第1話

 東京・丸の内にそびえる「ホテル・セレスティア」は、表玄関をくぐった瞬間から外界の喧騒を切り離す。天井三階分の吹き抜けを覆うシャンデリアの光は柔らかく、足元の大理石には波紋のように反射する。チェックインカウンターの奥には生けたばかりの白百合が香り、空調の低い唸りとピアノの旋律だけが耳に届く。今宵は政財界や海外の著名人が集まる晩餐会が開催されており、ロビーには着飾った客が行き交い、笑顔と低い声が交差していた。

 その奥、従業員用の通路は別世界だった。蛍光灯の白い光に照らされた狭い廊下を、ホテル総支配人・水谷慎吾が無言で進む。背後には黒のスーツに身を包んだ高橋司警部補と、村田俊介巡査部長がつづく。水谷の顔には緊張の色が濃く、歩みは早い。

「他のお客様には……絶対に知られたくない」

 振り返らずに放たれた声は低く抑えられていた。

「わかっています。こちらも目立つ動きはしません」高橋は短く応じ、視線だけで後ろの村田に合図する。村田は肩に提げた革製の小型鑑識バッグを軽く持ち直した。制服警官はいない。すべてスーツ姿。足音は絨毯に吸い込まれていく。

 従業員用エレベーターが静かに上昇し、最上階のさらに上、ペントハウス専用階で止まった。カードキーと暗証番号がなければ到達できない領域。廊下は厚いカーペットと深い色の壁で覆われ、中央には高価な絵画が飾られている。灯りはやや落とされ、外の夜景がガラス窓越しに滲んで見えた。

 ペントハウス・スイートの前には、既に二人の鑑識員が待機していた。扉は半開きで、ホテル特有の甘い香りに混じって、微かに金属の匂いが漂う。

「こちらです」水谷がドアを押し広げた。

 高橋が足を踏み入れる。絨毯の感触が足裏に伝わる。広々としたリビング、奥にはキングサイズベッドが置かれた寝室。そこに――それはあった。

 藤堂秀一。財界の重鎮にして、このホテルの最上級顧客。白いシーツに仰向けに横たわり、喉元には深く鮮やかな切り傷。血はすでに乾きかけ、黒ずみ始めている。顔は穏やかにも見え、まるで眠っているかのようだった。

「時間は?」高橋が訊く。

「発見は二十二時ちょうど。第一発見者はベルスタッフの三宅です」水谷の声は震えていた。

「窓は?」

 村田がバルコニーの扉を確認する。「内側のロック、外側の鍵、両方掛かってます。割られた形跡なし」

「玄関ドアも同じく内側からチェーンロック。マスターキーで外すのに手間取りました」鑑識員が補足する。

 高橋はベッドに近づき、遺体の喉元を覗き込む。傷は一直線で迷いがなく、刃物の切れ味は相当だ。枕元には高級ウイスキーのボトルと、半分残ったグラス。氷はほとんど溶けきっていた。

「毒物反応はこれからですが……」岩永鑑識官が呟く。

「グラスは指紋採取してくれ。本人以外のが出れば話は早い」高橋は低く言った。

 室内は異様なまでに整っていた。床に乱れはなく、家具も動かされた形跡はない。まるで事件が存在しないかのような“静謐”が支配している。それが逆に、ここが現場であることを際立たせていた。

「水谷さん、この部屋に今日入ったのは誰ですか?」

「本日のルームサービスは私が許可したスタッフのみ。食事はシェフの八木が調理、配膳は黒田コンシェルジュが担当しました」

「黒田さんは今?」

「バックオフィスに。事情を聞かれるのを承知しています」

 高橋は頷き、村田に指示する。「ベルスタッフの三宅も別室に。話を聞く」

 窓外には、東京の夜景が宝石のように広がっている。その美しさが、ベッドの上の死をより冷酷に見せていた。高橋は視線を外さずに考える――この密室を作り出したのは偶然か、それとも綿密な計画か。答えはまだ遠い。

 カーテンは天井から床まで届く深紅のベルベット製で、昼間は光をやわらかく遮り、夜は街明かりを遮断する。しかし今、その片方だけがわずかに寄っていた。床のカーペットには目立つ足跡はないが、その微妙なずれが高橋の目にとまる。

 外の夜景は、磨き抜かれたガラス越しに霞のない冬空を背景にしている。眼下には皇居の黒い森、さらに遠くには首都高速のライトが連なる。街全体が静かに脈動しているようだった。

 高橋は深く息を吸う。鼻腔に入るのは香水の残り香――藤堂が愛用していたものだとすぐにわかる。甘さの中にほのかなスパイス。だがその奥に、ごくかすかに金属の匂いが混じっていた。血の匂いが高級ホテル特有の芳香に覆われ、違和感はごく薄い。

 村田が控えめに声をかける。「三宅さん、到着しました」

 隣室に移動すると、そこは応接用の小部屋だった。低いテーブルには、冷めかけたコーヒーが置かれている。ソファの端に座る若いベルスタッフが三宅だ。制服は整っているが、手の甲が小刻みに震えている。

「発見時の状況を教えてください」

 三宅は喉を鳴らし、言葉を探すように視線を落とした。「……ルームサービスのトレイを下げに伺いました。ドアをノックしましたが、応答がなくて……でも中からかすかに音がしたような気がして」

「音?」

「はい……グラスが当たるような、小さな音です」

 その瞬間、高橋は頭の奥で何かが引っかかる感覚を覚えた。

「それで?」

「マスターキーで入ろうとしましたが、チェーンが掛かっていて……。中を覗くと、ベッドの上で……」

 声が震え、続きは言葉にならなかった。

「チェーンが掛かっていた時間、間違いないですね」

 三宅は強く頷いた。

 部屋に戻ると、黒田コンシェルジュが待っていた。四十代半ば、淡い灰色のスーツに身を包み、立ち姿も美しい。彼女の微笑は揺るがず、しかし瞳の奥には冷ややかな緊張が潜んでいる。

「ルームサービスを運んだのは私です」黒田は落ち着いた声で言った。「藤堂様は終始ご機嫌でした。ワインを勧められましたが、私は仕事中なので断りました」

「食事のあと、誰かこの部屋に入るのを見ましたか」

「いいえ。ただ、廊下で見慣れないスーツ姿の男性を見かけました」

「宿泊客ですか」

「わかりません。顔はよく覚えていませんが、香水の匂いが強かったのを覚えています」

 その言葉に、高橋はもう一度ベッド脇の香りを意識する。藤堂の香水とは微妙に異なる、より強い甘さが混じっている。

 視線を室内に巡らせると、書棚の一角で一冊だけ埃のない本があった。題名は『静寂の庭』――豪華装丁だが、ホテル備え付けのものであり、客が触れることは稀だ。指先で背表紙をなぞると、わずかに温もりが残っていた。

「これ……誰かが最近手に取ったな」

 村田が近寄る。「隠し場所にでも?」

「わからない。だがこういう“整った中の小さな乱れ”が一番気になる」

 外ではピアノの音が一段と低くなり、静けさが増す。ホテル全体が、この部屋の存在を忘れようとしているように思えた。

 高橋は再び窓辺に立つ。夜風はガラスの向こうで凍りつき、室内の温かさとの境界が明確に感じられる。その境界線を越えて犯人が出入りした痕跡は、今のところ何もない。

 ――だが、完全な密室など、この世には存在しない。

 高橋はゆっくりと目を閉じ、香り、温度、光の向きを記憶に刻みつけた。この部屋が語る言葉は、まだ沈黙の中にある。


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