に向かう。
別に入谷の返事なんか求めてへんし。
戸を開けた玄関に猛暑を告げる蝉の声が広がり、夏の陽が肌に刺さるかのように蓮司に降り注ぐ。
夏が、早く終わればええのにな。
夏の果てに 霜月れお @reoshimotsuki
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