4 アズマイル・ブーケ

    4


「やあよく来てくれたな。何、散らかっていて悪いが楽にしてくれ。ザナイェールが終わるまではうちのゼミ生も来ないから寛いでくれて構わない」

 アズマイル・ブーケは自分の研究室を右往左往しながらせわしなく書類を束ねつつ、早口にそう告げた。

 あまりにも慌ただしそうな様子を見て邪魔をしては悪いと思い、クラリエ・ベールルとミレイア・ライツの二人は大人しくソファに腰を下ろす。

 手持ち無沙汰なまましばらく待っているとようやく一段落ついたのか、アズマイルはパイプ椅子にどかりと腰を掛け、眠そうに大きくあくびをした。

 彼女はおもむろに懐から煙草を取り出して咥える。小指をピンと立てるとその指先から小さな炎が生じた。

 言うまでもなく小威力の炎魔法だ。クラリエは煙草を吸わないが、ライターも不要ならばさぞ便利なことだろうと思った。

「ん、すまない、つい癖でな。煙は駄目か?」

「いえ、私は構いません」

 ミレイアのほうを見ると、彼女もとくに否定の意思は示していなかった。

「では遠慮なく」

 それを見たアズマイルは美味そうに吸い、煙を吐き出す。見れば卓上の灰皿には山のように吸い殻が積もっていた。相当なヘビースモーカーだ。

 灰を落とし、アズマイルは煙を吹かしながら言葉を発した。

「ときにライツ君、こうして面と向かって喋るのは何気に初めてだな。君には礼を言わなくてはならない。シャノンが怪我を負ってから二か月、身の回りの世話や面倒事を君に押し付ける結果となってしまった」

「気にしないでください。シャノンは大切な友達で、同じ信仰を抱く同胞です。助けるのは当然のこと」

 それを聞いたアズマイルは「妹は良い友達を持ったな」と言い、微笑ましい表情を見せた。

 すると白衣の内ポケットからある物を取り出し、ミレイアの目の前に置いた。

「どうか君にこれを受け取ってほしい」

 それはやけに分厚い封筒だった。端から見ていたクラリエもその中身についてはおおよそ察しがついた。

 もしそうだとするならば、学生からすれば大金と呼んで差し支えない額のはずだ。

「受け取れません、こんなの。お金のためにシャノンを助けていた訳じゃない」

 ミレイアは困惑気味に封筒を突っぱねる。だが差し出した当人も決して譲ろうとはしない。

「私はシャノンに介助士を雇うべきと提案したさ。もちろん金は私が立て替えてやれる。でもあの子はそれを拒否したんだ。あの子の学費は私が出している……これ以上私に金銭的負担を掛けたくなかったんだろう。だがその独善的な謙虚の姿勢によるしわ寄せは一体どこへ向かった?」

