第六章 陽だまりに解ける帯
昼餉前の篁邸は、日脚が差し込み始めた座敷に、穏やかな温もりと、忙しげな気配が交じり合っていた。廊下を行き交う侍女たちの衣擦れや、器が触れ合う軽い音が、淡く響いては遠ざかっていく。
澪花は襖をそっと開け、慌ただしく動く背中を目で追った。
昼餉の支度で皆が手一杯なのは明らかだった。声をかければ、その流れを止めてしまうだろう。
——せめて、自分の支度くらいは、嫁いできた者として自分で整えたい。
そう胸の奥で決め、澪花は静かに部屋へ戻った。鏡台の前に正座し、深く息を吸う。
見よう見まねで袖を通し、帯を回す。だが半襟はすぐ歪み、裾は左右で長さが異なり、帯は意思を持ったかのように解け落ちる。何度直しても形は保てず、指は焦りに震えた。
「……どうして……」
額にじんわりと汗が滲み、唇をきゅっと噛む。
やがて帯の端を握ったまま、畳に膝を投げ出し、肩を落とした。
廊下の向こうから、昼餉の支度を知らせる器の音や、侍女たちの足音がかすかに届が澪花は動く気配を見せなかった。
その頃、食卓の席に澪花の姿が見当たらないことに気づいた颯真は、廊下を進んでいた。
招かれた身でありながら遅れているとあれば、様子を確かめるのは当然のこと——そう判断した。
あくまでもこれは安否確認も込めと。自分に言い聞かせる様心の中で呟きくも歩む速度は次第に早まる。
戸口の前で立ち止まれば、軽く息を整えると、静かに声をかけた。
「……入るぞ」
はっとして顔を上げ、慌てて息を吸い込む。
「ま、待ってくださ……」
だが、その「待って」は最後まで届かない。
襖が開いた瞬間——
肩から着物が滑り落ち、白磁のような肌が朝の光に溶けていく。帯はゆるく解け、裾が乱れて太ももの線が淡く覗く。透けるような乱れ髪が頬に触れ、そこには薄紅が灯っていた。
「ち、違うんですっ! 皆さん忙しそうで……せめて、自分でっ……!」
説明とも弁解ともつかぬ言葉が、熱を帯びて震えながら零れた。羞恥と焦りが入り混じり、瞳に光が滲む。
縋るようなその眼差しが、颯真の胸奥へひとしずくの波紋を落とす。
時がわずかに滞り、空気が密やかに色を変えた。
まるで掌から零れそうな淡雪を、息も詰めて見つめるような——そんな一瞬が過ぎる。
吐息の奥で何かが微かに脈打ったが、それを表情に滲ませぬよう深く沈めた。
「……少し、動くな」
落ち着いた声に、澪花は「だ、大丈夫です……自分で……」と掠れた声を返す。羞恥心は募るばかりだ。
だが颯真は一歩近付き、帯の結びを一瞥して静かに言い切った。
「いいから」
背後に回り、帯を持ち上げる。
その瞬間、指先がうなじの際をかすめ、ひやりとした感触が澪花の背筋を駆け抜ける。耳元すれすれに衣擦れと吐息が触れ、胸の奥で鼓動が急かされるように速まった。
颯真の手は迷いなく動き、帯を整える。だが、ふと視界の端に映ったのは、襟元からのぞく白い首筋。光を受けて柔らかく浮かび上がるその線に、意識せず目が留まる。追うつもりはなかった。なのに、視線は自然とそこへ辿り、輪郭が心の中にくっきりと映っていく。
背から包み込むように帯を締め上げ、その所作は冷静を装いながらも、一瞬だけ布越しに温もりを残した。
澪花は、それを気付かぬふりで受け止めた。
結び終えると、颯真は澪花の前に回り、何事もなかったように視線を合わせる。
「行くぞ」
短く告げて廊下へ向かう背に、澪花の足は自然と続いた。
昼前の光が畳に柔らかく広がり、二人の影を淡く包み込んでいた——。
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