氷棺のワルツ — Saltatio sub gelōsō conditōriō —

白蛇

氷棺のワルツ — Saltatio sub gelōsō conditōriō —

—— Speculum lūnae vultūsque renīdentis aureum,

clāret et in tenebrīs frīgus in ossa cadit ——


 必ず帰ると笑った。

 冬の海を渡ってでも、と。


 二度と戻らぬ温度を、僕は抱き留めている。


 冬の夜に交わした約束を果たすために。

 空気は呼吸の輪郭すら凍らせ、針の音さえまだ響かない。



 白磁のような頬は夜気を孕み——


—— Lūmina noctis super undās gelātās natantia,

flūctibus aurītum pulsa tremōre maris ——


——触れた指先から冷たさがゆらりと這い上がってくる。

 骨を伝い、胸の奥にまで沈み込み、内側から息を凍らせた。


 長い睫毛をたたえた瞼の縁に眠るような影が落ち、

僅かに開いた唇からは、水仙の花弁にも似た甘い静謐がこぼれている。


 舞踏室——。


 蓄音機の針が微かに擦れ、薄い空気を震わせる。

 冷たさの奥で、僅かに膨らむ気配。

 調べに合わせ、腰をそっと抱き寄せた。


 翳を孕んだ黒衣の奥に潜む骨の線が、掌にじわりと沈み、静かに留まる。

 冷え切った指先が絡みつき、静けさは膚の裏に潜み、波紋のように広がっていく。


 一歩進むたび、衣の裾が床を撫でる。


—— Susurrus vestis sub nocte silente movētur,

ventōrum mollī frangitur aura levī ——


 絹の擦れる音が足下で絡まり、夜の霞とともに胸を満たしていく。


 濡れた花弁と鉄が溶け合った薫り。

 鼻腔を満たし、舌の奥で鈍く光る。

 やがて遙かな海の雫が忍び入り、肺の底を冷やかに満たしていった。

 視界の淵で灯が僅かに揺らぎ、床に沈んだ影が呼吸のように脈打っていた。


 頬を髪に寄せる。

 凍るように透明な糸が頬を撫で——


—— Comae niveōs odōrēs marisque vehēbant,

miscēns in umbrīs flāvus et aura subōbscrūra ——


——秘やかな感触の奥——熟れた果実と肉の甘い匂いが滲み出す。


 艶が喉を滑り、胸の奥で重く沈殿する。

 息の一欠片ごとに貌を交えていく。

 甘美な吐息が耳のすぐ傍で漂い、微かな動きに鼓動が揺らめいた。


 額を首筋に沈める。

 氷の表面にも似たなめらかさが膚を掠め、骨の奥にまで沁み入る。


 遠く、針が——一際軋み、影が壁を這った。

 灯火の揺らぎ、緩やかに揺れる衣と影とが、時を封じたまま——。


 陰翳を宿した絹が、ふるりと——

音は厚みを増し、薫りは果実へと熟す。

 温もりが触れ合い、呼吸が溶け合う。


 視界は淡く光に滲む。

 音も匂いも、ただ刹那のためだけに存在している。


 世界のあわいは溶け——


—— Frīgus ab āternā descendit abysso marīque,

alētur in animīs pectora mollia pāce ——


——万象が、液体の硝子の如く輪郭を融かしていく。


 何かが崩れ——底知れぬ深みへ引き摺り込まれていく。

 彼方で、世界が割れる音。

 そして——



——舞踏——若しくは夢の底に沈む溺死か——



 曲は終わり、針が空をなぞる。

 瞼の隙間から、氷の光が零れ落ちる。

 仄かな響きが遠く、水底で揺れていた。


—— Speculum lūnae vultūsque renīdentis aureum,

clāret et in tenebrīs frīgus in ossa cadit ——


 尚も呼吸は律動を刻み続ける。


 絡み合う温もりが、幽けく揺蕩いつつ——


囁きは、底知れぬ闇の奥深くへと——


時は止まらず、それでも決して進まない。


 黯く、静かに。


 帳は重く、静かに圧を増しながら——


氷の海は、絶えず流れ続けていた——

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