 ミレイアのほうをじろりと睨む。彼女が慣れない車椅子の介助でこの二か月間、相当な苦労を強いられたのは想像に難くなかった。

「知人にただで尽くして貰ったなど、それでは私のプライドが許さない。その金は君への労いの意味だけではない。私の面子のためにもどうか貰い受けてくれないだろうか」

「……分かりました。これは受け取っておきます」

 ついに諦めたのか、ミレイアは封筒の中身を検めもせず上着の内ポケットにしまいこんだ。アズマイルは満足げな表情を見せ、そして今度はこちらに声を掛けてくる。

「それでベールル君、現場を見て何か分かったことはあるかい?」

「いえ、まだ確証を得られた訳では。貴方にもいろいろ訊きたいと思って参りました」

「ああ、私に協力できることであれば何でも聞いてくれ」

 クラリエは手帳を取り出し、ペンを構える。もはや記帳癖と言ってもいい。

「アズ先生、貴方方姉妹は十年前に火災でご両親を亡くされているそうですね」

「ほう、魔導監査は情報が早いね。それは事実だ。あの時は親父の寝煙草が原因だったがね……忌むべきそれを今や私もこうして愛好してしまっているんだな」

 皮肉っぽくそう言って手に持っていた煙草をちらつかせる。

 それを聞くとミレイアは「そうなの?」と意外といった顔でこちらを見る。

「おや、シャノンから何も聞いていないのかい」

「家族のことなんてあまりプライベートな話に首を突っ込むべきではないから。でも、だとすると……」

 ミレイアの言葉を引き継ぐかのように、クラリエは疑問を呈した。

「だったら何故、シャノンさんは炎宗教であるフリッツリートを信仰しているのでしょうか」

「君が疑問に思っているのはシャノンの信仰についてだけじゃないはずだ。私がこの学園で何を研究し教えているか、忘れた訳ではないだろう?」

 ニヒルに笑むアズマイルをよそに、クラリエはやや暗い様相だった。

「もちろん覚えていますよ。……炎魔法の教授ですよね。だからこそ分からないんです。シャノンさんが炎魔法を信仰することも、アズ先生が炎魔法を研究していることも。私だったらトラウマになって炎には二度と関わりたくないと考えるでしょうから」

「ま、一般的な拒絶反応ならベールル君のそれは正常だしおそらく正解なのだろう。だが私は……というより私達姉妹はそう考えなかった」

 アズマイルはどこか遠くを見つめる。

「私はな、脅威から身を守るにはまず敵を知ることからと考えたんだ。もちろん両親を奪った炎が憎い。だからこそ私は炎に執着して炎を知り尽くし、炎の全てを克服してやろうと思い立ったのさ。その結果がこれ、君もよく知るところの今の私と成った訳だ」

 そう言って残り僅かとなった煙草を灰皿に押し付ける。火は揉み消され、やがて煙も立たなくなった。アズマイルは「そしてシャノンは」と前置きして続ける。

「あの子は私と真逆の道を選んだ。炎と争えば牙を剥かれる。ならば炎を受け入れて味方につけ、迎合することにした。その手段がフリッツリート教だったという訳だ」

 ミレイアのほうをちらりと見る。シャノンがリートを信仰するようになったその要因を知っていたのかそうでないのか、表情からは読めなかった。

「どちらにせよ、私達姉妹は手段こそ違えど炎に立ち向かってトラウマを克服してきた。これを決して不正解だとは思ってほしくはないな。今すぐ考えを改める必要こそないが、これももうひとつの正解だ、と頭の片隅に留めておいてくれると嬉しいんだ」

「ええ、分かりました」

 彼女ら姉妹の考えはとても意志が強く、そして気高いと感じた。家族を不幸に陥れて命を奪い去った炎に正面から向かい合って克服するなど、そう簡単にできることではない。少なくともクラリエには難しい。きっと逃げ出してしまいたくなる。

 だからこそ、そんな勇敢な彼女をまたしても襲った災禍が理不尽でならないのだ。

「火災のあった時は何処にいらっしゃいましたか?」

「この研究室で論文を書いていた。集中してたものだから、消防のサイレンが鳴るまでは火災には全然気付かなかったがね。残念ながら一人だったからアリバイは無しって奴だな」

 アズマイルはお手上げといったポーズを見せる。

「アズ先生。今回の一件、そして二か月前の事故。いずれも同じ現場で起きているのは単なる偶然とは思えません」

「ああ、私も同意見だ。尤も二か月前の件について私は不幸な事故だと思っているがね」

 事件性はなかった、と考えているらしい。副会長のサブリナの噂について知らないのだろうか。

「二か月前、シャノンさんが事故に遭ったその日の様子はどうでしたか?」

「あの日は学会があって遠出をしていたんだ。理事長から連絡があって急いで病院に向かったんだが、到着がその翌日になってしまった。シャノンは一晩経って心の整理がついたのか、至極穏やかな様子だった。何、本当に強い子だよあの子は。……ただあの日以来、私はシャノンが笑うところを一度も見ていない。固く心を閉ざしてしまったんだ」

