第八章 庭に咲くは二つの才

夕刻の廊下は、沈みゆく陽を受けて、長く引き伸ばされた影の帯が静かに並んでいた。

漆塗りの床板に映る光は橙にくすみ、遠くで軋む障子の音が時折、ひときわ鮮やかに耳へ落ちる。その影はただの夕暮れの形ではなく、澪花の胸奥に垂れ込める、形の定まらぬ翳りとどこか響き合っていた。


澪花は裾を揺らしながら歩く、足取りは静かでも、胸の奥では昨日の出来事が淡く波紋を広げている。

あの少年の姿——夕景の中に立ち、逆光に溶けかけた輪郭。どうしようもなく颯真と重なり、息を詰まらせたあの一瞬。

理由は分からない。けれど、その感覚は持て余すほど異質で、ふとすれば胸の奥を内側から撫でる棘のように疼く。


「澪花。」


名を呼ばれ、振り返った瞬間——そこに、颯真が立っていた。

直線の背筋、揺るぎない眼差し。けれど、それがかえってあの面影を呼び起こし、胸の奥をざわめかせる。


「どうした?」


短い問い。

息を詰めたのはほんの刹那だった。澪花はかすかに微笑み、「なんでもありません」と首を横に振る。

その笑みが、頬の奥の不安を覆い隠すためのものだと、彼に気づかれないように。


だが、二人の間にふっと落ちた沈黙は、容易く解けることなく、廊下の空気を淡く張り詰めさせた。

触れれば弾けそうな薄氷のような気まずさが、足元に影を落とす。


「澪花殿、……ですか?」


声が割って入った。

角の向こうから、颯真と同じ家紋を袖に抱いた青年が現れた。

すらりとした背丈、品のある物腰。

足音をすっと止め、澪花へ向き直る。


「初めてお目にかかります。篠宮 要と申します。

 篁家とは縁浅からぬ家の者にございます。」


澄んだ声が、夕刻の空気を滑る。

一礼したその所作は、礼法の型をそのまま映したかのように淀みなく、袖口から覗く指先にまで神経が行き届いていた。

白檀の香がふわりと立ち、澪花の呼吸をわずかに深くさせる。


名乗りに応じると、彼はふっと表情を緩めた。

先程までの厳かな面影がほどけ、瞳に柔らかな光が宿る。


「従兄上から噂は聞いてますよ。……まあ、あまり畏まらないでください」


その声は、初対面の距離をあっさり縮める温度を帯びていた。

この落差が、初対面の印象に鮮やかな余韻を残した。

澪花は一瞬戸惑いながらも、礼を崩さず会釈をする。


「ちょうどいい、これから鍛錬に行く、お前も来るか?」


颯真が、やや低めの声で切り出した。

要も肩を揺らし、微笑みかけてくる。

「ちょうど稽古に付き合ってもらうところなんです、澪花殿も気分転換にご覧になります?」


澪花は心のざわめきを抱えたまま、小さく頷いた。




◇◇◇




鍛錬場は、霊桜の根が遠くまで張る庭の一角にあった。

夕暮れの風が枝を渡り、花びらをひとひら、またひとひらと舞わせる。

その足元には、長年の鍛錬で踏み締められた砂地が広がり、踏むたびにかすかな音を返す。


澪花は桜の幹の陰に据えられた長椅子へ腰を下ろし、膝の上で静かに手を重ねた。背後からは花と樹皮の香が淡く漂い、時折、枝先からこぼれた花片が髪に触れては落ちていく。


颯真と要は庭の中央で向かい合い、短く礼を交わした。

その動きは無駄がなく、互いの呼吸がぴたりと重なるのが傍目にもわかる。

柄に添えられた指がわずかに締まり、足先が砂を払うと、夕暮れの空気が一段と張り詰めた。


——花びらが一枚、二人の間をゆっくり横切る。


そして、刃が抜かれた。鋼が夕陽を反射し、橙色の光が閃く。

刀が交わるたび、鋭い鋼音が霊桜の枝に反響し、そのたびに花片は光を孕み、空気ごと震わせていった。


颯真と要が打ち合う姿を見つめるうちに、澪花の視界がかすかに曇る。

耳に届く金属音が次第に遠のき、色が淡く滲む。

その揺らぎの奥から、薄膜を破るように別の景色が忍び寄る。


——そこにいたのは、まだ若い二人の男。

背格好も雰囲気も、今まさに目の前で鍛錬を交わす颯真と要を思わせた。

けれど誰なのかは分からない。名も知らず、声もなく、ただ輪郭と仕草だけが重なるように映る。

夕色に包まれたその光景は、夢の断片のように淡く、しかし確かな既視感を伴って澪花の胸を締めつけた。


小さく首を振った瞬間、視界の靄は裂け、再び鋭い刀の音が耳を打った。



「ふぅ……ここまでにしよう。」


颯真が息を吐き、刀を納める。

要も笑みを含んだまま刃を収め、「さすが、従兄上」と軽口を叩いた。



——その直後。


颯真はわずかに澪花から距離を取るように背を向け、夕映えの中で肩を揺らした。

衣の隙間から黒い呪紋が一瞬浮かび、唇から赤が滲む。

背を向けていたため、澪花にはただ「息を整えているように」見えるだけだった。


「主よ……!」

影から現れた朧月が駆け寄る。抑えきれぬ焦りが声ににじむ。


「……誰にも言うな」

鋭い低声で釘を刺す颯真。


朧月はなおも唇を震わせ、「今のままでは持たん」と掠れ声を落とした。

だがその言葉は、花散る風にさらわれ、澪花の耳には届かない。


袖で血を拭い、表情を整えた颯真は、何事もなかったように振り返った。


「……澪花、何かあれば必ず俺に言え」


声は低く、芯を持った温度を帯びている。

それは命令にも似た響きだったが、その奥にあるのは確かな案じる気持ちだった。

澪花は短く頷く。けれど胸の奥では、安堵と同時に説明できぬざわめきが重なり、心の水面を揺らしていた。


「澪花殿」


颯真が先に歩き出した隙に、要が澪花へ身を寄せる。

声を落とし、口角をわずかに上げた。


「もし、従兄上に言いづらければ俺に言って。力になるからさ。…まあ、頼りないかもしれないけど」


冗談めかしながらも、その瞳の奥に確かな温度が灯る。

澪花は曖昧な笑みで応えたが、胸のざわめきは霊桜の枝のように絡まり、ほどける気配を見せなかった。

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霊桜契り抄 朝霧一樹 @asagiri0124

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