第五章 夜明けの影
夜明けの気配がまだ薄墨色の空をゆるやかに染めはじめた頃、澪花は浅い夢の底から引き上げられるように瞼を開いた。
微かな花の香りが鼻先をくすぐり、遠くで水面を渡る風が音を立てる。それは昨夜の儀式の残り香のようで、胸の奥に淡い熱を置き去りにしていく。
あの光の渦の中で見上げた、金色の視線——ためらいなく差し伸べられた掌の温もりが、まるでまだ自分の指先に息づいているようだった。
息を吐くたび、その情景が胸の内に花弁のように降り積もる。澪花はそこから逃れるように上体を起こし、障子に手を掛けた。
障子を開け放つと朝の光が庭を洗い、夜露を含んだ花びらがひとつひとつ、透き通るほどの輝きを宿していた。霊桜の枝先がわずかに揺れ、その度に細やかな光がこぼれ落ちる。
見惚れていた足が、自然と縁側へと運ばれる。白い木肌の板が、まだ夜の冷たさを残して足裏をひややかに撫でた。
庭先を見渡すと、薄く霞んだ空気の向こう花びらの雨が絶え間なく降っている。澪花はゆっくりと庭へ降り立ち、石畳の上で立ち止まった。
指先に触れる風はやわらかく、しかし奥に微かな張り詰めを含んでいる。
——その時だった。
「……もう起きていたのか」
振り向けば、朝支度を終えた颯真が廊下に立っていた。朝日が差し込む角度で、その輪郭が淡く光を帯びる。
彼の視線が、澪花の頬から髪先へとわずかに移る。昨夜、儀式の中で見た姿が脳裏をかすめたのか、その眼差しには言葉にならぬ一瞬の揺らぎがあった。
「ええ……庭が、あまりに綺麗で」
澪花がそう答えると、彼は霊桜の方へと視線を流し、短く告げた。
「加護があるとはいえ、昨夜のようなことがあれば危うい。……庭先でも、一人で歩き回るな」
その声音は命令めいているのに、わずかに柔らかさが滲んでいた。
澪花は頷くと、裾を返し颯真のもとへ歩み寄る。
廊下の影に踏み込んだ瞬間、外気の匂いが薄れ彼の気配が近くなる。
ほんの一歩分の距離が、庭の花よりも胸を高鳴らせることに、気づかぬふりをした。
ほんの一拍の沈黙の後、彼は小さく、しかし確かに言葉を落とした。
「……無事で何よりだ」
それだけを残し、彼は歩みを引いた。
⸻
午前になると、侍女が屋敷の案内に訪れた。
渡り廊下の両脇には、四季折々の花を植えた中庭があり、淡い香が漂っている。書院の障子越しには、墨の香と静かな影が満ちていた。
やがて辿り着いたのは、霊桜の古木を囲む池のほとり。水面には花びらが幾重にも浮かび、小さな社が枝の下に寄り添っている。
「この社には霊桜の加護が宿っております。……結界の儀も、もとは屋敷に迎えた方を守るためのもの」
侍女は静かに説明するが、その瞳には微かな緊張が宿っているように見えた。
ふと、澪花の足が止まる。
池の対岸——桜の影の中に、人影が立っていた。
白い着物に身を包み、輪郭は陽炎のように揺らぎ、はっきりと形を結ばない。確実にそこには存在する何かを感じるのに……ただそこに影がない。
そう、地に落ちる影だけが欠けている。
「欠け」が、澪花の胸をひやりと撫でた。
見開いた瞳に、その姿はなおもまっすぐ向けられている。風が止み、花びらだけが宙にとどまったかのような錯覚に包まれる。
「どうした?」
背後から颯真の声がして、振り返った瞬間にはもう彼がすぐそばにいた。
立ち位置は澪花を庇うようで、その存在感が背筋に温もりを伝える。
「……いえ」
視線を戻すと、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、池の水面に花びらが落ち、静かに波紋を広げていた。
侍女は気づかぬ様子で説明を続けている。
澪花は耳を傾けながらも、自分の心音の方がずっと大きく響いているのを感じた。
昨夜の温もりと、今の視線。
義務のはずの婚姻の中で、知らぬうちに芽吹いた何かが、音もなく広がっていくのを——彼女はまだ名付けられずにいた。
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