 可哀想に、と顔をうつ伏せる。部屋はどうにも重苦しい雰囲気に包まれてしまう。

 何か声をかけるべきか推し量っていた矢先、今まで押し黙っていたミレイアが口を開いた。

「あの、サブリナという女学生に心当たりは?」

「件の噂のことだな」

 それはクラリエも尋ねようとしていた質問だった。どうやらアズマイルも噂については知っていたようだ。その上で事件性なしだと判断していたことになる。

 アズマイルはこちらの言いたいことを雰囲気で察したらしい。

「何、噂なんてものは嫌でも耳に入ってくるものだからな。それもシャノン自身に尋ねたことがあるが、彼女は『無関係だ』の一点張りだったよ。……優しい子だからな。だったら私は姉として、妹の言うことを信じるしかないだろう? だからサブリナは無関係。噂はただの噂さ」

「そう、ですか……」

 顔色こそ変わらないものの、声は落胆しているように聴こえる。

 だが、ミレイアの質問の切り出し方はやや強引だったように思える。何故彼女はシャノンではなく、サブリナに関する質問を繰り出したのだろう。それは本来クラリエが訊くべき質問だ。

 彼女は、今回の火災を引き起こした犯人がサブリナだと考えているのだろうか。

 サブリナは休学中と言えどもこの学園に所属しているのだから出入りは容易だし、校友会のメンバーが全員揃って食事へ出掛けるほど仲の良いことも承知しているはずだ。すなわち昼休みに建物が留守になることも知っていることになる。

 だとすると、校友会の舞台を台無しにしてやろうと考えていたのはシャノンではなくサブリナだったのかも知れない。

 主演の座を奪われ、そして取り返しのつかない過ちを犯してしまった忌むべき舞台。留守の隙を突いて忍び込んだところ、偶然シャノンに目撃されてその口封じに――。

 いやいや、と自分の考えを自分で否定する。

 二階の現場でサブリナの犯行が目撃されたのだとすれば、やはりエレベーターの使えない状況で車椅子のシャノンが二階にいた説明がつかない。

 よしんば建物の一階や屋外で目撃されていたとして、シャノンを遺体発見現場の二階へ連れていくにはやはりエレベーターを使うだろう。エレベーターの中身を見れば、サブリナにはそれが本番の舞台で使うはずだった資材であることは分かったはずであり、舞台を台無しにしたかったのであればそれを野放しにする訳がない。

 エレベーター問題は想像よりも根が深い。あるいは単に動機を履き違えているだけかもしれないが。

 ううむ、と頭を悩ませていると、研究室の奥に重厚な扉が備わっているのが視野に入った。

「そちらの扉には何が?」

「ああ、私の研究には欠かせない設備さ……気分転換にどうだ、少し覗いていくかい?」

 そう言ってアズマイルは立ち上がって懐から鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

 カチャリと音がして開いた扉の先には地下へと続く下り階段が備わっていた。のぞき込むが奥は真っ暗で何も見えない。

 壁際のスイッチに触れると天井の電灯に明かりが灯った。無機質なコンクリート製の壁面を手でなぞりながら下っていくとやがて開けた部屋に着いた。

 中央には透明な耐熱ガラス製の壁が設けられており、部屋を二つに分断していた。

 向かって手前には何やらボタンやダイヤルのついた複雑な装置が据え付けられており、ガラス壁のあちら側へ向かって筒状の部品が真っ直ぐ伸びている。

 奥の部屋には何も置かれてはいないが、代わりに床や壁はところどころ真っ黒な色が付着していた。

「これはいったい……」

「燃焼実験の設備さ。私の前任の教授が学園に無理言って作って貰ったらしくてね。それを有り難く使わせてもらってる」

 アズマイルは誇らしげに語る。奥の部屋に見える黒い汚れは実験による焦げ付き跡だろう。

 このような地下室で燃焼実験など危険ではないかと思ったが、天井には幾つものファンが並んでいるのが見えた。換気は滞りなくできるようだ。

「この装置はなんでしょうか?」

「お、興味津々だねベールル君。やはり秀才は実験道具を見るだけで血が騒ぐのかい?」

 クラリエはつい興味本位で尋ねてしまった。学生気分が抜けきっていないようで、それを恥じた。

「これは私が手作りした魔巧まこう。端的に言えば火炎放射器だな」

 やはりそうかとクラリエは納得したが、ミレイアのほうはやや疑わしげな視線で装置を見つめていた。

 当たり前の反応だ。普通の研究室には火炎放射器など置かれているはずもないのだから、ただでさえ火災によってセンシティブになっていれば尚のこと穿って見てしまう。

「例えばベールル君の扱う炎魔法と、ライツ君の炎魔法の性質を比較して検証しようとする。その際に最も重要なポイントは何だろうか?」

 アズマイルはまるで授業中であるかのようにクラリエを指す。

「両者の魔法を全く同じ条件で顕現させること、ですね?」

「その通り。成績優秀な君達には今更説明しても詮無きことだろうが――」

 特別講義でも始まったのか、魔法の基礎知識を語り始める。

「我々魔術師は大気中に無数に存在する魔力をエネルギー源として『魔法』という現象をこの世に顕現させる。肉体を媒介として魔力を取り込み、体内で己の魔法能力と結合させ、そして解き放つ。これが基本だ」

「ですがそれだと術者の技量およびその日の体調によっても実験結果が左右されることになる。そこでこの魔巧を使って定量の魔力を取り込めるように調整するのですね」

「そうだ。こいつを使ってな」

 アズマイルはあるものを取り出し、クラリエとミレイアにそれぞれ手渡した。

 手のひらに収まる程度の無色透明な石ころだ。

純魔石じゅんませきですか。……もしかして今からその実験をなさるおつもりですか?」

 魔石――魔法の能力そのものを保存できる摩訶不思議な鉱石だ。魔法を操れる者であれば己の力を石に込め、閉じ込めることができる。その魔法を込める前の、無色透明のそれは純魔石と呼ばれている。

「かつての首席と、学園でも屈指の炎魔法の実力者と名高い噂の新入生が並んでるんだ。この目で観測したくなるのが研究者としての性だろう? 魔石の使い方はもちろん分かるね?」

 自身の評判はともかく、ミレイアが学園でそのような評価を受けていることには少々驚いた。

 炎魔法が得意な、真っ赤な髪を持ち、誠に信心深い彼女――伝承上の炎神フリッツリートにそっくりで、本当にその生まれ変わりなのではないかとさえ錯覚させられる。

 クラリエは小さくため息をつく。研究者がこうなっては何を言っても聞かないだろうから付き合ってやることにしよう。

 純魔石を握って目を閉じ、掌から炎が顕現する様子を強くイメージする。やがて手の中に熱を感じたものだから、目を開けて指を開く。無色透明だったその石は内側で濃い赤色が揺らめく炎魔石へと変質していた。

「ほう、赤色が濃いな。さすがは歴代一の秀才といったところか」

 これでクラリエの扱う炎魔法が魔石に複写されたこととなる。ここに外部から魔力を流しこんでやれば、クラリエの操る炎魔法が再現できるという訳だ。これは魔巧の仕組みに通じるものである。

 アズマイルはガラス壁の向こう側に、腕で抱えられる程度の丸太を設置した。

 こちら側へ戻ってきた後、魔石を火炎放射器にセットして何やらダイヤルやゲージをいじり始める。そして赤色のボタンを押すと同時に大きなブザーがビーと鳴り響いた。

 次の瞬間、ガラス壁の向こう側では巨大な炎の渦が炸裂し、一面を赤く染め上げた。

 これはクラリエ自身の炎魔法であるため見慣れたものであったが、隣のミレイアは少々驚いているようだった。

「おお、これは凄いな! 私のゼミ生でもここまでの実力者はいないぞ」

 感嘆の声をあげたのも束の間、数秒で炎は掻き消えた。

 天井に備えられたファンが唸り、焦げ臭さを外に排出していく。さっきよりも壁の焦げ付きが心なしか広がったようにも見える。

 中央に置かれた丸太は表面こそ真っ黒になっているが、元の形状を保ったままだ。たった数秒であればこの程度だろう。この火力を例えば一時間も射出し続ければあの丸太程度ならば容易く灰にできる。

 だが、それがもし人間相手だったらどうなるのか。事件現場で撮影された遺体の写真を思い出してしまう。

 もちろん人間を燃やしたことはないが、これ程の威力をもってしても骨や歯までもが完全に灰になるビジョンが全く見えないのだ。

 興奮冷めやらぬままといった様子でアズマイルはこちらを振り返る。

「これは良い記録が取れた。さあ次はライツ君の番だ」

「い、いや私は……」

 もごもごと魔石を後ろ手に隠そうとするも、アズマイルは軽やかな足取りで背後に回り込んでそれを取り上げた。

「ん……?」

 それを部屋の蛍光灯に掲げて透かして見る。向こう側が透き通って見える程度の微弱な赤色だった。

「見た目は……かなり薄めですね」

「確かに強力な魔法は魔石の色も濃くなる傾向にあるが、概ねの指標に過ぎない。実際に使ってみないことには断定できんよ」

 アズマイルは装置からクラリエの魔石を取り出し、代わりにミレイアのものをセットした。

 同じようにボタンを押すとブザーが鳴り、そしてガラスの向こうに炎が噴き出した。

 しかし――。

「普通だな。君の評判に対してあまりにも普通だ」

 噴き出した炎は強くもなければ弱くもない、ごく一般的といった威力のそれであった。

 先程隠そうとしたのはこの為のようで、ミレイアはしょんぼりと肩を落とす。

「すみません。昨日から体調が優れなくて」

「何、謝ることはないさ。君もシャノンの件で相当に心労が溜まっているのだろう。そこまで妹のことを想ってくれる人がいるなんて、むしろ嬉しい限りだよ」

 アズマイルはふと柔らかな表情を見せていた。

 そんな中、クラリエは先程自分が魔法を込めた魔石を手に取っていた。

「ところでアズ先生、この魔石ですが処分させてもらっても?」

「ん、何か不都合でも?」

「私も公的組織の一員ですので、自分の魔法能力を外部に残しておけないんです」

「まあ、そういう事情ならば仕方ない。本当は今後の燃焼実験に使わせてもらおうと思ってたんだがね」

 アズマイルは残念そうに笑った。

 許諾を得たクラリエは魔石を床に置き、右手を掲げて力を集中させる。やがて掌には冷気が集まり、透明な塊が実を結んだ。氷魔法である。

 魔石よりも大きなサイズまで成長したところで、それを魔石に向かって解き放つ。

 衝突したそれらは激しい音を立てて弾け飛び、砕けた魔石はみるみるうちに不透明で真っ黒な塊へと姿を変えていった。

「砕けて力を失った魔石はこんな風に真っ黒に変色するんだよな。相変わらず訳の分からん物質だよ」

 欠片を拾って手の中で転がしながらアズマイルは呆れたようにそう笑った。


 アズマイルの研究室からの帰り道、辺りはすっかり薄暗くなっていた。風が少し肌寒く、クラリエは身を震わせた。

 間もなく日が沈む時間だ。もうすっかり暗くなるのも早くなってきたと感じる。

 ふと気が付くと後方を歩いていたはずのミレイアは足を止め、沈みゆく太陽の方角を向いていた。瞼を閉じて両の指を組み、言葉を紡ぐ。

「神聖なるリートの炎よ――」

 二十秒程度経っただろうか。ミレイアはぱちりと眼を開けた。昼に礼拝堂で見たときよりも幾分あっさりと終わったように感じる。

「お祈りってそんな簡素な形でもいいんだ。てっきり夜も礼拝堂まで行くものだと思ってた」

「リートのお住まいさえ礼拝できれば場所はそこまで重要じゃない。礼拝堂へ赴くのは時間があるときだけ」

「お住まい?」

 ミレイアはフラットな表情のまま、手全体を使って「あちらです」の要領で空を指し示す。そこにはまさに今沈もうとしている太陽があった。

「リートは死後、あの太陽に昇って世界を照らす炎となったとされている。だから私達はあの場所をリートがいらっしゃる聖域としているの」

 思い返せば、ミレイアと初めて出会ったあの礼拝堂の天窓からも陽光が覗いていた。

 ついさっき太陽を手全体で示したのもそのためだろう。相手が誰であれ指差すのは失礼だし、それが彼女の信奉する主神の住処であるなら尚更だ。

「私達は一日三回、すなわち日の出、正午、日の入りの頃にそのお住まいへ向かって祈りを捧げるのが決まりだから」

 その太陽の上弦が遥か彼方にある山の峰に差し掛かり、目を覆いたくなるほど鋭い斜陽が差す。

「ただ……」

 ぽつりと呟いたミレイアの顔にはやや陰りが見えた。きっとこれは日没の仕業ではないだろう。

「昨晩から、いくら祈ってもリートが道を示してくれないんだ……」

「……どういうこと?」

「私が祈るとき、目を閉じていればリートの炎が瞼の裏に浮かんでいた。炎が揺らめいて、その形を変えて、進むべき方向を示してくれた。私の心の迷いを焼き払ってくれた。でも今は真っ暗なだけで炎なんて何も見えないんだ」

 同じ光景を何となくイメージしてみた。真っ暗な闇に浮かぶひとつの炎。それは道を照らす灯火であり、行く先を示す羅針盤だ。彼女にとってある種の占いのようなものだろう。

「まるで……あの場所には既にリートがいらっしゃらないみたいで、不安で仕方ない。でもこんな事誰にも言えなくて」

 ミレイアは沈みゆく太陽を見つめながらそうぼやく。

「この騒動で貴方も疲れているのよ。さっきの研究室での実験もそうだけど、きっと集中力が散漫になっているだけ。私が必ず解決するから、今はしっかり休みなさい」

 今までミレイアが寄る辺にしてきたその指標が失われるのはさぞかし憂うことだろう。

 逆に言ってしまえばミレイアはそれに依存し過ぎており、今の彼女は精神的に相当に脆い可能性がある。これ以上捜査に首を突っ込まれるのは得策ではないかもしれないと考えていると、ミレイアは言葉を発した。

「それで、この後はどうするの?」

「これ以上暗くなったら捜査も難しいし、学園を出てホテルでも探して、明日に備えるつもりよ」

 だったら、と間を空けずミレイアはこう提案した。

「私の部屋に泊まったら? ここからだと街のほうまでは結構時間かかるし、どうせ明日も学園内で捜査するんでしょう?」


 ミレイアに連れられてやって来たのは、年季の入った三階建てのかなり古臭い棟だった。

 学園内には学生寮がいくつか存在しており、学外の賃貸物件よりも格安で借りることができるが、ここはその中でも飛び抜けて安価なグレードの女子寮だった覚えがある。

 ミレイアの部屋はそんな建物の一階に位置していた。シャノン・ブーケの怪我に伴って一階に移動したのかと思ったがそうではないようで、入寮した当初からずっとここを使っているそうだ。

「おじゃまします……」

 部屋は想像以上に狭く、二段ベッドと二組の学習机が置いてあるだけでほとんど埋まっていると言っても過言ではない。必要最低限の生活が営めるだけのスペースが確保されているだけと言い換えることさえできる。

「寮の相部屋ってこんな感じなのね……」

「クラリエは在学中、寮暮らしじゃなかったの?」

「いや、学外で賃貸を借りてたから」

 寮を借りる学生は基本的に二、三人の相部屋で生活を送ることとなる。どうしても他者との共同生活が嫌な者は多少の不便を取ってでも学外の賃貸を契約するものなのだが、クラリエもそのクチだった。

「ベッドは下の段を使って。シーツは新しいのに替えてあるから」

 そう言われたものの、やはり躊躇われる。つい先日までシャノン・ブーケが使用していたベッドだ。何も潔癖だからという訳ではない。亡くなった方が使っていた手前、それをそのまま使うのはどうしても罰当たりなように思えてしまうのだ。

「いや、やっぱり私は別のところに行くよ。シャノンさんにも悪いしさ」

「これは貴方のためでもあるし、同時にシャノンのためでもあるの。あの子の行方を解明できるのは貴方だけ。倒れられたら困るもの」

 利己的ではあるが、確かに今日一日だけでかなり疲労を覚えているため申し出そのものは有難かった。そこまで言うものだから、クラリエは了承することにした。

 その後寮のシャワーを借りて汗を流したのち、共用のキッチンで軽い夕食(といってもやはりミレイアの食べる量はかなりのものだったが)を摂った。

 事件は解決の糸口を掴めてもいない。明日に備えて早めに休むべきだろう。部屋に戻るとミレイアは軽やかにベッドの二段目へと上がる。

 クラリエもぎこちなくベッドに腰をかける。硬いマットレスはあまり沈み込まず、反発してくる。

「さて、ここからどうしたものか……」

 上段に届かないよう小さく呟く。一向に横になろうとしないクラリエの様子を見かねたのか、ミレイアは上から顔を覗かせる。

「やっぱり寝られない? どうしてもと言うのであれば私が下で寝てもいいけど」

「いえ大丈夫、別の考え事をしていただけ」

「そう、じゃあおやすみ」

 そう言ってミレイアは電気を消そうと電灯の紐に手を伸ばす。

「ちょ、ちょっと待って!」

「……まだ何かやることがあった? 私はできれば早めに眠りたいんだけど」

「いや、そういう訳ではないんだけど……」

 クラリエはもごもごと歯切れ悪く、口籠もってしまう。

 ああ、これだから他の人と同じ部屋に寝泊まりするのは苦手なのだ。

 やがてミレイアはベッドからするりと降りて顔を突き合わせてくるが、つい視線を逸らしてしまった。

「遠慮なんていらないから、何かあるなら私に言って」

「……笑わないでくれる?」

「約束する」

 ミレイアの表情は相変わらず変化に乏しいものだったが、真剣そのものだった。

 その強い眼差しにあてられて、クラリエはとうとう折れた。

「私、真っ暗で閉めきられた部屋が本当に駄目なんだ。絶対に電気を点けたままでないとどうしても寝られなくて。だから、どうしても消してほしくないんだ」

 ただの暗い夜道ならいい。閉め切った密室も別に平気だ。だが、暗所と閉所の両方が揃った途端どうしても駄目になってしまうのだ。

 それがクラリエの弱点でもあり、人に言えない秘密だった。

 正直なところ、言葉にしてみれば相当に子供っぽくてかなり恥ずかしい。この秘密を打ち明けたのはこれが初めてで、どうにも顔から火が出そうなほど熱かった。

 しかしミレイアは表情ひとつ変えることなく「わかった」と答えた。

「笑わないの?」

「さっき約束したじゃない。なんで笑う必要があるの。誰にだって苦手なことのひとつやふたつくらいあるもの」

 それだけ言うとミレイアはベッドの二段目へと戻り、掛け布団を被る布擦れの音だけが聞こえた。ああ、何も言わずに理解してくれてただ本当に有難い。

 眩しく輝く電灯を瞼に焼き付けたまま、やがてクラリエも深い眠りへと沈んでいった。

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